カテゴリ「ネタ」に属する投稿[156件]
バックアップを残しておくよ #翼角 #小咄
>760満足度の高い書きかけの翼角の縮図(無道不在)
>満足度の高い本編正史後のナナ月
>確か月影に作らせたチャーハン食ってフェラもさせるナナキが見たかったやつ
『ナナキ』
午睡から呼び戻したのは、水面に輪を描くような密やかな声だった。
半分、瞼を開く。灰色の景色がぼやけている。記号としての人と人と人、それから人。そういうものを肉を持ち血を流す生き物だと認識するまで暫しかかる。唯一黒板の前で低い声で喋り続ける無道だけは異質として映るが、それも足元にまろび出た路傍の石程度に過ぎない。響く声の主の姿など、六限目の教室の中にはなかった。
呼ばれたナナキは当然弁えている。唯、声にも思考にも言葉を乗せず何かと問い返す。ここにはいない影が答える。
『夕飯は何が食べたい』
『ムツキの奴いないのか?』
ここでようやく、形として声なき言葉で返した。表面上はくあ、と欠伸をこぼす。一瞬、無道の視線を感じたが無視する。もしかするとナナキの脳内の会話も拾っているのかも知れない。
窓の外を見る。会話の相手の姿が見えるわけではないが、近くにいる気配はない。ここから見える屋上か、そこらに見える樹木の影か。いずれにせよ呼べば須臾の間もなく現れるだろう存在の居場所を確かめる必要もなかった。
頷くような気配がある。目に見えるわけでも音で聞こえるわけでもないが理解できる。相手は薄紙一枚向こうの世界にいてナナキは物質ありきの世界にいるがそれでも繋がっている。それだけの話である。
『今晩は帰らないから夕飯は好きにしてくれと』
『ふーん』
ゼミで缶詰か、サークルかバイト仲間との飲み会か合コンか。はたまた彼女か、もしくは――彼氏か。実に興味がない。全く興味がない。
ムツキは従兄弟にして現在のナナキの住居の家主であるが――と言うと御影ムツキは憤慨するだろう、実態は承諾なく勝手にナナキが居着いているだけなのだから――いる、もしくはいない、稀に今日は帰ってくるな、の三択程度の存在である。帰ってくるな、の場合はムツキが彼女だか彼氏だかを家に連れ込む腹積もりだと知っているため、ナナキは大人しく本家に帰るなりして寝床を変えるようにしている。何せムツキが精いっぱい張り切っている様は滑稽で面白いので。
とりあえず今日は三択の内『いない』の日らしい。朝も顔を合わせたはずだが、ナナキの知らないムツキの予定を声なき会話相手は知っている、というのもどうだろう。戯れに人間らしく案じるにそう思う。人間であるナナキより、人外の存在に日常を言付ける従兄弟殿は恐らく自覚なく深刻にバグっている。しかも台所を任せると。鬼に。
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>すごく本編中のななやま
上機嫌に鼻歌など歌う少年は微笑ましく見えるだろう――自分を見下ろして、あまつさえシャツに手をかけていなければ。
大和は前を開こうとする相手の手を押さえて喚いた。
「待て待て、なんでこうなるんだよ!」
「なんでって、人生は短いから?」
早く楽になりたいならこれが手っ取り早いって。相変わらず歌うようにナナキは手を動かす。小柄に見えるナナキだが存外に力は強く、大和の抵抗などそよ風ほどにも感じていないようだった。終いにはバサリとシャツの前を全て開かれて、大和は寒々しさと無常な衣擦れの音にヒッと悲鳴を上げた。
救いなどないのか。コンクリートの触れる背中は冷たいしナナキは笑っているし彼の向こうに広がる空は青いしじっと直立している月影は相変わらず表情がないし――ないし?
「ちょっ、なんであんたいるんだよ!」
「……ナナキが下がれと言わないから」
答える月影の声に感情らしい感情はない。彼はいつもそうだ。名の通り、月のようにひっそりと、常にナナキの傍らに控えている。
だがしかし、こんな時までそれは変わらないのか? いや見られたくないとかこの行為を認めている訳ではなく、ナナキを止めろと思っている訳でもなく――だって月影はナナキの行動を否定しないと大和だってとうに知っているし――ただいつもと変わらない月影の声が少しだけ低く聞こえたのは大和の希望による錯覚だろうか。
月影はかつて何と言ったか。『俺はナナキを愛しているし憎んでいる、殺したいほど』?
月影とナナキの関係も愛憎の種類も大和の知るところではない。だが何だろう、この寒々しさは。
ナナキに押し倒されているから。コンクリートと空気が冷たいから。そうではない。
空を背に佇む月影と、月影など意にも介さず大和を見下ろして笑うナナキの姿に途方もない違和感がある。その正体はわからない――恐らく今の大和には。
閉じる
>なぜか140字SSしかないおみやま
いつの間にかいつも隣にいるようになっていた。
最初に指摘したのは鬼道で、あいつはそれが役目だから、なんて答えていたと思うけど。
なあ真宮、お前がちょっとおかしいってことぐらい、俺にだってわかるんだぞ。無事で良かった、なんて爪を立てるほど抱き竦められて、俺の気持ちは全然無事じゃない。
おみやま『見えないサイン』
https://shindanmaker.com/375517
担いだ体の軽さにぞっとした。肉体ではなく、魂、霊的に見て本郷大和という人間は存在しない。そこまで稀薄になっている。元々色のない特異な存在ではあったが今は存在自体が危うい。
奥歯を噛む。玄和に任せている赤い目の七匹目。或いは――それでも、あの神気取りの鬼だけは己の手で縊ってやりたい。
真宮くんと本郷くん『神様なんていない』
https://shindanmaker.com/375517
→https://yomygod.blog.shinobi.jp/Entry/59... 後
痛、という声にハッとした。
本郷が茶色の髪をシーツに散らし眉を顰めて俺を見上げていた。俺の手は本郷の手首をそれぞれ掴んでシーツに縫い留め、下肢は膝を抑え込んでいる。薄影に見える本郷の、襟元から覗く首筋に赤い噛み跡がある。――誰の。
理解した瞬間、体が、血が、氷のように冷えていく。
貴方はおみやまで『美味しそうに見えた、なんて末期だ』をお題にして140文字SSを書いてください。
https://shindanmaker.com/587150
閉じる
>なんでやねんひせげつ
セックスしないと出られない部屋。
掲げられた看板を読み上げ、一匹の鬼は呵々と笑った。陽光のようにぎらぎらとした鬼である。成程真白く凹凸のない空間に窓はなく、看板下に扉が一つ据えられるのみである。真に出られないのか否か、確かめる必要はないだろう。
対してもう一匹の鬼は無言。月のようにひそりとした鬼はただ隣の鬼を窺う。笑う鬼が視線だけで応えてやれば、するりとそちらへ身を寄せた。陽の鬼は笑うばかりで何もせず、月の鬼は少しだけ焦れを含んだ指先で陽の鬼の着物を引いた。引かれるがまま陽の鬼は胡座をかいて座り込み、月の鬼は膝の上に腰を下ろす。
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>760満足度の高い書きかけの翼角の縮図(無道不在)
>満足度の高い本編正史後のナナ月
>確か月影に作らせたチャーハン食ってフェラもさせるナナキが見たかったやつ
『ナナキ』
午睡から呼び戻したのは、水面に輪を描くような密やかな声だった。
半分、瞼を開く。灰色の景色がぼやけている。記号としての人と人と人、それから人。そういうものを肉を持ち血を流す生き物だと認識するまで暫しかかる。唯一黒板の前で低い声で喋り続ける無道だけは異質として映るが、それも足元にまろび出た路傍の石程度に過ぎない。響く声の主の姿など、六限目の教室の中にはなかった。
呼ばれたナナキは当然弁えている。唯、声にも思考にも言葉を乗せず何かと問い返す。ここにはいない影が答える。
『夕飯は何が食べたい』
『ムツキの奴いないのか?』
ここでようやく、形として声なき言葉で返した。表面上はくあ、と欠伸をこぼす。一瞬、無道の視線を感じたが無視する。もしかするとナナキの脳内の会話も拾っているのかも知れない。
窓の外を見る。会話の相手の姿が見えるわけではないが、近くにいる気配はない。ここから見える屋上か、そこらに見える樹木の影か。いずれにせよ呼べば須臾の間もなく現れるだろう存在の居場所を確かめる必要もなかった。
頷くような気配がある。目に見えるわけでも音で聞こえるわけでもないが理解できる。相手は薄紙一枚向こうの世界にいてナナキは物質ありきの世界にいるがそれでも繋がっている。それだけの話である。
『今晩は帰らないから夕飯は好きにしてくれと』
『ふーん』
ゼミで缶詰か、サークルかバイト仲間との飲み会か合コンか。はたまた彼女か、もしくは――彼氏か。実に興味がない。全く興味がない。
ムツキは従兄弟にして現在のナナキの住居の家主であるが――と言うと御影ムツキは憤慨するだろう、実態は承諾なく勝手にナナキが居着いているだけなのだから――いる、もしくはいない、稀に今日は帰ってくるな、の三択程度の存在である。帰ってくるな、の場合はムツキが彼女だか彼氏だかを家に連れ込む腹積もりだと知っているため、ナナキは大人しく本家に帰るなりして寝床を変えるようにしている。何せムツキが精いっぱい張り切っている様は滑稽で面白いので。
とりあえず今日は三択の内『いない』の日らしい。朝も顔を合わせたはずだが、ナナキの知らないムツキの予定を声なき会話相手は知っている、というのもどうだろう。戯れに人間らしく案じるにそう思う。人間であるナナキより、人外の存在に日常を言付ける従兄弟殿は恐らく自覚なく深刻にバグっている。しかも台所を任せると。鬼に。
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>すごく本編中のななやま
上機嫌に鼻歌など歌う少年は微笑ましく見えるだろう――自分を見下ろして、あまつさえシャツに手をかけていなければ。
大和は前を開こうとする相手の手を押さえて喚いた。
「待て待て、なんでこうなるんだよ!」
「なんでって、人生は短いから?」
早く楽になりたいならこれが手っ取り早いって。相変わらず歌うようにナナキは手を動かす。小柄に見えるナナキだが存外に力は強く、大和の抵抗などそよ風ほどにも感じていないようだった。終いにはバサリとシャツの前を全て開かれて、大和は寒々しさと無常な衣擦れの音にヒッと悲鳴を上げた。
救いなどないのか。コンクリートの触れる背中は冷たいしナナキは笑っているし彼の向こうに広がる空は青いしじっと直立している月影は相変わらず表情がないし――ないし?
「ちょっ、なんであんたいるんだよ!」
「……ナナキが下がれと言わないから」
答える月影の声に感情らしい感情はない。彼はいつもそうだ。名の通り、月のようにひっそりと、常にナナキの傍らに控えている。
だがしかし、こんな時までそれは変わらないのか? いや見られたくないとかこの行為を認めている訳ではなく、ナナキを止めろと思っている訳でもなく――だって月影はナナキの行動を否定しないと大和だってとうに知っているし――ただいつもと変わらない月影の声が少しだけ低く聞こえたのは大和の希望による錯覚だろうか。
月影はかつて何と言ったか。『俺はナナキを愛しているし憎んでいる、殺したいほど』?
月影とナナキの関係も愛憎の種類も大和の知るところではない。だが何だろう、この寒々しさは。
ナナキに押し倒されているから。コンクリートと空気が冷たいから。そうではない。
空を背に佇む月影と、月影など意にも介さず大和を見下ろして笑うナナキの姿に途方もない違和感がある。その正体はわからない――恐らく今の大和には。
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>なぜか140字SSしかないおみやま
いつの間にかいつも隣にいるようになっていた。
最初に指摘したのは鬼道で、あいつはそれが役目だから、なんて答えていたと思うけど。
なあ真宮、お前がちょっとおかしいってことぐらい、俺にだってわかるんだぞ。無事で良かった、なんて爪を立てるほど抱き竦められて、俺の気持ちは全然無事じゃない。
おみやま『見えないサイン』
https://shindanmaker.com/375517
担いだ体の軽さにぞっとした。肉体ではなく、魂、霊的に見て本郷大和という人間は存在しない。そこまで稀薄になっている。元々色のない特異な存在ではあったが今は存在自体が危うい。
奥歯を噛む。玄和に任せている赤い目の七匹目。或いは――それでも、あの神気取りの鬼だけは己の手で縊ってやりたい。
真宮くんと本郷くん『神様なんていない』
https://shindanmaker.com/375517
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痛、という声にハッとした。
本郷が茶色の髪をシーツに散らし眉を顰めて俺を見上げていた。俺の手は本郷の手首をそれぞれ掴んでシーツに縫い留め、下肢は膝を抑え込んでいる。薄影に見える本郷の、襟元から覗く首筋に赤い噛み跡がある。――誰の。
理解した瞬間、体が、血が、氷のように冷えていく。
貴方はおみやまで『美味しそうに見えた、なんて末期だ』をお題にして140文字SSを書いてください。
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>なんでやねんひせげつ
セックスしないと出られない部屋。
掲げられた看板を読み上げ、一匹の鬼は呵々と笑った。陽光のようにぎらぎらとした鬼である。成程真白く凹凸のない空間に窓はなく、看板下に扉が一つ据えられるのみである。真に出られないのか否か、確かめる必要はないだろう。
対してもう一匹の鬼は無言。月のようにひそりとした鬼はただ隣の鬼を窺う。笑う鬼が視線だけで応えてやれば、するりとそちらへ身を寄せた。陽の鬼は笑うばかりで何もせず、月の鬼は少しだけ焦れを含んだ指先で陽の鬼の着物を引いた。引かれるがまま陽の鬼は胡座をかいて座り込み、月の鬼は膝の上に腰を下ろす。
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🌊へのお誕生日おめでとうありがとうございます😊🙏💥💥
お察しの通り7️⃣に「お誕生日なのでナナオを差し上げます😘🙏」されてデコピン笑顔で拒否し祝いの言葉を下さるマッマには感謝の礼を尽くし夜には🐻としっぽり酒を飲みますヤッタネ!☔️🌾義弟sからも祝いの品が届くし(☔️)辿々しい字で「おめでとう」って書いた文が届きます(🌾) #トウジンカグラ
お察しの通り7️⃣に「お誕生日なのでナナオを差し上げます😘🙏」されてデコピン笑顔で拒否し祝いの言葉を下さるマッマには感謝の礼を尽くし夜には🐻としっぽり酒を飲みますヤッタネ!☔️🌾義弟sからも祝いの品が届くし(☔️)辿々しい字で「おめでとう」って書いた文が届きます(🌾) #トウジンカグラ
ティル(カイル・ゼアライル)+ストラル・ゼアライル #リボ #創作HBD

ティル
華安暦三七七二年夏盛月六の日生まれ。
反政府組織「黎明軍」義勇兵。本編時16歳。
少年ながら前線部隊に加わる矛使い。性格は明るく、黎明軍の盛り上げ役。実際は現実主義者であり、内心では冷めた目で物事を見ている。カイを黎明軍に引き入れた張本人であり、彼に対して既視感を覚える。
正体は連合政府の間諜であり、統一戦争時の政府軍軍主ストラル・ゼアライルの一人息子カイル・ゼアライル。幼少時に英雄として没した父には複雑な感情を抱えている。朧気な記憶だが父の食客であったカイとは既知の仲。
080105 あけはとおくいまだむらさき #小咄
窓を開ける。途端、冷たい空気が部屋の中へと流れ込み、蝋燭の炎を揺らめかせた。
試しに吐いた息は夜明け前の薄闇に白く消える。その白を認め、もう明かりは必要ないかと室内を振り返った。まず目に入るのは筆やら料紙やらで散らかった卓、その上で忙しなく小首を傾げる一羽の鳩。
腕を伸ばせば鳩はばさりと羽ばたいて飛び移ってきた。そのまま目の高さまで腕を持ち上げると、安定を求めるかのように鳩は腕の上を危うげに行き来する。爪が着物の袖に食い込むが、寒さをしのぐための厚着していたため痛くはない。やがて手の甲に落ち着いた鳩に苦笑しながら腕を窓の外へとやる。
「ほら――」
短く促す。やはり何度も首を傾げながら鳩は外の世界を見つめ、次の瞬間に綿羽を散らしながら羽ばたいた。追って薄紫の空へと視線を向ければ、黒い影として浮き立つ木々の間へと姿を消す。塒か何かだろうか。いずれにしろこれで自分の用事は済んだ。
長く息を吐いて肩の力を抜けば、視線の先はまた一瞬、白く染まる。朝未だき。日の出を待つには少々早い。そうでなくても夜を徹して用事を終わらせたのだ、睡眠を欲しているのか身体が重い。ぐるりと肩を回せばばきばきと音がした。やはり少し眠ったほうがいいだろう。今度は首を回しながら床へと向かう。そう、少しでもいいから眠らなければ。今日は確か、朝から――
「……あ」
ぴたり。零れた声と同時、止まる足。ぐるりと通り過ぎたばかりの卓を振り向いた。
散らかった筆にくしゃくしゃの料紙、乾きかけた硯、の、隣りに。用事を始める前、つまり昨晩、わざわざ中身を温めておいた徳利と、杯。自然と溜め息が落ちる。結局用事に没頭してすっかり忘れてしまっていた。長くかかりそうだったから、温かい酒でも飲みながらと思ったのに。
徳利を手に取ればすっかり冷たくなっていた。仕方なく冷たい酒を杯に注ぐ。普段は茶で済ますところを、わざわざ酒を選んだのだ。飲み忘れていたからといって再び仕舞い込むのも馬鹿らしい。何よりわざわざ用意しただけあって、今日飲まなければ意味がない。ちゃぷんとちいさく、澄んだ液体が杯で撥ねる。香りに定評のある特急品“吟清華”、冷でやるのが一般的だからかえってよかったのかも知れないが。
窓へと目を向ける。空は未だ、薄い紫。恐らく今この時間に日の出を待っている連中、宴もたけなわといった体で酒に溺れている連中も多いだろう。
なんせ今日は。年初月初日、いわゆる元日なのだから。
未だ昇らぬ朝日へと杯を掲げる。唇はちいさく、故郷の言葉を。
「……我らが道に、至高の光のあらんことを」
日が昇れば年始の集まりへと赴かなければならない。その場では故郷の礼を捨てることになる。大半の連中が夜中のうちに出来上がりきっていて礼もしきたりも関係ないのだが、幾人かは聞きとがめるだろう。出身を悟られるのは極力避けたい。ごろつき紛い、故郷もばらばらで、更には本名を隠しているような連中の集まりとはいえ。
かったるいな、内心で呟きながら杯に口をつける。すっきりとした味わい、けれどもざらりとした不快なものが残った。……当然だ。空になった杯を卓に置いて自嘲する。
何が“至高の光のあらんことを”、だ。年明けからこんなことに勤しんでいるというのに。
先ほどの鳩が飛び込んだ木の影を見つめる。やはり薄い紫に浮き立つ影は、どこか禍々しい。
じっと睨みつけていると、じわり、視界の端が滲んだ。目が乾燥してきたらしい。
ふわあと気の抜けた欠伸でごまかす。考えても仕方ない。とりあえず、一眠りしよう。朝になればどうせ誰かが起こしに来て、そのままずるずると軍主どのの家まで連れて行かれるのだから。それまでに、“いつもどおりの自分”に戻らなければ。
窓に背を向け、今度こそ床へと向かう。
背後、窓の外の空は未だ薄い闇。夜明けは少しばかり、遠い。
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ストラル・ゼアライル
華安暦三七四九年夏盛月八の日生まれ。
前華安統一政府連合軍軍主、当時の白軍白将。本編時は故人であり享年29歳。
華安統一戦争において、戦場を駆け名を馳せた英雄。政府連合軍軍主だったが、その真摯な姿勢は敵味方を問わず多くの人間に影響を与えた。風土病である風紋病に侵されており、統一戦争終結直前に病死。
カイの虚無感を見抜き、個人の食客として迎え入れていた。家族同然に接する仲で最も信を置き、カイからも信頼を寄せられていた。
2007以前 主従の会話 #小咄
「大人にはなりたくねぇんだ」
床に胡座を掻き、背中合わせに武器の手入れをしていた二人、のうち、赤毛の方が呟いて。
「いい大人が何言ってんですか」
小柄な金髪の方がバッサリと返す。碧の瞳は掌中の鉄扇だけを捕らえて小揺るぎもしない。
赤毛の方は剣を置き、唇を尖らせながら振り向く。
「カイちゃん、冷たい」
「次そんな呼び方したら戦場出た時どさくさに紛れて背後から斬りつけますからね」
(できないくせに)
(できたとしても決して殺せないくせに)
この小柄な金髪が赤毛を傷付けることは不可能だった。物理的に、なら一瞬で遂げられるのだが。精神的にの話。
金髪が振り向かないのをいいことに赤毛はひっそりと笑みを浮かべた。ちいさな背中を滑る金髪、その一房を手に掬い睦言を囁くように、けれども赤毛は脳内で喉元に突き付ける刃を描く。
「お前は“大人になる”ってどういうことだと思う?」
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ティル
華安暦三七七二年夏盛月六の日生まれ。
反政府組織「黎明軍」義勇兵。本編時16歳。
少年ながら前線部隊に加わる矛使い。性格は明るく、黎明軍の盛り上げ役。実際は現実主義者であり、内心では冷めた目で物事を見ている。カイを黎明軍に引き入れた張本人であり、彼に対して既視感を覚える。
正体は連合政府の間諜であり、統一戦争時の政府軍軍主ストラル・ゼアライルの一人息子カイル・ゼアライル。幼少時に英雄として没した父には複雑な感情を抱えている。朧気な記憶だが父の食客であったカイとは既知の仲。
080105 あけはとおくいまだむらさき #小咄
窓を開ける。途端、冷たい空気が部屋の中へと流れ込み、蝋燭の炎を揺らめかせた。
試しに吐いた息は夜明け前の薄闇に白く消える。その白を認め、もう明かりは必要ないかと室内を振り返った。まず目に入るのは筆やら料紙やらで散らかった卓、その上で忙しなく小首を傾げる一羽の鳩。
腕を伸ばせば鳩はばさりと羽ばたいて飛び移ってきた。そのまま目の高さまで腕を持ち上げると、安定を求めるかのように鳩は腕の上を危うげに行き来する。爪が着物の袖に食い込むが、寒さをしのぐための厚着していたため痛くはない。やがて手の甲に落ち着いた鳩に苦笑しながら腕を窓の外へとやる。
「ほら――」
短く促す。やはり何度も首を傾げながら鳩は外の世界を見つめ、次の瞬間に綿羽を散らしながら羽ばたいた。追って薄紫の空へと視線を向ければ、黒い影として浮き立つ木々の間へと姿を消す。塒か何かだろうか。いずれにしろこれで自分の用事は済んだ。
長く息を吐いて肩の力を抜けば、視線の先はまた一瞬、白く染まる。朝未だき。日の出を待つには少々早い。そうでなくても夜を徹して用事を終わらせたのだ、睡眠を欲しているのか身体が重い。ぐるりと肩を回せばばきばきと音がした。やはり少し眠ったほうがいいだろう。今度は首を回しながら床へと向かう。そう、少しでもいいから眠らなければ。今日は確か、朝から――
「……あ」
ぴたり。零れた声と同時、止まる足。ぐるりと通り過ぎたばかりの卓を振り向いた。
散らかった筆にくしゃくしゃの料紙、乾きかけた硯、の、隣りに。用事を始める前、つまり昨晩、わざわざ中身を温めておいた徳利と、杯。自然と溜め息が落ちる。結局用事に没頭してすっかり忘れてしまっていた。長くかかりそうだったから、温かい酒でも飲みながらと思ったのに。
徳利を手に取ればすっかり冷たくなっていた。仕方なく冷たい酒を杯に注ぐ。普段は茶で済ますところを、わざわざ酒を選んだのだ。飲み忘れていたからといって再び仕舞い込むのも馬鹿らしい。何よりわざわざ用意しただけあって、今日飲まなければ意味がない。ちゃぷんとちいさく、澄んだ液体が杯で撥ねる。香りに定評のある特急品“吟清華”、冷でやるのが一般的だからかえってよかったのかも知れないが。
窓へと目を向ける。空は未だ、薄い紫。恐らく今この時間に日の出を待っている連中、宴もたけなわといった体で酒に溺れている連中も多いだろう。
なんせ今日は。年初月初日、いわゆる元日なのだから。
未だ昇らぬ朝日へと杯を掲げる。唇はちいさく、故郷の言葉を。
「……我らが道に、至高の光のあらんことを」
日が昇れば年始の集まりへと赴かなければならない。その場では故郷の礼を捨てることになる。大半の連中が夜中のうちに出来上がりきっていて礼もしきたりも関係ないのだが、幾人かは聞きとがめるだろう。出身を悟られるのは極力避けたい。ごろつき紛い、故郷もばらばらで、更には本名を隠しているような連中の集まりとはいえ。
かったるいな、内心で呟きながら杯に口をつける。すっきりとした味わい、けれどもざらりとした不快なものが残った。……当然だ。空になった杯を卓に置いて自嘲する。
何が“至高の光のあらんことを”、だ。年明けからこんなことに勤しんでいるというのに。
先ほどの鳩が飛び込んだ木の影を見つめる。やはり薄い紫に浮き立つ影は、どこか禍々しい。
じっと睨みつけていると、じわり、視界の端が滲んだ。目が乾燥してきたらしい。
ふわあと気の抜けた欠伸でごまかす。考えても仕方ない。とりあえず、一眠りしよう。朝になればどうせ誰かが起こしに来て、そのままずるずると軍主どのの家まで連れて行かれるのだから。それまでに、“いつもどおりの自分”に戻らなければ。
窓に背を向け、今度こそ床へと向かう。
背後、窓の外の空は未だ薄い闇。夜明けは少しばかり、遠い。
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ストラル・ゼアライル
華安暦三七四九年夏盛月八の日生まれ。
前華安統一政府連合軍軍主、当時の白軍白将。本編時は故人であり享年29歳。
華安統一戦争において、戦場を駆け名を馳せた英雄。政府連合軍軍主だったが、その真摯な姿勢は敵味方を問わず多くの人間に影響を与えた。風土病である風紋病に侵されており、統一戦争終結直前に病死。
カイの虚無感を見抜き、個人の食客として迎え入れていた。家族同然に接する仲で最も信を置き、カイからも信頼を寄せられていた。
2007以前 主従の会話 #小咄
「大人にはなりたくねぇんだ」
床に胡座を掻き、背中合わせに武器の手入れをしていた二人、のうち、赤毛の方が呟いて。
「いい大人が何言ってんですか」
小柄な金髪の方がバッサリと返す。碧の瞳は掌中の鉄扇だけを捕らえて小揺るぎもしない。
赤毛の方は剣を置き、唇を尖らせながら振り向く。
「カイちゃん、冷たい」
「次そんな呼び方したら戦場出た時どさくさに紛れて背後から斬りつけますからね」
(できないくせに)
(できたとしても決して殺せないくせに)
この小柄な金髪が赤毛を傷付けることは不可能だった。物理的に、なら一瞬で遂げられるのだが。精神的にの話。
金髪が振り向かないのをいいことに赤毛はひっそりと笑みを浮かべた。ちいさな背中を滑る金髪、その一房を手に掬い睦言を囁くように、けれども赤毛は脳内で喉元に突き付ける刃を描く。
「お前は“大人になる”ってどういうことだと思う?」
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今城千尋 #翼角 #創作HBD

翼角高校2年2組。園芸委員。
委員会が同じ大和とよく話をするようになる男子生徒。
校則違反のアルバイトに勤しんでいるため生徒会に度々追い回されている。また校内の噂にはとことん疎い。
一部の人間にしか見えない、パジャマを着た小暮日向という半透明の少女が背後について回っている。
現在のバイト先は新聞及び牛乳配達と定食屋。愛用のママチャリで駆け抜けている。
無意識的且つ強迫的に金銭を稼いでいるが、「たくさんお金があれば日向の手術ができて元気になってまた一緒に遊べる」という年長時自身に擦り込んだ強烈な思考のため。日向が死没したショックで彼女の存在諸共忘れてしまっている。
バイト先の定食屋で着ぐるみ担当(?)として勤める男性に仄かに思いを寄せていたが…
尚、卒業後は専門学校に進学し、保育士になる。閉じる
2月18日の小倉和秀 #小咄
今城千尋が欠席した。
小倉和秀は朝のホームルームで、俄に驚愕していた。確かにあの、まるくてつややかな後ろ頭も、ほっそりした首筋も、少しだぶついて見える草臥れた学ランもまだ見ないなと思っていた。しかし教師が朝の出欠確認で明言するまで、和秀は千尋の欠席が信じられなかったのである。
和秀は千尋の幼馴染である。千尋が和秀のことを認識しているかは怪しいが――何せ相互理解を果たせるほど会話を重ねたことがない――小学校の六年間と中学校の三年間、そしてこの翼角高校に入学してからの二年、計十一年は同じクラスに籍を置いているのでそう呼んでも差し支えないはずである。
何なら、『い』まじょうと『お』ぐらで出席番号が連続し、然るに座席が縦並びになったことも多々ある。今現在の高校二年がそれで、和秀は空っぽの前の席をじっと見つめた。何度見ても誰も座っていない。
割りと雑なところがある千尋はプリントを回すときに振り向かずに手首の返しだけで回してくる。なのでよく和秀の手や顔をプリントの束が叩く。それが今日は一切なく、一列目の空席を飛ばして和秀が直接教師からプリントを受け取っている。
千尋の背中にくっついている半透明の少女が、授業中に不意に和秀に話しかけてくる。それもまた一切なく、眠たくなるような教師の声と、抑揚の急上昇と乱降下を繰り返す高校生たちの声しか聞こえない。
一日、放課後まで過ごして、それでも和秀は信じられなかった。何せ十一年の間で一度も、今城千尋は欠席をしたことがなかったのである。クラスでインフルエンザが流行って学級閉鎖になっても、通学中に自転車で事故に遭って腕を固定するような怪我をしても、今城千尋は一度も自己都合の欠席をしたことがなかった。
放課後のチャイムが鳴り、和秀はコートとマフラーを着込んで外に出る。創立記念文化祭が迫っているためか、顧問の教師が不在とのことで今日は部活もない。この機を逃すまいと部活仲間がカラオケに誘ってきたが、適当な理由をつけて断った。
和秀はコートのポケットに手を突っ込んで、覇気なく家路を辿る。和秀は徒歩通学である。今日は放課と同時に爆速で校門を飛び出していくママチャリの影も形もない。何となく見上げれば、透き通った青色に灰色の雲が輪郭を溶かして伸びている。空の端っこまで辿ればいつもの街並みがあって、海へと流れ込む河川があって、黄色っぽく低い草丈の堤防と、枯れて枝振りだけを晒す並木道と、それからたんぽぽの綿毛みたいな淡い色が見える。
淡い色がふわふわしている。堤防の斜面から辛うじて覗くそれは和秀が近寄るとぴょこんと飛び上がった。半透明だった。
『かずくんっ』
和秀は一度たりとも少女に名乗ったことはなかったが、千尋を『ちーちゃん』と呼ぶ少女はいつからか和秀のことをそう呼んでいた。つまり千尋の傍に現れる半透明の少女――彼女も和秀に一度たりとも名乗ったことはないが、一人称が名前のため言うまでもなく名を知っている――日向だった。
日向の大きな目は今にもこぼれそうになっている。半透明なだけでなく、瞳がゆらゆらと揺れている。少女がここにいるということは、当然千尋もすぐ近くにいるのだろう。日向は和秀の腕を引くような素振りを見せた。触れないので格好だけ。
『かずくん、ちーちゃんに、えっと、わかんない、わかんないけど、ちーちゃん、ちーちゃんが』
「落ち着け」
声を低めて囁いた。寂しい堤防の道には誰の姿もなかったが、きっと斜面の下には千尋がいる。そもそも誰も聞いていないとしても、見えない何かに話しかける不審な男子高校生の姿は危惧して然るべきである。
その程度の判断はできたが、落ち着け、と口にした和秀も内心焦っていた。十一年間で初めての欠席をした今城千尋と、見たこともないほどにうろたえる少女。何かあったのは間違いない。狼狽からなのか年齢のためか、日向は状況を説明することばを持っていない。しかしながら自分より混乱している人間――正しくは幽霊――がいると冷静になれるもので、和秀はゆっくりと深呼吸をした。
日向の隣を擦り抜けて、舗装された路面から低い草地、堤防の端へと歩み寄る。
見下ろせば、見慣れたまるい後ろ頭があった。
冬の深まるこの時期にコートもマフラーもなく、学ランだけを着た細いシルエット。愛用の自転車すら見当たらない。斜面に座り込んで、立てた膝を抱えて、視線は冬の河川へと注がれている。
あり得ない妄想をした。もしかしたらこのまま千尋が斜面を下り、河原まで下りて、そのままざぶざぶと水面に入ってしまうのではないかと思ったのだ。
何があった、と呟いた声が掠れていた。それでも日向は確かに聞き取って、幼く拙いことばを一生懸命に紡いだ。
『えっとね、きのうの、バイトでね、ちーちゃんはずっと気にしてたんだけど、ポンポコのひとが、ちーちゃんにね、ゆびわがあって、それで、すまないって出て行って、ちーちゃんが泣いちゃって、店長さんもみんなもなんにもいえなくて、ちーちゃんそれからずっと、元気なくて、ごはんもほとんど食べなくて、ねてなくて、朝のバイトもお休みして自転車も置いてきちゃって、ここにいるの』
和秀はきゅっと唇を引き結んだ。日向の説明は何一つ要領を得ないが、バイト先で何かあったことは明白だった。唐突な『ポンポコ』なる単語にも聞き覚えがある。千尋のバイト先に無駄に居座る着ぐるみである。着ぐるみの中の人間と何かあったのだろうか。指輪、すまない、ここが何もわからないが、その単語は和秀の胸の奥をざわざわと撫でた。
千尋のバイト先は、様々な偶然の末にたまたま知っている。そもそも翼角高校はアルバイトが禁止されているし、重ねて、和秀と千尋は共にいる時間が長いだけで互いを認識した会話などほとんどしたことがない。恐らく千尋本人より日向と意思疎通を図った時間の方が長いと断言できる。
千尋は学校という場所に、何も見出していない。十一年同じ空間で過ごしてきて、和秀は理解している。放課後のチャイムと共に待ちかねたとばかりに飛び出して、どこかであくせくと労働に精を出している。高校に入ってからは特に顕著だ。
つまり千尋には、和秀の知らない学校外のコミュニティや人間関係がある。
冬の堤防に座り込む後ろ姿が遠い。
それでも和秀は、一歩踏み出した。乾燥した空気に晒された草が、スニーカーの裏で潰れてクシャリと悲鳴を上げる。学ランの肩がちいさく揺れた。
構わずに進む。一歩、二歩。斜面を滑らないよう、足裏を踏み締める。進んでしまえば、遠い、なんてことはない。和秀の手の届くところに頼りない背中があって、だから和秀はそのまま隣に腰を下ろした。何も言わずにその横顔を見つめた。
千尋は、こちらを見なかった。ただ、隣に座るのが和秀だと認識しているようだった。何故ならこちらの名前を呼んだので。
「かずひで」
十一年の間で、一体何回呼ばれたことがあるだろう。
それほどに耳馴染みがなかった。少なくともこんなに掠れて、掻き消えて、なくなってしまいそうな声で呼ばれたことは絶対になかった。
「おう」
和秀は、それだけ応えた。どうした、とも、何があった、とも、言わなかった。ただ隣にいるだけだった。何も言えなかったのもあるし、それが正解のような気もしていた。ただじいっと、千尋の横顔を見ていた。
冬の空気に、千尋の赤らんで荒れた目元が目立つ。その瞳は傾き始めた太陽を暖色に反射する、川面の煌めきだけを映していた。瞳の端がきらきらと輝く。こぼれる。
「おれ、好きな人がいたんだ」
ほろほろとこぼれる。唇が震えて、笑う形に引き結ばれて、それが酷く不格好だった。
和秀は目を閉じた。そのまま腕を伸ばして、千尋の肩を向こう側から掴んだ。ぐっと引き寄せた。頼りない身体はそのまま倒れ込んで、和秀の胸のあたりに収まった。まるい頭がすぐ目の前にあった。十一年で一番近い距離だった。
「――そうか」
辛かったな、とも、元気出せよ、とも、言わなかった。それは絶対に不正解だと思った。ただぐっと、引き寄せた腕に力を込めた。学ランも、和秀の顎のあたりに触れる髪も、きんと冷えていた。それが温まるといいな、とだけ考えた。
胸の辺りで強張っていた身体が、ゆっくり、ゆっくりと、太陽が少し赤みを乗せるほどの時間をかけて解けていった。和秀の胸に、膝に、腕に重みが乗せられていった。だてに部活で鍛えているわけではない、和秀はひとつも揺るぐことなく、千尋を受け止めた。
やがて、ひっ、と喉が鳴った。和秀の喉ではなかった。それはだんだん小刻みになって、吸い込んで吐き出す度に震えて、耐えきれなくなって和秀のコートを掴んだ。これ以上ないぐらい抱き寄せて受け止めた。喉を、鼓膜を震わせる千尋の泣き声を、和秀は十一年で初めて聞いた。ただ両腕を回して、和秀は溢れる涙を受け止めていた。
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翼角高校2年2組。園芸委員。
委員会が同じ大和とよく話をするようになる男子生徒。
校則違反のアルバイトに勤しんでいるため生徒会に度々追い回されている。また校内の噂にはとことん疎い。
一部の人間にしか見えない、パジャマを着た小暮日向という半透明の少女が背後について回っている。
現在のバイト先は新聞及び牛乳配達と定食屋。愛用のママチャリで駆け抜けている。
無意識的且つ強迫的に金銭を稼いでいるが、「たくさんお金があれば日向の手術ができて元気になってまた一緒に遊べる」という年長時自身に擦り込んだ強烈な思考のため。日向が死没したショックで彼女の存在諸共忘れてしまっている。
バイト先の定食屋で着ぐるみ担当(?)として勤める男性に仄かに思いを寄せていたが…
尚、卒業後は専門学校に進学し、保育士になる。閉じる
2月18日の小倉和秀 #小咄
今城千尋が欠席した。
小倉和秀は朝のホームルームで、俄に驚愕していた。確かにあの、まるくてつややかな後ろ頭も、ほっそりした首筋も、少しだぶついて見える草臥れた学ランもまだ見ないなと思っていた。しかし教師が朝の出欠確認で明言するまで、和秀は千尋の欠席が信じられなかったのである。
和秀は千尋の幼馴染である。千尋が和秀のことを認識しているかは怪しいが――何せ相互理解を果たせるほど会話を重ねたことがない――小学校の六年間と中学校の三年間、そしてこの翼角高校に入学してからの二年、計十一年は同じクラスに籍を置いているのでそう呼んでも差し支えないはずである。
何なら、『い』まじょうと『お』ぐらで出席番号が連続し、然るに座席が縦並びになったことも多々ある。今現在の高校二年がそれで、和秀は空っぽの前の席をじっと見つめた。何度見ても誰も座っていない。
割りと雑なところがある千尋はプリントを回すときに振り向かずに手首の返しだけで回してくる。なのでよく和秀の手や顔をプリントの束が叩く。それが今日は一切なく、一列目の空席を飛ばして和秀が直接教師からプリントを受け取っている。
千尋の背中にくっついている半透明の少女が、授業中に不意に和秀に話しかけてくる。それもまた一切なく、眠たくなるような教師の声と、抑揚の急上昇と乱降下を繰り返す高校生たちの声しか聞こえない。
一日、放課後まで過ごして、それでも和秀は信じられなかった。何せ十一年の間で一度も、今城千尋は欠席をしたことがなかったのである。クラスでインフルエンザが流行って学級閉鎖になっても、通学中に自転車で事故に遭って腕を固定するような怪我をしても、今城千尋は一度も自己都合の欠席をしたことがなかった。
放課後のチャイムが鳴り、和秀はコートとマフラーを着込んで外に出る。創立記念文化祭が迫っているためか、顧問の教師が不在とのことで今日は部活もない。この機を逃すまいと部活仲間がカラオケに誘ってきたが、適当な理由をつけて断った。
和秀はコートのポケットに手を突っ込んで、覇気なく家路を辿る。和秀は徒歩通学である。今日は放課と同時に爆速で校門を飛び出していくママチャリの影も形もない。何となく見上げれば、透き通った青色に灰色の雲が輪郭を溶かして伸びている。空の端っこまで辿ればいつもの街並みがあって、海へと流れ込む河川があって、黄色っぽく低い草丈の堤防と、枯れて枝振りだけを晒す並木道と、それからたんぽぽの綿毛みたいな淡い色が見える。
淡い色がふわふわしている。堤防の斜面から辛うじて覗くそれは和秀が近寄るとぴょこんと飛び上がった。半透明だった。
『かずくんっ』
和秀は一度たりとも少女に名乗ったことはなかったが、千尋を『ちーちゃん』と呼ぶ少女はいつからか和秀のことをそう呼んでいた。つまり千尋の傍に現れる半透明の少女――彼女も和秀に一度たりとも名乗ったことはないが、一人称が名前のため言うまでもなく名を知っている――日向だった。
日向の大きな目は今にもこぼれそうになっている。半透明なだけでなく、瞳がゆらゆらと揺れている。少女がここにいるということは、当然千尋もすぐ近くにいるのだろう。日向は和秀の腕を引くような素振りを見せた。触れないので格好だけ。
『かずくん、ちーちゃんに、えっと、わかんない、わかんないけど、ちーちゃん、ちーちゃんが』
「落ち着け」
声を低めて囁いた。寂しい堤防の道には誰の姿もなかったが、きっと斜面の下には千尋がいる。そもそも誰も聞いていないとしても、見えない何かに話しかける不審な男子高校生の姿は危惧して然るべきである。
その程度の判断はできたが、落ち着け、と口にした和秀も内心焦っていた。十一年間で初めての欠席をした今城千尋と、見たこともないほどにうろたえる少女。何かあったのは間違いない。狼狽からなのか年齢のためか、日向は状況を説明することばを持っていない。しかしながら自分より混乱している人間――正しくは幽霊――がいると冷静になれるもので、和秀はゆっくりと深呼吸をした。
日向の隣を擦り抜けて、舗装された路面から低い草地、堤防の端へと歩み寄る。
見下ろせば、見慣れたまるい後ろ頭があった。
冬の深まるこの時期にコートもマフラーもなく、学ランだけを着た細いシルエット。愛用の自転車すら見当たらない。斜面に座り込んで、立てた膝を抱えて、視線は冬の河川へと注がれている。
あり得ない妄想をした。もしかしたらこのまま千尋が斜面を下り、河原まで下りて、そのままざぶざぶと水面に入ってしまうのではないかと思ったのだ。
何があった、と呟いた声が掠れていた。それでも日向は確かに聞き取って、幼く拙いことばを一生懸命に紡いだ。
『えっとね、きのうの、バイトでね、ちーちゃんはずっと気にしてたんだけど、ポンポコのひとが、ちーちゃんにね、ゆびわがあって、それで、すまないって出て行って、ちーちゃんが泣いちゃって、店長さんもみんなもなんにもいえなくて、ちーちゃんそれからずっと、元気なくて、ごはんもほとんど食べなくて、ねてなくて、朝のバイトもお休みして自転車も置いてきちゃって、ここにいるの』
和秀はきゅっと唇を引き結んだ。日向の説明は何一つ要領を得ないが、バイト先で何かあったことは明白だった。唐突な『ポンポコ』なる単語にも聞き覚えがある。千尋のバイト先に無駄に居座る着ぐるみである。着ぐるみの中の人間と何かあったのだろうか。指輪、すまない、ここが何もわからないが、その単語は和秀の胸の奥をざわざわと撫でた。
千尋のバイト先は、様々な偶然の末にたまたま知っている。そもそも翼角高校はアルバイトが禁止されているし、重ねて、和秀と千尋は共にいる時間が長いだけで互いを認識した会話などほとんどしたことがない。恐らく千尋本人より日向と意思疎通を図った時間の方が長いと断言できる。
千尋は学校という場所に、何も見出していない。十一年同じ空間で過ごしてきて、和秀は理解している。放課後のチャイムと共に待ちかねたとばかりに飛び出して、どこかであくせくと労働に精を出している。高校に入ってからは特に顕著だ。
つまり千尋には、和秀の知らない学校外のコミュニティや人間関係がある。
冬の堤防に座り込む後ろ姿が遠い。
それでも和秀は、一歩踏み出した。乾燥した空気に晒された草が、スニーカーの裏で潰れてクシャリと悲鳴を上げる。学ランの肩がちいさく揺れた。
構わずに進む。一歩、二歩。斜面を滑らないよう、足裏を踏み締める。進んでしまえば、遠い、なんてことはない。和秀の手の届くところに頼りない背中があって、だから和秀はそのまま隣に腰を下ろした。何も言わずにその横顔を見つめた。
千尋は、こちらを見なかった。ただ、隣に座るのが和秀だと認識しているようだった。何故ならこちらの名前を呼んだので。
「かずひで」
十一年の間で、一体何回呼ばれたことがあるだろう。
それほどに耳馴染みがなかった。少なくともこんなに掠れて、掻き消えて、なくなってしまいそうな声で呼ばれたことは絶対になかった。
「おう」
和秀は、それだけ応えた。どうした、とも、何があった、とも、言わなかった。ただ隣にいるだけだった。何も言えなかったのもあるし、それが正解のような気もしていた。ただじいっと、千尋の横顔を見ていた。
冬の空気に、千尋の赤らんで荒れた目元が目立つ。その瞳は傾き始めた太陽を暖色に反射する、川面の煌めきだけを映していた。瞳の端がきらきらと輝く。こぼれる。
「おれ、好きな人がいたんだ」
ほろほろとこぼれる。唇が震えて、笑う形に引き結ばれて、それが酷く不格好だった。
和秀は目を閉じた。そのまま腕を伸ばして、千尋の肩を向こう側から掴んだ。ぐっと引き寄せた。頼りない身体はそのまま倒れ込んで、和秀の胸のあたりに収まった。まるい頭がすぐ目の前にあった。十一年で一番近い距離だった。
「――そうか」
辛かったな、とも、元気出せよ、とも、言わなかった。それは絶対に不正解だと思った。ただぐっと、引き寄せた腕に力を込めた。学ランも、和秀の顎のあたりに触れる髪も、きんと冷えていた。それが温まるといいな、とだけ考えた。
胸の辺りで強張っていた身体が、ゆっくり、ゆっくりと、太陽が少し赤みを乗せるほどの時間をかけて解けていった。和秀の胸に、膝に、腕に重みが乗せられていった。だてに部活で鍛えているわけではない、和秀はひとつも揺るぐことなく、千尋を受け止めた。
やがて、ひっ、と喉が鳴った。和秀の喉ではなかった。それはだんだん小刻みになって、吸い込んで吐き出す度に震えて、耐えきれなくなって和秀のコートを掴んだ。これ以上ないぐらい抱き寄せて受け止めた。喉を、鼓膜を震わせる千尋の泣き声を、和秀は十一年で初めて聞いた。ただ両腕を回して、和秀は溢れる涙を受け止めていた。
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Day31「ノスタルジア」 #文披31題 #小咄
光が昇り、大地を照らす、焦がす、家路を辿るように沈みゆく。長い光が影を曳く。
直に夜が来る。風が吹き抜ける。頬を撫でて、前髪を掻き上げる。
空を見る。長い光の向こうが霞んで、淡い藍の裾が差し込まれる。
息を吸って、吐いて。想いを込めて、君の名前を紡ぐ。
君の声を聞く。この名前を呼ぶ声を。虫の声が溢れて流れていく、草葉が歌う。天に星が囁きを乗せていく。
夜に紛れる、灼けた匂い、噎せ返るほどの命の匂いを吸い込んで。
この足が進む。この手が掴む。戻りも迷いも忘れて、ただ一心に、君へと帰る。
君と私という、家路になる。
(/all)
ありがとうございました。
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光が昇り、大地を照らす、焦がす、家路を辿るように沈みゆく。長い光が影を曳く。
直に夜が来る。風が吹き抜ける。頬を撫でて、前髪を掻き上げる。
空を見る。長い光の向こうが霞んで、淡い藍の裾が差し込まれる。
息を吸って、吐いて。想いを込めて、君の名前を紡ぐ。
君の声を聞く。この名前を呼ぶ声を。虫の声が溢れて流れていく、草葉が歌う。天に星が囁きを乗せていく。
夜に紛れる、灼けた匂い、噎せ返るほどの命の匂いを吸い込んで。
この足が進む。この手が掴む。戻りも迷いも忘れて、ただ一心に、君へと帰る。
君と私という、家路になる。
(/all)
ありがとうございました。
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Day30「花束」 #文披31題 #小咄 #リボ
抜けるような青空を背負って、石塔が聳え立つ。見上げる程に高いそれをどう思っているのか、自分でもわからない。悲しい、とはもちろん違う気がするし、昔のような腹立たしさも、今はもうない気がする。畏れというには近すぎて、懐かしいと呼ぶには遠かった。
視線を天から前へと転じる。己が寝転がってもまだ余裕があるような供物台には、色とりどりの花がいくつも並んで埋め尽くされていた。一体華安のどこで育てられているのかわからないような豪奢な花々もあれば、ここまでの道中、山野の中でひそりと息づいているような楚々とした花も並んでいる。大なり小なり不揃いな花々は、それだけ様々な立場の人たちに偲ばれている証左だと思う。
そして己の供えるものといえば、何もない。使い込んだ革の手袋に覆われた手は空っぽだった。少年はあまりに大きな石塔の前にしゃがみ込んで、それから空っぽの両手を合わせた。
目を閉じて思う。何を、ということもない。だってわからない。だから少年は、日記でも記すように今の日々のことを心に綴る。今朝食べたもののこと、友人や仲間たちのこと、母がそちらにいるかどうか、これから自分はどこへ向かうのか。師にも兄にも似た青年から譲られた、古ぼけた肩布のこと。未だ頼りない背中に、背負おうと思うもののこと。
目を開く。やわらかな風が、ゆるりと渦巻く。色とりどり、大小様々の花が揺れて、ざわめいて、ちいさな花弁を零していく。
「――故人の偲び方は知ってるんだな」
少年が口を開いた。風と共に現れたのか、少年とも少女ともつかないちいさな人影が傍らにしゃがみ込んでいた。少年と同じように空っぽの両手を合わせて、じっと石塔を見上げている。
「知識としては知っているが、違う」見た目に反して、どこか古めかしい声が応えた。ちいさな翼を耳元で揺らし、ゆるりと少年へ視線を転じた。何よりも鮮やかで瑞々しいみどりいろが、命のざわめきを湛えていた。「お前の真似をしている」
は、と息を吐いた。じいと少年を見つめる瞳はきらきらと美しく、何か雄弁な笑みを口元に湛えている。みどりの現し身がこんな風に笑うのを、少年は初めて見た気がした。空っぽの背中はそのまま飛んで行けそうなのに、少年と同じように故人を前に丸まっている。
それだけで、ぎゅっと何かが込み上げてくる。腹の底を、心の臓を、喉元を。零れないように天を見上げる。石塔の天辺が青い空を背に佇んでいる。その姿が眩しくて、じわりと目元が熱くなる。空っぽの手のひらの代わりに、はらはらと透明な花びらが散っていく。みどりいろは何も言わずに、そっと少年に寄り添って目を閉じていた。まるでこの世にもうない声を聞くように、あるいは今初めて、この世に生まれた少年の産声を記憶するように。
(ティルとミドリ/風紋記)
仲間と共に父を背負う。
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抜けるような青空を背負って、石塔が聳え立つ。見上げる程に高いそれをどう思っているのか、自分でもわからない。悲しい、とはもちろん違う気がするし、昔のような腹立たしさも、今はもうない気がする。畏れというには近すぎて、懐かしいと呼ぶには遠かった。
視線を天から前へと転じる。己が寝転がってもまだ余裕があるような供物台には、色とりどりの花がいくつも並んで埋め尽くされていた。一体華安のどこで育てられているのかわからないような豪奢な花々もあれば、ここまでの道中、山野の中でひそりと息づいているような楚々とした花も並んでいる。大なり小なり不揃いな花々は、それだけ様々な立場の人たちに偲ばれている証左だと思う。
そして己の供えるものといえば、何もない。使い込んだ革の手袋に覆われた手は空っぽだった。少年はあまりに大きな石塔の前にしゃがみ込んで、それから空っぽの両手を合わせた。
目を閉じて思う。何を、ということもない。だってわからない。だから少年は、日記でも記すように今の日々のことを心に綴る。今朝食べたもののこと、友人や仲間たちのこと、母がそちらにいるかどうか、これから自分はどこへ向かうのか。師にも兄にも似た青年から譲られた、古ぼけた肩布のこと。未だ頼りない背中に、背負おうと思うもののこと。
目を開く。やわらかな風が、ゆるりと渦巻く。色とりどり、大小様々の花が揺れて、ざわめいて、ちいさな花弁を零していく。
「――故人の偲び方は知ってるんだな」
少年が口を開いた。風と共に現れたのか、少年とも少女ともつかないちいさな人影が傍らにしゃがみ込んでいた。少年と同じように空っぽの両手を合わせて、じっと石塔を見上げている。
「知識としては知っているが、違う」見た目に反して、どこか古めかしい声が応えた。ちいさな翼を耳元で揺らし、ゆるりと少年へ視線を転じた。何よりも鮮やかで瑞々しいみどりいろが、命のざわめきを湛えていた。「お前の真似をしている」
は、と息を吐いた。じいと少年を見つめる瞳はきらきらと美しく、何か雄弁な笑みを口元に湛えている。みどりの現し身がこんな風に笑うのを、少年は初めて見た気がした。空っぽの背中はそのまま飛んで行けそうなのに、少年と同じように故人を前に丸まっている。
それだけで、ぎゅっと何かが込み上げてくる。腹の底を、心の臓を、喉元を。零れないように天を見上げる。石塔の天辺が青い空を背に佇んでいる。その姿が眩しくて、じわりと目元が熱くなる。空っぽの手のひらの代わりに、はらはらと透明な花びらが散っていく。みどりいろは何も言わずに、そっと少年に寄り添って目を閉じていた。まるでこの世にもうない声を聞くように、あるいは今初めて、この世に生まれた少年の産声を記憶するように。
(ティルとミドリ/風紋記)
仲間と共に父を背負う。
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Day29「思い付き」 #文披31題 #小咄 #トウジンカグラ
夜闇がそっと退いて、淡い光が里を満たす頃に目が覚める。
それはうつくしい夜明けであり、野分のところの雌鳥が甲高い声を上げる、実に単純な朝の訪れでもあった。ついでに、普通、雌鳥は朝に鳴かないんだけどねえと、何かの折に不思議そうに呟いた紫燕の台詞を思い出す。
衣擦れの音に、伏したまま目を開く。逞しい背中が起き上がっている。この季節だからと裸身に長襦袢を被って横になったことを思い出す。辛うじて、と付け足さざるを得ないのは、この背中の持ち主に抱き込まれながらほとんど気を遣ったからだ。
二人で一枚を羽織ったので、背中が剥き出しな以上、襦袢は己にまだ被さっている。こちらがまだ眠っていると思っているのだ。伴侶が己より遅く目覚めたことは今までなかったことを思い出す。だから、朝の身支度をする背中は初めて見た。
剥き出しの背中には、細かな赤い引っ掻き傷が奔っている。野放図に伸びた髪が揺れながら、傷を撫でたり隠したりしている。男の手がその髪をまとめて掴む。いつものように結い上げるのだろう。気づいた瞬間、のっそりと起き上がっていた。襦袢が滑る衣擦れの音に気づかれるより早く、背中の傷を己の胸で覆った。腕を相手の胸に巻きつけて、閉じ込めて、まだ結われていない髪へと鼻先を突っ込んだ。
「穂群」
少しだけ驚いた響きを混ぜて、伴侶が名前を呼ぶ。染み入るような低い声が気持ちよくて目を閉じる。このままここで眠りたい。鼻先には硬い髪の感触が触れ、男の匂いが立ち込めている。深く息を吸って、肺いっぱいに吸い込む。
「……嗅ぐな」
「んー?」
首を傾げる。擽ったいのか、男の身体が震える。ほんのりと汗の混ざった、深い森のような、静かに佇む木々のような匂い。心地良い。吸って、吐いて、伴侶の首筋で息をする。
しばらくは諦めたように何も言わなかったが、やがて硬い膚の手のひらが己の腕を掴んだ。引き剥がされたくなくて、腕にはやんわりと力を込める。胸を背中に擦り寄せて、すると前の方から息を詰める音が聞こえる。己の胸の尖りがつんと膚を押しただけなのに。笑いそうになって、堪える。笑ったら怒られて、剥がされてしまうから。下肢を擦り寄せるのも堪える。怒られて押し倒されるのもいいけれど。
持ち主の手が諦めた髪にそっと触れる。束ねて掴んで、名残惜しく鼻先を埋める。唇で触れる。戸惑うような気配があるので、口を開く。目覚めたばかりで掠れた声になっている。
「結ってやる」
戸惑いが留まる。己は伴侶にいつも髪を結ってもらうが、己が伴侶の髪を結ったことはない。それを相手も知っている。こちらもわかっているので、見よう見まねで髪をまとめて、引っ張ってみる。
やがて諦めを含んだ吐息が聞こえた。被せるように笑った。楽しくて仕方がなかった。ぐちゃぐちゃに仕上がって、笑って、やっぱり諦めた顔の伴侶が今度はこちらの髪を手にするのはもうすぐ後。櫛が要るなと最後に囁いた声の重さを知るのは、この季節が終わる頃に。
(氷雨と穂群/トウジンカグラ)
某誕生日に続く。
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夜闇がそっと退いて、淡い光が里を満たす頃に目が覚める。
それはうつくしい夜明けであり、野分のところの雌鳥が甲高い声を上げる、実に単純な朝の訪れでもあった。ついでに、普通、雌鳥は朝に鳴かないんだけどねえと、何かの折に不思議そうに呟いた紫燕の台詞を思い出す。
衣擦れの音に、伏したまま目を開く。逞しい背中が起き上がっている。この季節だからと裸身に長襦袢を被って横になったことを思い出す。辛うじて、と付け足さざるを得ないのは、この背中の持ち主に抱き込まれながらほとんど気を遣ったからだ。
二人で一枚を羽織ったので、背中が剥き出しな以上、襦袢は己にまだ被さっている。こちらがまだ眠っていると思っているのだ。伴侶が己より遅く目覚めたことは今までなかったことを思い出す。だから、朝の身支度をする背中は初めて見た。
剥き出しの背中には、細かな赤い引っ掻き傷が奔っている。野放図に伸びた髪が揺れながら、傷を撫でたり隠したりしている。男の手がその髪をまとめて掴む。いつものように結い上げるのだろう。気づいた瞬間、のっそりと起き上がっていた。襦袢が滑る衣擦れの音に気づかれるより早く、背中の傷を己の胸で覆った。腕を相手の胸に巻きつけて、閉じ込めて、まだ結われていない髪へと鼻先を突っ込んだ。
「穂群」
少しだけ驚いた響きを混ぜて、伴侶が名前を呼ぶ。染み入るような低い声が気持ちよくて目を閉じる。このままここで眠りたい。鼻先には硬い髪の感触が触れ、男の匂いが立ち込めている。深く息を吸って、肺いっぱいに吸い込む。
「……嗅ぐな」
「んー?」
首を傾げる。擽ったいのか、男の身体が震える。ほんのりと汗の混ざった、深い森のような、静かに佇む木々のような匂い。心地良い。吸って、吐いて、伴侶の首筋で息をする。
しばらくは諦めたように何も言わなかったが、やがて硬い膚の手のひらが己の腕を掴んだ。引き剥がされたくなくて、腕にはやんわりと力を込める。胸を背中に擦り寄せて、すると前の方から息を詰める音が聞こえる。己の胸の尖りがつんと膚を押しただけなのに。笑いそうになって、堪える。笑ったら怒られて、剥がされてしまうから。下肢を擦り寄せるのも堪える。怒られて押し倒されるのもいいけれど。
持ち主の手が諦めた髪にそっと触れる。束ねて掴んで、名残惜しく鼻先を埋める。唇で触れる。戸惑うような気配があるので、口を開く。目覚めたばかりで掠れた声になっている。
「結ってやる」
戸惑いが留まる。己は伴侶にいつも髪を結ってもらうが、己が伴侶の髪を結ったことはない。それを相手も知っている。こちらもわかっているので、見よう見まねで髪をまとめて、引っ張ってみる。
やがて諦めを含んだ吐息が聞こえた。被せるように笑った。楽しくて仕方がなかった。ぐちゃぐちゃに仕上がって、笑って、やっぱり諦めた顔の伴侶が今度はこちらの髪を手にするのはもうすぐ後。櫛が要るなと最後に囁いた声の重さを知るのは、この季節が終わる頃に。
(氷雨と穂群/トウジンカグラ)
某誕生日に続く。
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Day28「西日」 #文披31題 #小咄 #リボ
赤い光が長く伸びる。浮かび上がる影も長く伸びる。赤の中に黒々と、刺すように、墓標のように、あらゆるものが黒く長く。いずれ藍に変わって、黒く溶けて、静かに全てを呑み込んでいく。その寸前、狭間の時間。
一人きりの長屋の中。遠征ばかりのためか、あるいは別の理由か、室内の景色は自分の家だというのにちっとも馴染みがない。空々しい部屋、赤く満たす光の中で、白い書面だけが浮き上がっている。卓に無造作に置かれたそれを、ティルはじっと見つめている。
黎明とは真逆の時間だった。立てかけた棍が本物よりもずっとずっと長く伸びて、ティルに突き刺さっている。
息を吐く。短く、浅く。赤い光を掻き分けて、卓へと近寄る。ほんの短い距離を進む最中、窓から吹き込んだ温い風がティルの赤毛をやわく撫でる。跳ねた毛先が赤に泳ぐ。前髪を浮かす。褒められているような、咎められているような、そんな気分になる。白い紙面を手に取る。
赤の中に黒々と、あらゆる影が浮かび上がる。ここにはティルしかいない。隣の住人も不在なのか、どこかで砂が巻き上がるような乾いた音だけが聞こえている。己の胸の奥に押し込められた心臓の音すら、埋もれていく。
紙面を、開く。赤い光の中、一人佇む。綴られた文字と向かい合う。黒々と伸びた棍の影が、音すら立てないティルの胸を貫いている。
(ティル/風紋記)
裏切りものの時間。
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赤い光が長く伸びる。浮かび上がる影も長く伸びる。赤の中に黒々と、刺すように、墓標のように、あらゆるものが黒く長く。いずれ藍に変わって、黒く溶けて、静かに全てを呑み込んでいく。その寸前、狭間の時間。
一人きりの長屋の中。遠征ばかりのためか、あるいは別の理由か、室内の景色は自分の家だというのにちっとも馴染みがない。空々しい部屋、赤く満たす光の中で、白い書面だけが浮き上がっている。卓に無造作に置かれたそれを、ティルはじっと見つめている。
黎明とは真逆の時間だった。立てかけた棍が本物よりもずっとずっと長く伸びて、ティルに突き刺さっている。
息を吐く。短く、浅く。赤い光を掻き分けて、卓へと近寄る。ほんの短い距離を進む最中、窓から吹き込んだ温い風がティルの赤毛をやわく撫でる。跳ねた毛先が赤に泳ぐ。前髪を浮かす。褒められているような、咎められているような、そんな気分になる。白い紙面を手に取る。
赤の中に黒々と、あらゆる影が浮かび上がる。ここにはティルしかいない。隣の住人も不在なのか、どこかで砂が巻き上がるような乾いた音だけが聞こえている。己の胸の奥に押し込められた心臓の音すら、埋もれていく。
紙面を、開く。赤い光の中、一人佇む。綴られた文字と向かい合う。黒々と伸びた棍の影が、音すら立てないティルの胸を貫いている。
(ティル/風紋記)
裏切りものの時間。
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Day27「しっぽ」 #文披31題 #小咄 #翼角
ねえ夏だよ、夏休みなんでしょ、遊ばなきゃ、ぶかつって毎日じゃないでしょう、ちーちゃんは毎日バイトなんだよ、日向はここだからしなくてもいいのに、意味ないのに、だからねえ、夏だよ、遊ぼうって言ってあげてほしいの、ちーちゃんに……
小倉和秀は真面目な高校生だった。故に歩道は縦列で歩いたし、前方の高校生もまた真面目らしく自転車を押して歩いている。乗れば軽車両で車道を走らなければならないので非常に真面目だ。校則違反のアルバイトに明け暮れて、恐らくこの夏休みは朝も昼も夜もなく労働に汗を流すのだとしても、少なくとも労働と社会貢献の視点では実に勤勉で真面目だ。
対して和秀は、学生の本分として実に真面目だった。この夏は所属するサッカー部で地区大会に出場するし、部活の前後には成績の芳しくなかった科目の補習に申し込んでいる。実に勤勉で、真面目だ。
唯一、前後に真面目な帰路に就く高校生の真ん中で、不真面目を主張する存在がある。存在がある、と称するのも不適切だが、少なくとも和秀の耳には怠惰にして健康な夏を誘う声が聞こえるし、自転車の後ろ、今時珍しい荷台に後ろ向きに腰かけて、足をぶらつかせながら和秀に訴える半透明な姿が見えている。
日向、と名乗る半透明は少女だった。パジャマを着ている。暴力的な夏の日差しを透かして、影のひとつも落とさない。いつ見てもそうだった。昔から日向は半透明で、パジャマで、影がない。つまりたぶん、幽霊だった。そしていつも和秀に向かって、ちーちゃん、の話をする。校則違反の方の勤勉で真面目な高校生、和秀が小学校からここに至るまでの十一年間、奇跡的に同じクラスに在籍し続けていて、しかし先方はちっともその事実に気づいた様子のないいわゆる幼馴染、今城千尋のことだった。
和秀の額に汗が噴き出す。幽霊の発言に怖気を覚えたわけではなく、単純に気温と湿度と日光によるものだった。アスファルトから立ち上る熱気で、日向越しに見える千尋の背中はゆらゆら歪んでいる。中学から続くオーバーサイズのカッターシャツの長袖を野暮ったく折り上げて、歪んでいる。
だから、今城、と歪んだ背中に声をかけたのもやはり、熱気で和秀の判断力が歪んでしまっていたのだと思う。うれしそうに両手を合わせる日向の向こうで、歪んだ背中が真っ直ぐに和秀を振り向いている。
(和秀と日向と千尋/翼角高校奇譚)
小倉和秀:実に健全なサッカー部所属の高校2年生。11年一緒なのに一向にこちらを特別視しない、半透明の少女をくっつけた千尋のことを奇妙に思い気にかけている。
小暮日向:千尋の背後の少女。千尋とは年長さんまで仲良しだった。自分のために生き方を歪めている千尋を心配しており、自分が見える和秀によく声をかけている。
今城千尋:アルバイトの鬼な高校2年生。11年一緒なのに和秀のことを大して認識していない。「たくさんお金があれば」手術ができて日向が元気になることだけ覚えており、日向がどうなったのかは忘れている、常に傍にいる姿も見えない。
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ねえ夏だよ、夏休みなんでしょ、遊ばなきゃ、ぶかつって毎日じゃないでしょう、ちーちゃんは毎日バイトなんだよ、日向はここだからしなくてもいいのに、意味ないのに、だからねえ、夏だよ、遊ぼうって言ってあげてほしいの、ちーちゃんに……
小倉和秀は真面目な高校生だった。故に歩道は縦列で歩いたし、前方の高校生もまた真面目らしく自転車を押して歩いている。乗れば軽車両で車道を走らなければならないので非常に真面目だ。校則違反のアルバイトに明け暮れて、恐らくこの夏休みは朝も昼も夜もなく労働に汗を流すのだとしても、少なくとも労働と社会貢献の視点では実に勤勉で真面目だ。
対して和秀は、学生の本分として実に真面目だった。この夏は所属するサッカー部で地区大会に出場するし、部活の前後には成績の芳しくなかった科目の補習に申し込んでいる。実に勤勉で、真面目だ。
唯一、前後に真面目な帰路に就く高校生の真ん中で、不真面目を主張する存在がある。存在がある、と称するのも不適切だが、少なくとも和秀の耳には怠惰にして健康な夏を誘う声が聞こえるし、自転車の後ろ、今時珍しい荷台に後ろ向きに腰かけて、足をぶらつかせながら和秀に訴える半透明な姿が見えている。
日向、と名乗る半透明は少女だった。パジャマを着ている。暴力的な夏の日差しを透かして、影のひとつも落とさない。いつ見てもそうだった。昔から日向は半透明で、パジャマで、影がない。つまりたぶん、幽霊だった。そしていつも和秀に向かって、ちーちゃん、の話をする。校則違反の方の勤勉で真面目な高校生、和秀が小学校からここに至るまでの十一年間、奇跡的に同じクラスに在籍し続けていて、しかし先方はちっともその事実に気づいた様子のないいわゆる幼馴染、今城千尋のことだった。
和秀の額に汗が噴き出す。幽霊の発言に怖気を覚えたわけではなく、単純に気温と湿度と日光によるものだった。アスファルトから立ち上る熱気で、日向越しに見える千尋の背中はゆらゆら歪んでいる。中学から続くオーバーサイズのカッターシャツの長袖を野暮ったく折り上げて、歪んでいる。
だから、今城、と歪んだ背中に声をかけたのもやはり、熱気で和秀の判断力が歪んでしまっていたのだと思う。うれしそうに両手を合わせる日向の向こうで、歪んだ背中が真っ直ぐに和秀を振り向いている。
(和秀と日向と千尋/翼角高校奇譚)
小倉和秀:実に健全なサッカー部所属の高校2年生。11年一緒なのに一向にこちらを特別視しない、半透明の少女をくっつけた千尋のことを奇妙に思い気にかけている。
小暮日向:千尋の背後の少女。千尋とは年長さんまで仲良しだった。自分のために生き方を歪めている千尋を心配しており、自分が見える和秀によく声をかけている。
今城千尋:アルバイトの鬼な高校2年生。11年一緒なのに和秀のことを大して認識していない。「たくさんお金があれば」手術ができて日向が元気になることだけ覚えており、日向がどうなったのかは忘れている、常に傍にいる姿も見えない。
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Day26「悪夢」 #文披31題 #小咄 #トウジンカグラ
何度見ても見慣れない。腹の底からせり上がる不快感と嘔気を堪えながら見下ろす。
くすんで濁った黄金色が、茫洋として宙を見つめている。刻が覗き込もうと、揺さぶろうと、軽く頬を叩こうと微動だにしない。口元に手を翳すと、辛うじて息をしているとわかる。それとて気のせいかと思えるほどに弱い。襟を緩く開いた胸の上下もあまりになだらかで、刻でなければ死んでいると思うだろう。飾ならば無感動に処分してしまうのだろうと考えが過ぎったが、現実は処分ほどにもこれを気にかけてはいなかった。
抱え上げる。生きたいと願ったはずの目玉と、ぐちゃぐちゃに潰れて弾けた肉片から年月を経てできあがった肉体は重いが、刻からするとあまりにも軽い。手足ばかりが細く伸び、刀刃を振るえるような肉はちっとも足りない。そのくせ生きる術を身に着けたこの身体は胸元と尻にばかり肉をつけて、あまりに歪なかたちになっている。
そうしたのは誰か。形ばかりはできあがりつつある肉体を腕に、刻はわずかに瞑目する。
こうすれば生きてゆけるのだと、学び始めたばかりの肉体は精気を失っている。試行する度、巧く精を得る術をこの身は覚えている。いずれこんな風に、見誤って動けなくなることもなくなるのだろう。艶然と笑って、己を貪らせるだけの言葉を覚えて、生きるに足るだけの精を他人から搾り取って、啜って、呑み込んで、生きていけるようになる。
それは、人として生きていけると呼べるのだろうか。
考えるだけ無駄だった。こうして命を続ける術をこの身に知らしめたのは刻で、これから虚ろになったこの子どもを抱え上げて己の房に運び入れて組み敷いて、犯して精を注ぐのも刻なのだから。
何度見ても見慣れない。あるいはいつか見なくなるのだろうか。いずれにしろ子どもに救いはなく、刻には救いを求める権もない。
(刻と火群/トウジンカグラ)
未だ終わらない悪夢。
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何度見ても見慣れない。腹の底からせり上がる不快感と嘔気を堪えながら見下ろす。
くすんで濁った黄金色が、茫洋として宙を見つめている。刻が覗き込もうと、揺さぶろうと、軽く頬を叩こうと微動だにしない。口元に手を翳すと、辛うじて息をしているとわかる。それとて気のせいかと思えるほどに弱い。襟を緩く開いた胸の上下もあまりになだらかで、刻でなければ死んでいると思うだろう。飾ならば無感動に処分してしまうのだろうと考えが過ぎったが、現実は処分ほどにもこれを気にかけてはいなかった。
抱え上げる。生きたいと願ったはずの目玉と、ぐちゃぐちゃに潰れて弾けた肉片から年月を経てできあがった肉体は重いが、刻からするとあまりにも軽い。手足ばかりが細く伸び、刀刃を振るえるような肉はちっとも足りない。そのくせ生きる術を身に着けたこの身体は胸元と尻にばかり肉をつけて、あまりに歪なかたちになっている。
そうしたのは誰か。形ばかりはできあがりつつある肉体を腕に、刻はわずかに瞑目する。
こうすれば生きてゆけるのだと、学び始めたばかりの肉体は精気を失っている。試行する度、巧く精を得る術をこの身は覚えている。いずれこんな風に、見誤って動けなくなることもなくなるのだろう。艶然と笑って、己を貪らせるだけの言葉を覚えて、生きるに足るだけの精を他人から搾り取って、啜って、呑み込んで、生きていけるようになる。
それは、人として生きていけると呼べるのだろうか。
考えるだけ無駄だった。こうして命を続ける術をこの身に知らしめたのは刻で、これから虚ろになったこの子どもを抱え上げて己の房に運び入れて組み敷いて、犯して精を注ぐのも刻なのだから。
何度見ても見慣れない。あるいはいつか見なくなるのだろうか。いずれにしろ子どもに救いはなく、刻には救いを求める権もない。
(刻と火群/トウジンカグラ)
未だ終わらない悪夢。
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Day25「じりじり」 #文披31題 #小咄 #翼角
世界の全てを喰べ尽くして。
真っ暗の世界に、たった一つの光。それは決して明かりなどもたらさず、赤く蕩けた陽光に似て佇んでいる。灼熱だけをもたらして哄笑を謳う。己を注いで呑み尽くし喰らい尽くした無色の器――人と呼べるときには確か、本郷大和と呼ばれていた――を無造作に爪先に転がして、真っ暗の世界の真ん中に佇んでいる。
膚が焦げる。生き残った人間たちがいずれここに辿り着いて、この光を滅し誅し戮するまでにいくらもない。純然たる事実だった。鬼道ナナキという人の身を捨て、幾百の年月の末目覚めたとて理解しているだろうに。
もう空っぽになった、本郷大和だったものを眺めながら考える。その思考も焦がされて、灰になって流れていく。
「――月影」
己を呼ぶ声。ゆっくりと、どろりと流れ出る赤い陽光を見上げる。
二本角を戴く鬼がいる。かつてただの人だった存在。遠いとおいあの日に月影が我が身を喰わせた愛しい人間。人の身を捨て、傲岸にも月影に名を与えた鬼。月影を天から引きずり下ろして地に繋ぎ止めて貪って、そのくせ都合よく打ち捨てた男。
ずっと待っていた。只人の中で脈々と眠り続けるこの男を。遂に鬼道ナナキという人の身に降りた鬼を。待つ道理もないことを理解しながら、この男でなければいけないのだと焦がれていた。
この熱に、また都合よく焦がされるのならば。ただ見下ろすだけの鬼に、失った天に、唯一の光に手を伸ばす。陽生、と呼んだ声は熱に浮かされて掠れて消えて、月影自身も赤の陽光に蕩けていく。この男の傍らでならば、全てを滅ぼそうと、あるいはいずれ滅びようとも構わない。やっと、やっとこの時が。
(陽生×月影/翼角高校奇譚)
翼角のバッドエンド(ジェノサイダー鷹臣エンド)、月影のハッピーエンド。
全創作込みなら絶対に一つはここを書くだろうという確信しかなかったひせげつ。
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世界の全てを喰べ尽くして。
真っ暗の世界に、たった一つの光。それは決して明かりなどもたらさず、赤く蕩けた陽光に似て佇んでいる。灼熱だけをもたらして哄笑を謳う。己を注いで呑み尽くし喰らい尽くした無色の器――人と呼べるときには確か、本郷大和と呼ばれていた――を無造作に爪先に転がして、真っ暗の世界の真ん中に佇んでいる。
膚が焦げる。生き残った人間たちがいずれここに辿り着いて、この光を滅し誅し戮するまでにいくらもない。純然たる事実だった。鬼道ナナキという人の身を捨て、幾百の年月の末目覚めたとて理解しているだろうに。
もう空っぽになった、本郷大和だったものを眺めながら考える。その思考も焦がされて、灰になって流れていく。
「――月影」
己を呼ぶ声。ゆっくりと、どろりと流れ出る赤い陽光を見上げる。
二本角を戴く鬼がいる。かつてただの人だった存在。遠いとおいあの日に月影が我が身を喰わせた愛しい人間。人の身を捨て、傲岸にも月影に名を与えた鬼。月影を天から引きずり下ろして地に繋ぎ止めて貪って、そのくせ都合よく打ち捨てた男。
ずっと待っていた。只人の中で脈々と眠り続けるこの男を。遂に鬼道ナナキという人の身に降りた鬼を。待つ道理もないことを理解しながら、この男でなければいけないのだと焦がれていた。
この熱に、また都合よく焦がされるのならば。ただ見下ろすだけの鬼に、失った天に、唯一の光に手を伸ばす。陽生、と呼んだ声は熱に浮かされて掠れて消えて、月影自身も赤の陽光に蕩けていく。この男の傍らでならば、全てを滅ぼそうと、あるいはいずれ滅びようとも構わない。やっと、やっとこの時が。
(陽生×月影/翼角高校奇譚)
翼角のバッドエンド(ジェノサイダー鷹臣エンド)、月影のハッピーエンド。
全創作込みなら絶対に一つはここを書くだろうという確信しかなかったひせげつ。
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Day24「爪先」 #文披31題 #小咄 #王女と騎士
王宮内で一番高いところ。尖塔は鐘を戴き、王城のみならず城下の全てに王の偉業と刻を告げる。
不遜にもその鐘を足下に、急傾斜の先、天に刺す針のように尖った先端に少年――シーレは立っている。
咎められることではなかった。咎められるどころか、己を育て鍛え上げる師に命じられたことだ。
びゅうびゅうと風が吹いて、銀の髪を引っ張ってそのままシーレを地面に引きずり下ろそうとしている。踵だけで踏ん張るようにして、シーレはその場に留まってた。狭いそこで、ようよう馴染んできた軍靴の先は空を踏んでいる。もう後いくらも立ってられないだろう。未熟の証左だが、今はそれでよかった。
シーレはここから、飛ばなければならない。
急傾斜の屋根に隠れて地面は見えない。石畳の上では、師が足裏をしっかとつけてシーレの降下を待っている。未熟な己を危惧して魔術師たちもいくらか配置されている。中には若干にして類い希なる才を誇る少年魔術師もいるはずだ。彼は自身で細工を施したシーレの武器が、今から発揮する成果を心待ちにしていることだろう。
今から、飛ばなければならない。
魔術師たちが加護を施した武器と、王国軍が受け継ぎ鍛え上げた技術があれば、この程度の高さなど。自由に、駆けるように、滑るように羽のように降下できるはずだ。でなければ王女殿下の近衛騎士など務まらない。つまりここから飛ぶことは、シーレにとって一つの試練だった。ここで生きていてもいいのか、自身に価値があるのか、という物差しの。
手首を振る。ナイフと共にじゃらりと細い鎖が袖から零れる。風になぶられてぶらぶらと揺れている。
足先の裏を風が撫でる。簡単なことだ、少し膝に力を入れるだけ。踵を離して、空へ身を投げるだけ。すると自由になる。ただ落ちるだけの体を、鎖でどこかに繋いできれいに着地する。そうすれば騎士として許されて、シーレの価値は証明される。
でもそれは、鎖で繋いで、縛って、結局不自由なのではないだろうか。ふと気づいた瞬間だけ、シーレは自由だった。体の全部を空に投げ出して、飛ぶ。その瞬間だけは。
(シーレ/王女と騎士)
「おちちゃった!」のシーレ側
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王宮内で一番高いところ。尖塔は鐘を戴き、王城のみならず城下の全てに王の偉業と刻を告げる。
不遜にもその鐘を足下に、急傾斜の先、天に刺す針のように尖った先端に少年――シーレは立っている。
咎められることではなかった。咎められるどころか、己を育て鍛え上げる師に命じられたことだ。
びゅうびゅうと風が吹いて、銀の髪を引っ張ってそのままシーレを地面に引きずり下ろそうとしている。踵だけで踏ん張るようにして、シーレはその場に留まってた。狭いそこで、ようよう馴染んできた軍靴の先は空を踏んでいる。もう後いくらも立ってられないだろう。未熟の証左だが、今はそれでよかった。
シーレはここから、飛ばなければならない。
急傾斜の屋根に隠れて地面は見えない。石畳の上では、師が足裏をしっかとつけてシーレの降下を待っている。未熟な己を危惧して魔術師たちもいくらか配置されている。中には若干にして類い希なる才を誇る少年魔術師もいるはずだ。彼は自身で細工を施したシーレの武器が、今から発揮する成果を心待ちにしていることだろう。
今から、飛ばなければならない。
魔術師たちが加護を施した武器と、王国軍が受け継ぎ鍛え上げた技術があれば、この程度の高さなど。自由に、駆けるように、滑るように羽のように降下できるはずだ。でなければ王女殿下の近衛騎士など務まらない。つまりここから飛ぶことは、シーレにとって一つの試練だった。ここで生きていてもいいのか、自身に価値があるのか、という物差しの。
手首を振る。ナイフと共にじゃらりと細い鎖が袖から零れる。風になぶられてぶらぶらと揺れている。
足先の裏を風が撫でる。簡単なことだ、少し膝に力を入れるだけ。踵を離して、空へ身を投げるだけ。すると自由になる。ただ落ちるだけの体を、鎖でどこかに繋いできれいに着地する。そうすれば騎士として許されて、シーレの価値は証明される。
でもそれは、鎖で繋いで、縛って、結局不自由なのではないだろうか。ふと気づいた瞬間だけ、シーレは自由だった。体の全部を空に投げ出して、飛ぶ。その瞬間だけは。
(シーレ/王女と騎士)
「おちちゃった!」のシーレ側
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Day23「探偵」 #文披31題 #小咄 #35103
ヴィッテちゃんのおべんとうがなくなった! 鍋を叩く音が響いた後、下町学校のちいさな教室は大さわぎとなった。
子どもたちは机で眠り続けるマオを除いて、みんなで教室中を探し回る。見つかったのは廊下の手洗い場、伏せて並べられた、空っぽになってきれいに洗われたおべんとうばこだけだった。
犯人は誰だ、近所ののらねこがいつの間にか忍び込んで盗んでいったのかも。もしかするとグレイが空腹のあまり盗み食いをしたのかも。子どもたちは大さわぎをしたが、だんだんお昼の時間が少なくなっていくのに気づくと静かになっていく。自分のおべんとうが消えてしまう前に食べないといけないし、遊ぶ時間もなくなってしまう。
おなかを抱えてしょんぼりするヴィンギローテに、ミコトは自分のおべんとうを半分あげた。ほんとうは、ミコトは口から何かを食べなくても問題ない。だからおべんとうを丸ごとあげてもよかったのだけれど、ヴィンギローテが遠慮する、とはこっそりとトワから言われたことだった。それに、ミコトが少しも食べないと今日もおべんとうを作ってくれたハヤトが悲しむような気がしたのだ。だからミコトはおべんとうの半分をしょんぼりするヴィンギローテにあげて、トワも数段重ねたおべんとうの一段一段から少しずつヴィンギローテにおかずをあげた。三人並んで同じおべんとうを食べて、ヴィンギローテはおいしいねと笑った。ミコトはやっと口から『食べる』ことに慣れてきたところだったけれど、たしかに、今日はいつもよりおいしいおべんとうだった気がした。ハヤトがとってもおいしく作ってくれたのだろうか?
教室に戻ると、やっと目を覚ましたマオが大きくあくびをしているところだった。おべんとうの話をするとみるみるうちにしょんぼりして、やっぱりもらわなかったらよかったね、ごめんねとヴィンギローテに謝っていた。そこでやっとヴィンギローテは、朝からおなかが空いたとしょげるマオに自分のおべんとうを丸ごとあげたことを思い出した。今日のおべんとうの魚は焼きすぎで好きじゃないから、と話していたことも思い出したが、ミコトとトワの譲った焼き魚はおいしかったことも一緒に思い出していた。
(下町学校組/セーレーシュのミコトさん)
下町探偵団!おべんとうはみんなで食べるとおいしいことを発見!
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ヴィッテちゃんのおべんとうがなくなった! 鍋を叩く音が響いた後、下町学校のちいさな教室は大さわぎとなった。
子どもたちは机で眠り続けるマオを除いて、みんなで教室中を探し回る。見つかったのは廊下の手洗い場、伏せて並べられた、空っぽになってきれいに洗われたおべんとうばこだけだった。
犯人は誰だ、近所ののらねこがいつの間にか忍び込んで盗んでいったのかも。もしかするとグレイが空腹のあまり盗み食いをしたのかも。子どもたちは大さわぎをしたが、だんだんお昼の時間が少なくなっていくのに気づくと静かになっていく。自分のおべんとうが消えてしまう前に食べないといけないし、遊ぶ時間もなくなってしまう。
おなかを抱えてしょんぼりするヴィンギローテに、ミコトは自分のおべんとうを半分あげた。ほんとうは、ミコトは口から何かを食べなくても問題ない。だからおべんとうを丸ごとあげてもよかったのだけれど、ヴィンギローテが遠慮する、とはこっそりとトワから言われたことだった。それに、ミコトが少しも食べないと今日もおべんとうを作ってくれたハヤトが悲しむような気がしたのだ。だからミコトはおべんとうの半分をしょんぼりするヴィンギローテにあげて、トワも数段重ねたおべんとうの一段一段から少しずつヴィンギローテにおかずをあげた。三人並んで同じおべんとうを食べて、ヴィンギローテはおいしいねと笑った。ミコトはやっと口から『食べる』ことに慣れてきたところだったけれど、たしかに、今日はいつもよりおいしいおべんとうだった気がした。ハヤトがとってもおいしく作ってくれたのだろうか?
教室に戻ると、やっと目を覚ましたマオが大きくあくびをしているところだった。おべんとうの話をするとみるみるうちにしょんぼりして、やっぱりもらわなかったらよかったね、ごめんねとヴィンギローテに謝っていた。そこでやっとヴィンギローテは、朝からおなかが空いたとしょげるマオに自分のおべんとうを丸ごとあげたことを思い出した。今日のおべんとうの魚は焼きすぎで好きじゃないから、と話していたことも思い出したが、ミコトとトワの譲った焼き魚はおいしかったことも一緒に思い出していた。
(下町学校組/セーレーシュのミコトさん)
下町探偵団!おべんとうはみんなで食べるとおいしいことを発見!
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Day22「さみしい」 #文披31題 #小咄 #じょ
彼、あるいは彼女の枯葉色の瞳は感情を視る。それは意識するとせざるとに関わらず当たり前のことで、食事や呼吸、あるいは夢みたいなものだった。必要だとか望むとかではなくて、意識にも登らず訪れる当たり前。
彼、あるいは彼女はそれを、己にのみ与えられた唯一と認めていた。好意的であった。あるいは悪趣味だと知りながら、彼、あるいは彼女はあらゆる人間に、または魔女に浮かぶ感情を視る。遠くも近くも、視界として知覚する全ての感情を視る。不思議で面白いもので、全ての感情を真っ直ぐに曝け出す者もいれば、外側が浮かべる表情とは真逆の感情を抱く者もいる。感情を自覚できない者も、感情を削ぎ落とした存在もいる。森羅万象奇々怪々、感情と人間、または魔女とは、そういったままならないものを内包している点で全く同一だった。
彼、あるいは彼女は、たまにはそんな話を友人に聞かせる。あるいは悪趣味だと知りながら、感情を視ることは酒の肴として口に上ることもあった。魔女の死を謳う異端審問の少女の伽藍堂の眼窩と、そのくせ豊かな表情と、なのにちいさく蹲って悲しむ感情を今日は視た。昨日は、一昨日は――滔々と語る。
彼、あるいは彼女の語りを、友人は大抵否定せず聞いている。疑問を呈し、あるいは掘り下げることはあれど、他者の感情を語る声に耳を傾けている。そうしてたまに、目を細めて、ほんの少しだけ口の端を持ち上げて、同じようにほんの少し、眉を下げて問いかける。
彼、あるいは彼女は、そのとき浮かぶ感情を確かに視る。けれど問いへの答えは見つからないまま、ただグラスを傾ける。あらゆる感情を語る彼、あるいは彼女は、自分の感情を視い出せるのか、否か?
その答えを知ったとき、彼、あるいは彼女はちいさく蹲りながら、あれほど好んで眺めていた全てに背を向ける。やっと見つけた己のそれすら。
(ジル/じょ)
自分のことはみえない。
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彼、あるいは彼女の枯葉色の瞳は感情を視る。それは意識するとせざるとに関わらず当たり前のことで、食事や呼吸、あるいは夢みたいなものだった。必要だとか望むとかではなくて、意識にも登らず訪れる当たり前。
彼、あるいは彼女はそれを、己にのみ与えられた唯一と認めていた。好意的であった。あるいは悪趣味だと知りながら、彼、あるいは彼女はあらゆる人間に、または魔女に浮かぶ感情を視る。遠くも近くも、視界として知覚する全ての感情を視る。不思議で面白いもので、全ての感情を真っ直ぐに曝け出す者もいれば、外側が浮かべる表情とは真逆の感情を抱く者もいる。感情を自覚できない者も、感情を削ぎ落とした存在もいる。森羅万象奇々怪々、感情と人間、または魔女とは、そういったままならないものを内包している点で全く同一だった。
彼、あるいは彼女は、たまにはそんな話を友人に聞かせる。あるいは悪趣味だと知りながら、感情を視ることは酒の肴として口に上ることもあった。魔女の死を謳う異端審問の少女の伽藍堂の眼窩と、そのくせ豊かな表情と、なのにちいさく蹲って悲しむ感情を今日は視た。昨日は、一昨日は――滔々と語る。
彼、あるいは彼女の語りを、友人は大抵否定せず聞いている。疑問を呈し、あるいは掘り下げることはあれど、他者の感情を語る声に耳を傾けている。そうしてたまに、目を細めて、ほんの少しだけ口の端を持ち上げて、同じようにほんの少し、眉を下げて問いかける。
彼、あるいは彼女は、そのとき浮かぶ感情を確かに視る。けれど問いへの答えは見つからないまま、ただグラスを傾ける。あらゆる感情を語る彼、あるいは彼女は、自分の感情を視い出せるのか、否か?
その答えを知ったとき、彼、あるいは彼女はちいさく蹲りながら、あれほど好んで眺めていた全てに背を向ける。やっと見つけた己のそれすら。
(ジル/じょ)
自分のことはみえない。
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Day21「海水浴」 #文披31題 #小咄 #翼角
足裏をうぞうぞと砂が流れていく。少しずつ今立つ場所が形を変えていく。足首には温く波が絡みついては解けて、その感覚に少しばかり感嘆した。
「大和、早く!」大和の未知の体験など一顧だにしない声が呼ぶ。「遊ぼう!」
既に膝まで海に浸って、このみが笑っている。ふわりと風を孕むパーカーを羽織っているが水着の下の太腿は剥き出しでその白さが眩しい。それよりもずっと、大和を呼ぶ笑顔が雫を散らして煌めいている。その隣にはビーチボールを掲げた京介もいて、このみと共に大和を待っている。来年になったら受験生だ、遊べる夏休みはこれが最後だと気づいて大騒ぎをしていた二人は、今日という計画の日を実に満喫していた。
流れて絡んで引き込む海を振り切って一歩。この海が彼の冬には歌って人間を引きずり込もうとしていたなど、あの二人は知らないし、信じないだろう。この場では大和ともう一人だけが知っている。
もう一歩を踏み出しながら背後を振り返る。柄にもなく同行した彼はここまで沈黙を貫いていて、きっと海で遊ぶことに興味などないのだろう、と思う。ただ大和が来たからついてきたのであって。
それでも、大和の大事な友人たちと共に、この夏の一日に興じてくれたなら。行こうと告げた声は我ながら軽やかで、差し出した手はきっと浮かれていた。その手が握り返された瞬間に、真夏の太陽が一層眩しく輝いたようで目を細める。
(大和と誰かとこのみと京介/翼角高校奇譚)
翼角はマルチエンディング方式なので手を指しだした先にいるのは鷹臣かナナキか無道だしどいつもこいつも海で遊ぶの柄じゃない。
このみちゃんは幼馴染、京介は2年連続クラスメイトで同じ寮生。
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足裏をうぞうぞと砂が流れていく。少しずつ今立つ場所が形を変えていく。足首には温く波が絡みついては解けて、その感覚に少しばかり感嘆した。
「大和、早く!」大和の未知の体験など一顧だにしない声が呼ぶ。「遊ぼう!」
既に膝まで海に浸って、このみが笑っている。ふわりと風を孕むパーカーを羽織っているが水着の下の太腿は剥き出しでその白さが眩しい。それよりもずっと、大和を呼ぶ笑顔が雫を散らして煌めいている。その隣にはビーチボールを掲げた京介もいて、このみと共に大和を待っている。来年になったら受験生だ、遊べる夏休みはこれが最後だと気づいて大騒ぎをしていた二人は、今日という計画の日を実に満喫していた。
流れて絡んで引き込む海を振り切って一歩。この海が彼の冬には歌って人間を引きずり込もうとしていたなど、あの二人は知らないし、信じないだろう。この場では大和ともう一人だけが知っている。
もう一歩を踏み出しながら背後を振り返る。柄にもなく同行した彼はここまで沈黙を貫いていて、きっと海で遊ぶことに興味などないのだろう、と思う。ただ大和が来たからついてきたのであって。
それでも、大和の大事な友人たちと共に、この夏の一日に興じてくれたなら。行こうと告げた声は我ながら軽やかで、差し出した手はきっと浮かれていた。その手が握り返された瞬間に、真夏の太陽が一層眩しく輝いたようで目を細める。
(大和と誰かとこのみと京介/翼角高校奇譚)
翼角はマルチエンディング方式なので手を指しだした先にいるのは鷹臣かナナキか無道だしどいつもこいつも海で遊ぶの柄じゃない。
このみちゃんは幼馴染、京介は2年連続クラスメイトで同じ寮生。
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Day20「包み紙」 #文披31題 #小咄 #トウジンカグラ
今上帝にと献上された上等の紗を広げ、その真ん中に畳んだ着物を重ねていく。彼の地は閉ざされていて専ら自給自足、新しいものはその都度近隣まで交換に行くか各地に散らばった里人が持ち帰るかしないと手に入れる機会はないと聞く。着回して継いで接いでゆく着物など言うまでもない。
故に、少女は夏用の着物をいくつか見繕っている。少しぐらいは上背が伸びているかも知れないので丈は詰めていない。恐らく彼の伴侶が手直してくれるだろう。あれはなかなか不器用で、そのくせ世話焼きで、身の回りのことは大抵一人でしてしまう男だと見ている。それも見越して針や糸もいくらか積んでいく。
夏ならばあれも、もうすぐ秋になるならばこれも、彼の地は樹海深くの里だから。踏んだことのない、人伝いに聞き、水鏡で視たことしかない土地を思う。しばらく顔も見ていないあの子を思う。寂しいなどと感じることはなく、ただただ愉快な気持ちでいっぱいだった。少女の気持ちをかたちにして、丸く膨らんだ包みを天辺できゅうと結ぶ。外国の製法を取り入れて、金糸銀糸を織り込んだという紗はすっかりまあるく不格好になっている。まだ絢爛を残す姿もこれから幾日かを掛け、時に雨風に遭いながら彼の地へと運ばれて、きっと辿り着くころにはすっかり擦れて縒れてしまっているのだろう。それだって最後には無造作に開かれて、この布の価値を介さぬようにぽいと放られるのだ。
想像した様がおかしくて楽しみで、少女はぽんと丸い包みを叩いた。
(瑠璃/トウジンカグラ)
これは本編後初めての夏を迎える瑠璃
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今上帝にと献上された上等の紗を広げ、その真ん中に畳んだ着物を重ねていく。彼の地は閉ざされていて専ら自給自足、新しいものはその都度近隣まで交換に行くか各地に散らばった里人が持ち帰るかしないと手に入れる機会はないと聞く。着回して継いで接いでゆく着物など言うまでもない。
故に、少女は夏用の着物をいくつか見繕っている。少しぐらいは上背が伸びているかも知れないので丈は詰めていない。恐らく彼の伴侶が手直してくれるだろう。あれはなかなか不器用で、そのくせ世話焼きで、身の回りのことは大抵一人でしてしまう男だと見ている。それも見越して針や糸もいくらか積んでいく。
夏ならばあれも、もうすぐ秋になるならばこれも、彼の地は樹海深くの里だから。踏んだことのない、人伝いに聞き、水鏡で視たことしかない土地を思う。しばらく顔も見ていないあの子を思う。寂しいなどと感じることはなく、ただただ愉快な気持ちでいっぱいだった。少女の気持ちをかたちにして、丸く膨らんだ包みを天辺できゅうと結ぶ。外国の製法を取り入れて、金糸銀糸を織り込んだという紗はすっかりまあるく不格好になっている。まだ絢爛を残す姿もこれから幾日かを掛け、時に雨風に遭いながら彼の地へと運ばれて、きっと辿り着くころにはすっかり擦れて縒れてしまっているのだろう。それだって最後には無造作に開かれて、この布の価値を介さぬようにぽいと放られるのだ。
想像した様がおかしくて楽しみで、少女はぽんと丸い包みを叩いた。
(瑠璃/トウジンカグラ)
これは本編後初めての夏を迎える瑠璃
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Day19「網戸」 #文披31題 #小咄 #リボ
遠征中は基本的に雑魚寝になる。稀に宿を取ることもあるが行軍の人数にもよっては目立ちすぎるし、金もかかる。そちらの算盤を弾くのは軍師役殿の仕事だ。
その軍師役殿と、今宵も二人きりになっている。雑魚寝でいいと言うのに軍主としての威厳が箔付けがと軍師役殿はいつも喧しい。ならお前も俺と同じ幕にいるのはおかしいだろうと一度指摘してやったことがあるが、激しく後悔した。私が他の皆さんと一緒に寝ても? いいんですかぁ? 甘く間延びする声は己にしかわからない怒気を孕んでいて、まるで迫るように己にのし掛かってきた胸元は無防備に開かれていた。あれほど己の失言を悔いたことはない――いや、似たようなことは何度も繰り返している。
故に今夜も口を噤んでいる。一応、威厳や箔付けとやらに対する配慮なのか、幕の中には蚊帳が吊されていて、己だけがその中で転がっていた。本来は虫除けのはずだが、高貴な人が透かす御簾のようだ。明かりは既に落としているが、軍師役殿は傍らに小さな火を置いて右往左往している。紗越しにその姿が見えた。
威厳箔付けも虫除けも、己には必要ない。ただ父と兄が悪戯に重くした荷物を辛うじて負うているだけで、本当はこんなところ抜け出してしまいたい。大勢の中の一人になって、皆と肩を並べて寝転がって、ただの。
「ダメですよ」不意に声が上がった。
紗の向こうで、軍師役殿がじいっとこちらを見ていた。静かに弾いていた算盤も片付けて、小さな火だけを頼りに立ち尽くしている。その表情はよく見えない。微かな光からは遠く暗く、それも紗が覆い隠している。幼い頃から見続けてきた輪郭が、ほっそりとなよやかに立ち尽くしていることしかわからない。
「テメーはそこにいるんだよ、レイヴ」
滅多に呼ばれることのない己の名前だった。ならば、ああ。蚊帳の中で目を閉じた。今日もまた、己の軍師役殿は、従兄弟は、幼い頃からずっと己のせいで自身を偽り続けている男は、怒っているのだ。
昔絵巻のお姫様みたいだな。囁く声は嘲りを含んでいる。なのに悲しいぐらいに優しいと思ったのは己が既に夢の世界に沈み始めた証左なのかも知れない。紗の向こうの顔は、どうしたって見えなかった。
(レイヴとファリル/風紋記)
閉ざされている。
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遠征中は基本的に雑魚寝になる。稀に宿を取ることもあるが行軍の人数にもよっては目立ちすぎるし、金もかかる。そちらの算盤を弾くのは軍師役殿の仕事だ。
その軍師役殿と、今宵も二人きりになっている。雑魚寝でいいと言うのに軍主としての威厳が箔付けがと軍師役殿はいつも喧しい。ならお前も俺と同じ幕にいるのはおかしいだろうと一度指摘してやったことがあるが、激しく後悔した。私が他の皆さんと一緒に寝ても? いいんですかぁ? 甘く間延びする声は己にしかわからない怒気を孕んでいて、まるで迫るように己にのし掛かってきた胸元は無防備に開かれていた。あれほど己の失言を悔いたことはない――いや、似たようなことは何度も繰り返している。
故に今夜も口を噤んでいる。一応、威厳や箔付けとやらに対する配慮なのか、幕の中には蚊帳が吊されていて、己だけがその中で転がっていた。本来は虫除けのはずだが、高貴な人が透かす御簾のようだ。明かりは既に落としているが、軍師役殿は傍らに小さな火を置いて右往左往している。紗越しにその姿が見えた。
威厳箔付けも虫除けも、己には必要ない。ただ父と兄が悪戯に重くした荷物を辛うじて負うているだけで、本当はこんなところ抜け出してしまいたい。大勢の中の一人になって、皆と肩を並べて寝転がって、ただの。
「ダメですよ」不意に声が上がった。
紗の向こうで、軍師役殿がじいっとこちらを見ていた。静かに弾いていた算盤も片付けて、小さな火だけを頼りに立ち尽くしている。その表情はよく見えない。微かな光からは遠く暗く、それも紗が覆い隠している。幼い頃から見続けてきた輪郭が、ほっそりとなよやかに立ち尽くしていることしかわからない。
「テメーはそこにいるんだよ、レイヴ」
滅多に呼ばれることのない己の名前だった。ならば、ああ。蚊帳の中で目を閉じた。今日もまた、己の軍師役殿は、従兄弟は、幼い頃からずっと己のせいで自身を偽り続けている男は、怒っているのだ。
昔絵巻のお姫様みたいだな。囁く声は嘲りを含んでいる。なのに悲しいぐらいに優しいと思ったのは己が既に夢の世界に沈み始めた証左なのかも知れない。紗の向こうの顔は、どうしたって見えなかった。
(レイヴとファリル/風紋記)
閉ざされている。
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Day18「交換所」 #文披31題 #小咄 #王女と騎士
貨幣が流通していない訳ではない。しかしながら物と物、あるいは労働力を対価にする方が早いとは早々に思い知った。でなければ話が長くなるか居たたまれなくなる。口が回る方ではなかったから上手く流すこともできないし、立場を笠に着てきっぱりと断ることもできなかった。
以上により、赴任してこの方、村内で貨幣を使った例しがない。それどころか善意の手伝いに物的な礼がついてきて、物事の順序が逆にすらなっている。無論、ならば手伝いをやめるという選択肢もない。
「今日はまた、何があってどうなったんだ、それは」
ならばこそ、無法な村医の驚きと呆れと笑いを混ぜて漉したような声は当然で、そして困ったことに聞き慣れたものだった。
「……わかんない」答えれば今度は笑いだけが返ってきた。「わかんないか」「うん」
そういうことにしておく。頷いた拍子に、白い花弁がいくらか散った。
己の頭には、白い花を編んだ冠が載せられている。のみならず両手にも同じ花が束になって抱えられていた。上半身が花に埋まっているようですらある。腰の悪い老夫婦の畑仕事を手伝っていたら、村を出た息子夫婦に置き去りにされた孫娘とその友人に囲まれ最後はこの有様、とは、村医も薄ら把握しているところだろう。
腕の中の花がいくらか抜き取られた。民間療法に過ぎないが煎じれば薬の真似になる、そう笑いながら囁いている。
不意に、その笑いに反抗心が湧いた。正直なところ花を引き取ってくれるのはありがたい、こんなにたくさんあっても枯らしてしまうだけだから。だがしかし、この花は畑仕事の対価に少女たちから得たものである。ならば形だけでもただでくれてやるのは少しばかり悔しい――惜しいかも知れない。
「お代」受け取る手も塞がっている。ので、幾分か高い位置にある相手へ顔を向けた。後から思えば、この苦笑に拗ねていたのかも知れない。上手くやれず花に埋もれる己を恥じる気持ちを、笑う相手のせいにして覆い隠した。それがいけなかった。
空色の瞳が丸く開かれた。それから細められて、また笑う。拗ねて尖る唇を笑って、目がけてくる。
白い花弁が盛大に散った。二人の間に挟まれてやんわりと潰れて、そんなこと気にも留められない。惜しんだ花が散っていくのに。唇をなぞって撫でた熱に、おつりが要るかも知れない、などと考える自分だから笑われるのだろう。
(ルークとシーレ/王女と騎士)
かわいがられている。
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貨幣が流通していない訳ではない。しかしながら物と物、あるいは労働力を対価にする方が早いとは早々に思い知った。でなければ話が長くなるか居たたまれなくなる。口が回る方ではなかったから上手く流すこともできないし、立場を笠に着てきっぱりと断ることもできなかった。
以上により、赴任してこの方、村内で貨幣を使った例しがない。それどころか善意の手伝いに物的な礼がついてきて、物事の順序が逆にすらなっている。無論、ならば手伝いをやめるという選択肢もない。
「今日はまた、何があってどうなったんだ、それは」
ならばこそ、無法な村医の驚きと呆れと笑いを混ぜて漉したような声は当然で、そして困ったことに聞き慣れたものだった。
「……わかんない」答えれば今度は笑いだけが返ってきた。「わかんないか」「うん」
そういうことにしておく。頷いた拍子に、白い花弁がいくらか散った。
己の頭には、白い花を編んだ冠が載せられている。のみならず両手にも同じ花が束になって抱えられていた。上半身が花に埋まっているようですらある。腰の悪い老夫婦の畑仕事を手伝っていたら、村を出た息子夫婦に置き去りにされた孫娘とその友人に囲まれ最後はこの有様、とは、村医も薄ら把握しているところだろう。
腕の中の花がいくらか抜き取られた。民間療法に過ぎないが煎じれば薬の真似になる、そう笑いながら囁いている。
不意に、その笑いに反抗心が湧いた。正直なところ花を引き取ってくれるのはありがたい、こんなにたくさんあっても枯らしてしまうだけだから。だがしかし、この花は畑仕事の対価に少女たちから得たものである。ならば形だけでもただでくれてやるのは少しばかり悔しい――惜しいかも知れない。
「お代」受け取る手も塞がっている。ので、幾分か高い位置にある相手へ顔を向けた。後から思えば、この苦笑に拗ねていたのかも知れない。上手くやれず花に埋もれる己を恥じる気持ちを、笑う相手のせいにして覆い隠した。それがいけなかった。
空色の瞳が丸く開かれた。それから細められて、また笑う。拗ねて尖る唇を笑って、目がけてくる。
白い花弁が盛大に散った。二人の間に挟まれてやんわりと潰れて、そんなこと気にも留められない。惜しんだ花が散っていくのに。唇をなぞって撫でた熱に、おつりが要るかも知れない、などと考える自分だから笑われるのだろう。
(ルークとシーレ/王女と騎士)
かわいがられている。
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Day17「空蝉」 #文披31題 #小咄 #じょ
色とりどり、鮮やかに光。痛いほどの熱を湛えた陽光に晒されて、黒く濃い影が輪郭を描く。
透鏡の小さな遮光眼鏡で、その幾百ものを光を遮る。あの豊かな色彩を美しく、興味深く、静かに心を弾ませながら眺めて酒を舐めていた頃もあった。しかしながら今は薄黒く透かし見るのが精一杯で、それだって目を背けている。
随分と低くなった目線を地面に向けて、小さな体躯を益々縮こまらせて、嗚呼、嫌だ嫌だと厭うて日陰へ向かう。近くを見る使い魔と、遠くを見る使い魔が前に後ろに従っている。
目を伏せて、耳に入る音は聞き流して、一人の方へ、ひとりの方へ。過去とは真逆の在り方をする己は何だろうか。最早誰もかつての畏怖を込めた異名で己を呼びはしない。ただ狩るべき符牒として、魔女、と括られる。その声を恐れて息を潜めている。どうしてだか生きている、まだ。どうして。
暗がりに向かう足先、俯いた地面に黒々とした影が差す。それは踊るように軽やかで、けれど何よりも濃く暗い影だった。影の持ち主がひとつ動く度に、あんまりにも重い影が引きずられて、まるで涙みたいに飛び散っていく。遮光眼鏡の向こうにその景色を見つける。
かつての異名には程遠い間の抜けた名で呼ばれて、小さな頭を持ち上げた。随分高い位置にある相手の頭は燃える炎の色彩を宿して虚ろで、爛々とした瞳は底が見えないほどの悲しみに枯れ果てている。嗚呼、嫌だ嫌だ。お互いに、どうしてだかまだ生きている。彼がいるから、まだボクはいるに違いない。幾分か低く落ち着いた、かつての己の声が聞こえた。
(ジル/じょ)
夏の空蝉。
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色とりどり、鮮やかに光。痛いほどの熱を湛えた陽光に晒されて、黒く濃い影が輪郭を描く。
透鏡の小さな遮光眼鏡で、その幾百ものを光を遮る。あの豊かな色彩を美しく、興味深く、静かに心を弾ませながら眺めて酒を舐めていた頃もあった。しかしながら今は薄黒く透かし見るのが精一杯で、それだって目を背けている。
随分と低くなった目線を地面に向けて、小さな体躯を益々縮こまらせて、嗚呼、嫌だ嫌だと厭うて日陰へ向かう。近くを見る使い魔と、遠くを見る使い魔が前に後ろに従っている。
目を伏せて、耳に入る音は聞き流して、一人の方へ、ひとりの方へ。過去とは真逆の在り方をする己は何だろうか。最早誰もかつての畏怖を込めた異名で己を呼びはしない。ただ狩るべき符牒として、魔女、と括られる。その声を恐れて息を潜めている。どうしてだか生きている、まだ。どうして。
暗がりに向かう足先、俯いた地面に黒々とした影が差す。それは踊るように軽やかで、けれど何よりも濃く暗い影だった。影の持ち主がひとつ動く度に、あんまりにも重い影が引きずられて、まるで涙みたいに飛び散っていく。遮光眼鏡の向こうにその景色を見つける。
かつての異名には程遠い間の抜けた名で呼ばれて、小さな頭を持ち上げた。随分高い位置にある相手の頭は燃える炎の色彩を宿して虚ろで、爛々とした瞳は底が見えないほどの悲しみに枯れ果てている。嗚呼、嫌だ嫌だ。お互いに、どうしてだかまだ生きている。彼がいるから、まだボクはいるに違いない。幾分か低く落ち着いた、かつての己の声が聞こえた。
(ジル/じょ)
夏の空蝉。
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Day16「にわか雨」 #文披31題 #小咄 #翼角
自分は空――カラだ。空でいい。空であるべき、だった。
無道を名乗るのであれば。そんな矛盾にはとうに気づいていて、ならばもう旧きだけを縁にした時代錯誤の存在など本当に消えてしまえばいいのだと己に存在を関したのが先の春。たった一人、約束の子どもを守護するためだけに、己は『無道空』だった。
と、去年を振り返りながらまるいつむじを見下ろす。子どもは資料室の床、無道の足下に無造作にしゃがみ込んで低い声で呟いている。無道の適当な相槌に気づくこともなく、真宮が、俺だって、あいつはいつも、そんなことをずっと垂れ流していた。青少年の真摯な悩みで、愚痴で、もしかすると惚気だった。
適当な相槌を続けながら、施錠せず閉じただけの扉に視線を向ける。何分あれは何もかも隠さないから、恐らく無道でなくても見えない接近に気づくだろう。当の子どもだけは気づかないのだが。
その、年齢相応で、ほんの少しで揺らいではその度に強固になってゆく関係を笑う。そんなところにばかり気づいた子どもがむっとした様子で顔を上げて、無遠慮に開け放たれた扉に肩を跳ねさせるまであと少し。目の前で子どもたちの言い合いが始まるまではもうしばらく。
自分は空だ。そのはずだった。けれど今はもう、荒れては凪ぐ雲模様を見下ろす空のようだとすら思う。その事実にまた可笑しくなって笑うが、扉が開け放たれた音に掻き消され誰にも気づかれることはなかった。
(無道と大和/翼角高校奇譚)
空、くう、から、そら。
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自分は空――カラだ。空でいい。空であるべき、だった。
無道を名乗るのであれば。そんな矛盾にはとうに気づいていて、ならばもう旧きだけを縁にした時代錯誤の存在など本当に消えてしまえばいいのだと己に存在を関したのが先の春。たった一人、約束の子どもを守護するためだけに、己は『無道空』だった。
と、去年を振り返りながらまるいつむじを見下ろす。子どもは資料室の床、無道の足下に無造作にしゃがみ込んで低い声で呟いている。無道の適当な相槌に気づくこともなく、真宮が、俺だって、あいつはいつも、そんなことをずっと垂れ流していた。青少年の真摯な悩みで、愚痴で、もしかすると惚気だった。
適当な相槌を続けながら、施錠せず閉じただけの扉に視線を向ける。何分あれは何もかも隠さないから、恐らく無道でなくても見えない接近に気づくだろう。当の子どもだけは気づかないのだが。
その、年齢相応で、ほんの少しで揺らいではその度に強固になってゆく関係を笑う。そんなところにばかり気づいた子どもがむっとした様子で顔を上げて、無遠慮に開け放たれた扉に肩を跳ねさせるまであと少し。目の前で子どもたちの言い合いが始まるまではもうしばらく。
自分は空だ。そのはずだった。けれど今はもう、荒れては凪ぐ雲模様を見下ろす空のようだとすら思う。その事実にまた可笑しくなって笑うが、扉が開け放たれた音に掻き消され誰にも気づかれることはなかった。
(無道と大和/翼角高校奇譚)
空、くう、から、そら。
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Day15「解読」 #文披31題 #小咄 #王女と騎士
一日の終わりあたりに、今日は何をした、という話をする。
それは他愛もない雑談の成りをして、その実、慎重を期した情報収集だった。話を振るこちらは真実の全てを決して話しはしない、それに引き替え若き監督官殿は宙を見上げて指を折る。夜の寒村、室内で頼りになる明かりなど俺の灯した魔術照明しかない。そこに今日の一日が映り込んででもいるかのように、目を細めて見上げながら一日を振り返っている。
曰く、村内の見廻り、三日前にぎっくり腰になった爺さんの荷車の修理、村で一番腰の曲がった婆さんのところで薪割り、子どもたちの山狩りの付き添い、漁師の爺さんたちと仕掛けた罠のチェックと修繕。成程、王宮から派遣された若き監督官殿らしい仕事ぶりである。島の通過時期ではないから航路の監視がないのは理解できるとして、全く素晴らしい。
――というようなことを、俺は極めて婉曲に表現した。お前が手伝ってくれて、村の連中も感謝してるよ、そんな感じに。
特に肯定は返ってこなかったし、否定めいた謙遜も聞こえなかった。ただ温い沈黙があった。その不自然な会話の隙間に、手慰みのように整理していた薬品箱から会話相手へ視線を転じた。
少年とは決して呼べないが、成人と聞くと唸りたくなる。監督官はそういった年頃の男だった。それがじいっと、何を言うでもなく俺を見つめていた。どこかぼんやりもした視線だった。もしも指摘すればハッとして取り止めるだろう、その程度の無意識に違いなかった。
けれど俺は、肩書きばかり立派な子どもの視線に意味を見出してしまう。野放図に伸びる銀髪が暖色の照明の下、やわらかくまろく佇んでいる。俺よりも幾分低い位置にある頭の天辺を見つめる。そこに何かが収まるべきのように思える。
俺の手が動いたのも、そういったものに看過された無意識に違いなかった。ありがとうな、だったか、助かるよ、だったか、とにかくそういった類いのことばが唇から滑り落ちていた。銀色の光彩が細められて、密かな喜色を滲ませていた。だからこれで正解だったのだと思う。思うが、それは正解でいいのだろうか?
(ルークとシーレ/王女と騎士)
それを読み解けてしまう時点でもう不正解。
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一日の終わりあたりに、今日は何をした、という話をする。
それは他愛もない雑談の成りをして、その実、慎重を期した情報収集だった。話を振るこちらは真実の全てを決して話しはしない、それに引き替え若き監督官殿は宙を見上げて指を折る。夜の寒村、室内で頼りになる明かりなど俺の灯した魔術照明しかない。そこに今日の一日が映り込んででもいるかのように、目を細めて見上げながら一日を振り返っている。
曰く、村内の見廻り、三日前にぎっくり腰になった爺さんの荷車の修理、村で一番腰の曲がった婆さんのところで薪割り、子どもたちの山狩りの付き添い、漁師の爺さんたちと仕掛けた罠のチェックと修繕。成程、王宮から派遣された若き監督官殿らしい仕事ぶりである。島の通過時期ではないから航路の監視がないのは理解できるとして、全く素晴らしい。
――というようなことを、俺は極めて婉曲に表現した。お前が手伝ってくれて、村の連中も感謝してるよ、そんな感じに。
特に肯定は返ってこなかったし、否定めいた謙遜も聞こえなかった。ただ温い沈黙があった。その不自然な会話の隙間に、手慰みのように整理していた薬品箱から会話相手へ視線を転じた。
少年とは決して呼べないが、成人と聞くと唸りたくなる。監督官はそういった年頃の男だった。それがじいっと、何を言うでもなく俺を見つめていた。どこかぼんやりもした視線だった。もしも指摘すればハッとして取り止めるだろう、その程度の無意識に違いなかった。
けれど俺は、肩書きばかり立派な子どもの視線に意味を見出してしまう。野放図に伸びる銀髪が暖色の照明の下、やわらかくまろく佇んでいる。俺よりも幾分低い位置にある頭の天辺を見つめる。そこに何かが収まるべきのように思える。
俺の手が動いたのも、そういったものに看過された無意識に違いなかった。ありがとうな、だったか、助かるよ、だったか、とにかくそういった類いのことばが唇から滑り落ちていた。銀色の光彩が細められて、密かな喜色を滲ませていた。だからこれで正解だったのだと思う。思うが、それは正解でいいのだろうか?
(ルークとシーレ/王女と騎士)
それを読み解けてしまう時点でもう不正解。
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Day14「浮き輪」 #文披31題 #小咄 #翼角
溺れる者は何とやら。
とはいえ、掴んではいけないものもあるのではないか。本郷大和が後悔したのは救出が為された後だった。
見上げた水面は夜の中、逆光の輪郭だけを描いていた。救いを求めて伸ばした己が手の輪郭すら曖昧で、光輪めいて淡い影だけがその瞬間のよすがだったのだ。引き上げられた陸の上で水を吐いて咳き込みながら、やっと大和は己を救った者を見た。つまり後悔した。
「――山伏より俺を選ぶなんて、随分賢くなったじゃねぇか。ん? 大和」
「――げ、きっ……!」
思わず漏れた声は再び咳き込む合間に消える。朧月に淡い色素の髪を溶かす同級生はあまりにも、あまりにも機嫌よくしゃがみ込み大和の背を擦る。否、叩く。そうかそうか元気かよかったな、など心にもないことを呟きながら、そして傍らの月を見上げた。
「月影」
夜闇と月光から滲み出るように現れる人影。人、などではないことは大和も理解している。夜の高校のプールサイドにはあまりに違和感のある着流し姿に、胸元はゆうに超えて伸ばされた髪。尖った耳に、伏せがちな人ならざる色彩の瞳。その静かな熱は名を呼んだ少年にだけ注がれている。
その熱など知らぬげに、歌うように、主たる少年は己の鬼に告げた。
「片付けろ」
応える声はない。ただ大和の頬をやわい風が通り抜けて、続けてぞわりと、全身が総毛立つ。大和の背を戯れに支える少年だけは平然と笑みを浮かべ、これから起こる人外の所業を眺めている。
(大和とナナキと月影/翼角高校奇譚)
気をつけろ大和!ナナキルートだ!
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溺れる者は何とやら。
とはいえ、掴んではいけないものもあるのではないか。本郷大和が後悔したのは救出が為された後だった。
見上げた水面は夜の中、逆光の輪郭だけを描いていた。救いを求めて伸ばした己が手の輪郭すら曖昧で、光輪めいて淡い影だけがその瞬間のよすがだったのだ。引き上げられた陸の上で水を吐いて咳き込みながら、やっと大和は己を救った者を見た。つまり後悔した。
「――山伏より俺を選ぶなんて、随分賢くなったじゃねぇか。ん? 大和」
「――げ、きっ……!」
思わず漏れた声は再び咳き込む合間に消える。朧月に淡い色素の髪を溶かす同級生はあまりにも、あまりにも機嫌よくしゃがみ込み大和の背を擦る。否、叩く。そうかそうか元気かよかったな、など心にもないことを呟きながら、そして傍らの月を見上げた。
「月影」
夜闇と月光から滲み出るように現れる人影。人、などではないことは大和も理解している。夜の高校のプールサイドにはあまりに違和感のある着流し姿に、胸元はゆうに超えて伸ばされた髪。尖った耳に、伏せがちな人ならざる色彩の瞳。その静かな熱は名を呼んだ少年にだけ注がれている。
その熱など知らぬげに、歌うように、主たる少年は己の鬼に告げた。
「片付けろ」
応える声はない。ただ大和の頬をやわい風が通り抜けて、続けてぞわりと、全身が総毛立つ。大和の背を戯れに支える少年だけは平然と笑みを浮かべ、これから起こる人外の所業を眺めている。
(大和とナナキと月影/翼角高校奇譚)
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Day13「牙」 #文披31題 #小咄 #リボ
鈍く鋼が鳴る。微かに火花すら散る。刹那の花も得物の唸りと風切り音に消え失せる。
距離を取る。棍を正中に構え直す。型を取るのは基本だが、切っ先の向こうで相対する人は無造作に突っ立っている。磨き抜かれた寵姫のような黄金の髪は無造作に、砂と一緒に風と靡く。腰に巻かれたほつれた肩布がばさばさとはためいて、手足もただその場に突っ立っている。二点、右手が長尺の鉄扇をこちらに突きつけて、天穹の頂点より尚遠い碧眼が静かにこちらを見つめている。
それだけで動けない。額に滲んだ汗が、雫になって垂れ流れていく。乾いた風が幾度か二人の間を通り抜けて、そして最後にふっと止んだ。心底、呆れた、という笑いと共に。
「――止めだよ、止め。理由はわかるかな、ティル」
「……はい」
ど、と。雫になって流れた汗が、それでは足りずに噴き出していく。水分がそこに全部持っていかれたかのように口の中が乾いている。少し気を抜けば尻から座り込みそうで、ただ棍を構え続けることで耐えた。
少年の姿勢に、麗人はまた笑った。先ほどよりも柔らかい微笑だった。相変わらず瞳の碧は遠かった。
「それはよかった。わからないほど勘が悪いようなら、これから先君に付き合うことはないだろうからね」
歌うように告げながら、靡く金の髪を押さえる。鉄扇は閉じて腰帯に仕舞われ、つまり稽古の時間は終わりだと告げている。
あの黙して相対する間、この人の頭の中で自分は何度打ち倒されたのだろうか。少なくとも何一つ抵抗できなかったことだけは少年にもわかった。実際、身動ぎすらも叶わなかった。
踵を返す背中を前に、ようやっと棍を下げる。乾いた口の中を舌でなぞる。
あの人を前にして、何もできない。全てを見透かされているとすら思う。腹の底で静かに飼い慣らしている遠くの意図すら。そのときが来ても何もできないのではないかと。この怯えも丸ごと全部、研ぎ澄まさなければいけない。せめてあのつまらなさそうに去りゆく背に一突きを見舞う、そんな夢想ができる程度には。
(ティルとカイ/風紋記)
手を合わせるまでもなく脳内で一方的にボコられるけど心の内には小さな獣を飼っている
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鈍く鋼が鳴る。微かに火花すら散る。刹那の花も得物の唸りと風切り音に消え失せる。
距離を取る。棍を正中に構え直す。型を取るのは基本だが、切っ先の向こうで相対する人は無造作に突っ立っている。磨き抜かれた寵姫のような黄金の髪は無造作に、砂と一緒に風と靡く。腰に巻かれたほつれた肩布がばさばさとはためいて、手足もただその場に突っ立っている。二点、右手が長尺の鉄扇をこちらに突きつけて、天穹の頂点より尚遠い碧眼が静かにこちらを見つめている。
それだけで動けない。額に滲んだ汗が、雫になって垂れ流れていく。乾いた風が幾度か二人の間を通り抜けて、そして最後にふっと止んだ。心底、呆れた、という笑いと共に。
「――止めだよ、止め。理由はわかるかな、ティル」
「……はい」
ど、と。雫になって流れた汗が、それでは足りずに噴き出していく。水分がそこに全部持っていかれたかのように口の中が乾いている。少し気を抜けば尻から座り込みそうで、ただ棍を構え続けることで耐えた。
少年の姿勢に、麗人はまた笑った。先ほどよりも柔らかい微笑だった。相変わらず瞳の碧は遠かった。
「それはよかった。わからないほど勘が悪いようなら、これから先君に付き合うことはないだろうからね」
歌うように告げながら、靡く金の髪を押さえる。鉄扇は閉じて腰帯に仕舞われ、つまり稽古の時間は終わりだと告げている。
あの黙して相対する間、この人の頭の中で自分は何度打ち倒されたのだろうか。少なくとも何一つ抵抗できなかったことだけは少年にもわかった。実際、身動ぎすらも叶わなかった。
踵を返す背中を前に、ようやっと棍を下げる。乾いた口の中を舌でなぞる。
あの人を前にして、何もできない。全てを見透かされているとすら思う。腹の底で静かに飼い慣らしている遠くの意図すら。そのときが来ても何もできないのではないかと。この怯えも丸ごと全部、研ぎ澄まさなければいけない。せめてあのつまらなさそうに去りゆく背に一突きを見舞う、そんな夢想ができる程度には。
(ティルとカイ/風紋記)
手を合わせるまでもなく脳内で一方的にボコられるけど心の内には小さな獣を飼っている
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Day12「色水」 #文披31題 #小咄 #王女と騎士
ひゅうひゅうと、呼吸だけを繰り返す。
身体が重かった、熱かった。視界は赤い。なのに二本の足はしっかりと地面を踏み締めて、足下はぬかるんでいる。身体を引き摺るように一歩を踏み出せば、びちゃり、びちゃりと濡れた音が響いた。ちゃらり、ちゃらりと、身体の一部ほどに馴染んだ鎖が鳴っている。
どこを、何を、どうして、今はいつ。三々五々と巡る疑問に、赤い視界が影を宿してぐらついている。足下を、引きずって歩いてきた道を見ようとする。ちいさな雫が、一歩進む度に落ちて、波紋を広げていく――その赤がやんわりと闇に閉ざされた。
「へいへい、そこまでそこまで」
は、と短く呼気が落ちる。重い感覚にまるで似つかわしくない、軽々しい声だった。己の視界を後ろから塞いで、進む一歩を引き留めている。
「見たくないなら見なくてもいい。ぜーんぶオレに任せておきな。オマエは何も考えなくてもいい――」
ぱしりと。
その声を、言葉を、閉ざす闇を払い除ける。
手の甲で銀の鎖がちりちりと音を立てて、己の肌に食い込んでいる。視界が急速に開けて、背後にいたはずの存在が目の前に立っていた。降参めいて両手をひらひらと挙げながら、実に、実にうれしそうに笑っていた。
「――それでこそ、オレの可愛いシーレだよ」
誰がお前のだ。言葉と共に、口の中に溜まって声を塞いでいた何かを吐き出した。足下の水で跳ねたそれにまた、赤い男はケラケラと笑い声を上げた。
(シーレとイエス/王女と騎士)
頼れるシーレのブレーキ、ちょうちょ結びのおさげ野郎。
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ひゅうひゅうと、呼吸だけを繰り返す。
身体が重かった、熱かった。視界は赤い。なのに二本の足はしっかりと地面を踏み締めて、足下はぬかるんでいる。身体を引き摺るように一歩を踏み出せば、びちゃり、びちゃりと濡れた音が響いた。ちゃらり、ちゃらりと、身体の一部ほどに馴染んだ鎖が鳴っている。
どこを、何を、どうして、今はいつ。三々五々と巡る疑問に、赤い視界が影を宿してぐらついている。足下を、引きずって歩いてきた道を見ようとする。ちいさな雫が、一歩進む度に落ちて、波紋を広げていく――その赤がやんわりと闇に閉ざされた。
「へいへい、そこまでそこまで」
は、と短く呼気が落ちる。重い感覚にまるで似つかわしくない、軽々しい声だった。己の視界を後ろから塞いで、進む一歩を引き留めている。
「見たくないなら見なくてもいい。ぜーんぶオレに任せておきな。オマエは何も考えなくてもいい――」
ぱしりと。
その声を、言葉を、閉ざす闇を払い除ける。
手の甲で銀の鎖がちりちりと音を立てて、己の肌に食い込んでいる。視界が急速に開けて、背後にいたはずの存在が目の前に立っていた。降参めいて両手をひらひらと挙げながら、実に、実にうれしそうに笑っていた。
「――それでこそ、オレの可愛いシーレだよ」
誰がお前のだ。言葉と共に、口の中に溜まって声を塞いでいた何かを吐き出した。足下の水で跳ねたそれにまた、赤い男はケラケラと笑い声を上げた。
(シーレとイエス/王女と騎士)
頼れるシーレのブレーキ、ちょうちょ結びのおさげ野郎。
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Day11「蝶番」 #文披31題 #小咄 #トウジンカグラ
ここは存外と特等席だ。杯を傾けながら、左しか残っていない目玉をほんのわずかに右へ左へ。お互いから視線を逸らして、その実、真ん中にして真ん前の波佩など路傍の石の如く扱って互いだけを意識する男たち。
「……ので、波佩殿もおわかりかと思います。これの言い分に理がないと」
「るッせェな。言いてェことあンなら自分で言えよ、コッチに借りンじゃなくてよ」
お互いの口に波佩を上らせて尚、互いしかいない訳である。ここに可愛い懐刀がいれば不敬だと甲高く喚いているところだが、義弟夫夫の痴話喧嘩に入れる必要もあるまいと下がらせている――熊野だけは座敷の隅で黙して座しているが。
ここまで互いにいがみ合いながら、未だ先に折れるのはそちらだと言わんばかりに矛先を下げている。成程成程。波佩は器用にも頷きながら杯を干した。遠路遥々、生まれたばかりのよちよち歩きが七宝ではなくこちらを頼ってきたというだけで義弟に肩入れしたくなるが、男の性分として義弟の傲慢な口ぶりにも大いに同意できるところがある。
どちらかに言を傾け、更に場を引っ掻き回すのが一番楽しいに決まっている。しかしながら露の上下二国を従える辣腕の領主は、そこまで享楽的ではなかった。
故に空の杯をたんと畳上に落とした。濃藍の義弟がはっとして、黄金の義弟がちらと目端で波佩を捉える。それを間違いなく認めて鷹揚に頷き、そして波佩は立ち上がる。獣の尾に似た結い髪が撓って跡を曳き、追うように存在すら沈黙に閉じ込めていた熊野が続いた。
「夫夫喧嘩は犬も食わんと言うからな。オレは暫し席を外す故、いくらでも、奥深くまで、二人で語り合え!」
じゃあまたな! 呆然と見上げる二対の瞳を置き去りに、波佩は揚々たる足取りで己の間を辞した。
子は鎹、とはよく言ったものである。しかしながら波佩は夫夫の子ではなく義兄であり、鎹ほどの勤勉さもなかった。二人を只中で支える程度はしてやるとして、どちらにも気紛れに懐を広げる程度には適当であった。
全てを開け放したまま、波佩は熊野だけを従えて城下へと足を向けた。日の高い今のうちから浴びるように酒を飲むつもりである、恐らく夫夫の語らいは夜更けまでは続くはずなので。
(波佩と氷雨と穂群/トウジンカグラ)
いつかの夫夫喧嘩で家出する穂群と後手後手で追いかける氷雨の話。蝶番のようにバタバタと、ふたりを繋ぎつつもどちらにでも懐を広げる男。
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ここは存外と特等席だ。杯を傾けながら、左しか残っていない目玉をほんのわずかに右へ左へ。お互いから視線を逸らして、その実、真ん中にして真ん前の波佩など路傍の石の如く扱って互いだけを意識する男たち。
「……ので、波佩殿もおわかりかと思います。これの言い分に理がないと」
「るッせェな。言いてェことあンなら自分で言えよ、コッチに借りンじゃなくてよ」
お互いの口に波佩を上らせて尚、互いしかいない訳である。ここに可愛い懐刀がいれば不敬だと甲高く喚いているところだが、義弟夫夫の痴話喧嘩に入れる必要もあるまいと下がらせている――熊野だけは座敷の隅で黙して座しているが。
ここまで互いにいがみ合いながら、未だ先に折れるのはそちらだと言わんばかりに矛先を下げている。成程成程。波佩は器用にも頷きながら杯を干した。遠路遥々、生まれたばかりのよちよち歩きが七宝ではなくこちらを頼ってきたというだけで義弟に肩入れしたくなるが、男の性分として義弟の傲慢な口ぶりにも大いに同意できるところがある。
どちらかに言を傾け、更に場を引っ掻き回すのが一番楽しいに決まっている。しかしながら露の上下二国を従える辣腕の領主は、そこまで享楽的ではなかった。
故に空の杯をたんと畳上に落とした。濃藍の義弟がはっとして、黄金の義弟がちらと目端で波佩を捉える。それを間違いなく認めて鷹揚に頷き、そして波佩は立ち上がる。獣の尾に似た結い髪が撓って跡を曳き、追うように存在すら沈黙に閉じ込めていた熊野が続いた。
「夫夫喧嘩は犬も食わんと言うからな。オレは暫し席を外す故、いくらでも、奥深くまで、二人で語り合え!」
じゃあまたな! 呆然と見上げる二対の瞳を置き去りに、波佩は揚々たる足取りで己の間を辞した。
子は鎹、とはよく言ったものである。しかしながら波佩は夫夫の子ではなく義兄であり、鎹ほどの勤勉さもなかった。二人を只中で支える程度はしてやるとして、どちらにも気紛れに懐を広げる程度には適当であった。
全てを開け放したまま、波佩は熊野だけを従えて城下へと足を向けた。日の高い今のうちから浴びるように酒を飲むつもりである、恐らく夫夫の語らいは夜更けまでは続くはずなので。
(波佩と氷雨と穂群/トウジンカグラ)
いつかの夫夫喧嘩で家出する穂群と後手後手で追いかける氷雨の話。蝶番のようにバタバタと、ふたりを繋ぎつつもどちらにでも懐を広げる男。
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二年前の日記からサルベージ。
前回記事より後のお話、つまり本編のすべてが終わった後。
本郷君と真宮君と鬼道君が今城君を発見
「あ、千尋先輩」
大和が思わず声をあげる。並んで歩いていた鷹臣は大和のほうをちらりと見て、それから大和の視線の先へと目をやる。
駐輪場にかかる柱の向こうに千尋はいた。それともう二人、どこかで見たような男子学生と女子学生。千尋と女子学生は狼狽したような表情で男子学生を見ている。
「おう、渦海先輩じゃん」
「うわっ! ……い、たのか鬼道」
湧いたとしか思えないほど唐突に、大和と鷹臣の間からナナキがにゅうっと顔出していた。数センチほど飛び上がらんばかりに驚いた大和に構わず、ナナキは件の三人を見ている。
「まじでやってんのか先輩。こりねーなあ」
「何、何が? 渦海先輩って、えーと」
「生・徒・会。後任指名制度が生きてるなら東宮先輩の次はアレが生徒会長だと」
と、嘯くのが現生徒会役員である。そういえばこいつそんな役職持ってたっけか、思えば先日の翼角祭でもあちこちでよく分からない仕事をするにはしていた気がする。
思い出しても曖昧なのは、多分にあの事件のせいだ。大和はぎこちなく視線を彷徨わせた。あれから何週間も経っていないのに平然としているナナキにはいろんな意味で感心する。ある意味いつも通りに輪をかけていつも通りといえばナナキよりむしろ鷹臣のほうだが。
と、ここでふと気がついた。ナナキが湧いたというのに鷹臣が無言を貫き通している。
「――……」
鷹臣は目を細めて、あの睨むような目で、千尋を見ていた。
「……真宮?」
ナナキを睨むならともかく、千尋をそんな風に見つめる理由が見当たらない。思わず名前を呼べば、鷹臣はゆっくりと大和へ視線を合わせる。そこでようやく眉間に皺を寄せた。
「……いつからいた、鬼道」
「ヤッダー、結構前からだけど?」
ナナキは含んだ目で千尋と鷹臣を見比べ、それからにやりと笑って、
「もしかしてお前、今更気づいたの? アレに?」
鷹臣が黙り込む。大和は首を傾げる。
「何?」
「んー? 今のお前なら見えるんじゃねえの? センパイの、肩の」
「肩?」
センパイ、といって顎をしゃくられたのは千尋だった。大和は目を凝らす。千尋の肩。肩……
首を捻る大和を放置して、ナナキはにやにやと笑んだまま鷹臣に絡んでいく。鷹臣は心底嫌そうに身を引いたが、ナナキはずいと顔を寄せた。
「お前、本郷ばっか気にしてオツトメ忘れてんだろ? お前よかずーっと無道のがアレ、気にかけてたぜ?」
「……お前は」
「俺? んなの、初見でまず気づくだろ」
背後の会話を辿りながら目を凝らす。ふわりと白いものが揺れたような気がして、大和は目を瞬かせた。千尋の肩に、何か白いものが――気のせいじゃない。いやな感じはしないけれど、千尋の肩あたりに、誰かいる。
* * * * * * * * * *
7つ目の後。
・本郷大和:つかれやすかったひと。7つ目なので過去形。
・真宮鷹臣:見えるものをかたづけるひと。
・鬼道ナナキ:見えるひと。なんかするかどうかは気分次第。
・今城千尋:常についてるひと。
・渦海彼方:2年生。年齢的には3年生。次の生徒会長候補。
・無道:先生。見えるものをどうにかするひと。
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