ナナキと月影
月影。
声なき声、唇を震わせるだけで名前を紡ぐ。雑踏の中のそれはクリスマスを楽しむ人波に気づかれることもなく、まるで初めからそうであったかのようにナナキの背後に現れた影など当然往来を賑やかすこともない。
するりと隣に並ぶ長身をナナキは唇の端に笑みを乗せて見上げる。日の落ちた大禍時、冴えた冬の空気にイルミネーションが淡い光を散らして人ならざる異端を浮かび上がらせる。白く細い面はこの季節殊更に寒々しく、一枚纏っただけの着流し姿はまた痛々しく映るだろう――見る者がナナキでなければ。
「お前、今日はどうした」
「……何がだ」
淀んだ応えに、ふぅん、と鼻を鳴らす。惚けてみせる、などという可愛げをこの人外が見せるとは珍しい。
歩みを止めることも緩めることもなく、流れるようにナナキは問いを重ねる。
「出てこなかったろ」
月影は基本的に人間には見えない。見えなければこそ、常にナナキの背後に控えている。基本的に、であるからして見える人間や、月影が『見せる』相手の目には映るのだが、それならそれで既に月影の存在は周知されている。姿を消す必要はない。ましてや相手が本郷大和であれば尚更だった。
あの特異な――特異だった存在は月影という人外の鬼を一人の人間として扱っている節すらある。今日も言葉にすることはなかったが、幾度となくナナキの背後に視線を送っていた。かつて辛酸を舐めさせられた筈なのに、健気と言おうか、律儀と言おうか。それも既に高校一年の時点で終わったことであるからして今更取り沙汰すこともないのだろうけれども。
故に、尚更なのだ。仮にこの人ならざる存在が、本当に仮に大和に負い目を感じていたとして。それでも平然と接した残る高校生活の二年間がある。今更月影が大和の前に現れない理由がない。
華やかな冬の彩りを見せつける百貨店のショウウィンドウ、外界など知らぬとばかりにお高く止まった時計屋の看板、イルミネーションの巻かれた街路樹を二、三本。それほど歩みを進めたところで、ちいさく応えがある。
「……何と言うか」
えらく言い淀むな、と思う。本来力そのものである鬼に饒舌と流暢を望む方が間違っている自覚はあるので待つ。
「邪魔をしては悪いと。本郷殿との水入らずを」
「……――フハ、」
やっとそれらしく返ってきたことばは、ナナキの思う間違いを思いがけず訂正するものだった。
歩きながら、それでも体をくの字に折って低く笑う。行き交う人々が遠巻きにナナキを避けてゆくがさしたる問題ではなく、それよりも珍しくむすりとした表情を浮かべている――ように見える己の鬼の方が余程興味を惹かれる。
まったく、今日は珍しいの大盤振舞いかとナナキは月影を改めて見上げた。
「キヅカイどーも。お前、急に人間みたいなこと言い出したな」
「お前こそ」
不機嫌そうに長い耳が震えている。薄紙一枚向こうの世界の住人は、しかし金の目にイルミネーションの光を反射してナナキを見つめた。首を竦めてみせれば予想通りのことばが続く。
「珍しく、人間らしいことをしていただろう」
「どれが」
「今日の面会からして。それから……本郷殿と修験の関係を無闇に弄り回すのもそうだが、身長の話など」
最後の点に関しては自覚があった。努めていたと言ってもいい。
ナナキにとって人間の身体的な差異など大して意味を持たない。小さかろうが大きかろうが、美しかろうが醜かろうが全て外側の話。皮一枚剥げば構造など同じだ。それらを美点だ引け目だと大騒ぎする心理はナナキにはわからない。
ただ、高校生の大和が唯一ナナキに対して優位を感じていたらしい点を覆した現在、逆に及び腰になっているようなので突いてやった。いい加減無意味だと気付ければいいものを。とはいえ悔しそうに視線を彷徨わせる様はなかなか胸のすくものがあるのでやっぱり気付かなくてもいい。
鷹臣との話は正直癖である。大和の反応が一番いいので仕方がない。
久しぶりに会ってみようかという気になったのは――確かに月影の言う通りかもしれない。
「別に、気紛れだよ。でもまあ感傷がなかったわけじゃない」
得たり、とばかりに月影が頷く。ナナキは街路樹の切れ目に開けた公園へと足を向ける。イルミネーションの賑やかしさから途端に切り離された、切れかけているらしい街灯が瞬く公園に人の気配はない。日没が早まったとはいえ、まだ十二分に学生や労働者たちの帰宅時間だ。表通りとは光と影のあり様である。
ナナキは公園の中ほどまで歩き、手近なパンダの遊具に寄りかかった。顔を上げればビルに切り取られた藍色の空に、霞むほどの星が浮かんでいる。
「そういえばどうしてるかなァ、程度のモンだけど」
明日からは少しばかり、この空から離れることになっている。ここよりはもう少し星の光が届くだろうが、反比例して退屈な場所だろう、程度の予感もある。どちらが良いかと問われればどっちもどっちだが、たまのオツトメなので仕方ない。実家のそれよりはマシである。
淡い光が視界の端を掠める。月影だ。三歩ほど離れて立つ鬼の、その名の通りぼんやりとした光。在るものを映し返すだけの色。
これが現実に在るものなのか薄紙一枚向こうの世界が見えているのか、『ナナキ』の目では判然としない。ただ、手を伸ばせば三歩を詰め、ナナキの指先にそっと唇を寄せてくる。爪先に震えが走るのは月影が囁いたから。
「……それでも、会って良かったと思っただろう」
「……言うなぁ、お前」
思わず苦笑がこぼれた。
お前が言うのか、とも思う。鬼のお前が。愛して依存した鬼のために本郷大和という人間一匹を丸々捧げようとしたお前が。まるで人間の慈愛を持つかのように?
指を伸ばして月影の顎を掬い取る。今度伝わる震えは官能を帯びている。ぱちりと耳の先を跳ねさせて、月影は目を細めている。
「確かにな。何にも色のなかったアイツが、あの消え入りそうな桜と真宮だけじゃなくそれなりの色持って、生きてて、然も惚気るときた。正直――そうだな、安心したかもな」
まるで、ただの友人のように。至極普通の友人のように。
安心、とはこういう意味だろうか。そう長くもない人生で初めて使った言葉なのでどことなく座りが悪い。鬼道ナナキらしくはないが、この心境に当てはまることばを探すとそうなるだろう。
月影の瞳がゆらりと、感情を孕んで揺らめく。月影が浮かべる、七罪に数えられるそれは決まっている。月影自身のものかナナキにそれを見出したのかは知らないが。
「お前も一度くらい、そこにいようと思ったんじゃないのか」
「一度くらい、じゃなくて、二度三度、それ以上だよ」
頤から頬へ。つるつると指先を滑らせる。この世あらざるモノはしかし、冬の冷気を多分に孕んでいた。ナナキは喉を鳴らす。
「だってそうだろう。死にそうになりながら生き足掻くよりずっと手っ取り早い。俺は優しくはないから喰ってやってもよかった。やんなかったのは――これも俺が優しくないからだ。『俺』はあんな魂貰っても困る。解るな? 月影」
指先を唇の端へ。爪先をほんのわずか潜り込ませて。僅かに触れる粘膜に熱はない。割り開くように横に滑らせて引き抜く。
取り戻した指先を軽く舐れば、ただ冬の空気に触れて冷えるだけだった。
「感傷はあっても、お前の喰い物になるような感情はない。『俺』は、『鬼道ナナキ』だ。それも解るな」
人は、人という記号である。鬼道ナナキには世界がそう見える。
平坦で埋没した世界にあって、ぽかりと浮いた空白。初めの本郷大和はナナキにとってそういう人間だった。あれは何せ異様に目立つ。無道が目指す矛盾の存在とは斯くや、何もないということは『何もない』という事実として浮き彫りになる。それが白紙の契約書であれば欲しがる存在は有象無象、果てもない。目の前の月影も、この身足り得る――あるいは足り得たもう一匹の鬼もだ。
だが、ナナキはナナキだ。等しく万物に興味があり、興味がない。指先で転がすのは趣味であってもそれを手にしようとは思わなかった。もしかすると手にする未来もあったのかもしれないが、大和の傍らに寄り添う山伏を思えば傍観者であることを選んだ方が好奇心を満たせると思った。それだけのこと。結局、ナナキが『ナナキ』である以上傍観者では終わらなかったが、それはナナキのみの所業ではない。
では、同罪を背負うものはどこか?
冷えた指を再度伸ばす。ぺたりと月影の頬を片手で覆い、長い耳朶を擽りながら辿る。尖った先を弾いて、落ちる鶯色の髪を掬い取ってやった。滑らかな感触を刹那楽しみ、そのままするすると下へ辿り、緩く結われたひと房を手に取る。口元に寄せる。
「髪」
もういない。少なくとも不在に等しい。
それを焦がれる、けれども自ら選ばなかった月影の傷口に爪を立てる。
「伸ばしてやろうか、俺も」
ぴりりと震えが奔った。
月影の耳がすっと伸びている。この辺りはほとんど獣の所作で、なのにナナキを見下ろす金色の目は泥々と、人間そのものの感傷が渦巻いている。触れればねとりとして逃げられない、そういう粘っこさすらある。
歌うように息を吐く。唇で感じ取る月影の髪は冷たく、滑らかで、柔らかい刃物のようだ。しかし月影はそれを振るうことができない。ざくざくと突き立てるのはナナキの方だった。
俺も、とは、比較の対象を差している。ナナキであってナナキではないもの。ナナキと、そして月影と同罪にして七罪の一。明確な記憶はないが、背や腰に触れ跳ねていた髪の感触は覚えている。
表通りの喧騒も届かない宵闇の公園に沈黙は長く、途切れたのは息を吐く音によってだった。するりとナナキの指を鶯色が滑り落ち、取り戻した月影はいつものようにひと房の髪を垂らした姿勢で腕を組んでいる。
「意趣返しか」
「いや? 良い子の月影チャンに、クリスマスプレゼントだよ」
パンダから身を起こす。空の手を伸ばしても月影は微動だにしなかった。差し出がましいことを言ったと省みてでもいるのだろうか、感情のまにまに生きこそすれ自重などは程遠かろうに。傷口はそれなりに痛んだと見える。
ほくそ笑んでまた鬼の頤を掬う。すっと背筋を伸ばし、下方から月影の瞳を覗き込む。人ならざる色は今は穏やかに揺れていた。
「で? 返事は?」
「……不要と言っておく」
「そうだ」
冷えた肌を擽る。人差し指の一本で、人間であれば太い脈の走る辺りを下へ、下へ。鬼ならば何が流れているのだろうか、解いてみないことにはわからないが人間と似たような拍動がナナキの肌を掠めている。
捕らえる。人差し指に親指を添えて、続けて中指から二本、三本。縊る様と同じように掌中に収めても月影は微塵も揺るがない。
ナナキならば己を害することはないという信頼、などではない。全くない。
鬼であるならばナナキ程度に殺されることなどないという自負、或いは傲りでもない。そちら件のもう一匹の専売特許だ。
月影の不動は、ナナキにならば縊られても良い、縊って欲しいという客観して歪んだ、されどどこまでも月影を月影足らしめる浅ましくもいじらしい願望である。
ナナキはよくよくそれを心得ている。心の底から微笑む。こういう時の心境はもしかしたら自分ではない者の意思が混ざっているかも知れない、と思う。これはつまりまだ『あれ』が居るのではないか、とも考えるが、月影に伝えてやるつもりはなかった。
言霊を紡ぐ。渇いて冷えた空気はよくよくナナキの声を響かせた。
「俺が、『鬼道ナナキ』がお前のあるじだ。お前はこの手指と同じ、等しく俺のものであり力でもある。俺が生きている限り『次』は無く、お前は俺の所有物で在り続ければそれでいい。そうだろう?」
「……ああ」
応えは是。
声ではない。感嘆の吐息である。相も変わらず媚びた官能を滲ませて、それが月影という鬼である。
これは、光という寵愛を受けて生きるもの。自己は他に依存するもの。太陽を焦がれて止まないもの。
それでも陽に生きるに背を向けて、確かにナナキを選んだ憐れむべきものだった。ことばを違えるなら、そう、愛おしいと呼んでも差し支えないのかも知れない。
首に絡めていた指を解く。つっと辿るのは首の背。冷えた髪を絡め取りながら後頭部を抱えて引き寄せれば素直に伏せる。
「良い子だな、月影」
「ん……」
唇を食めばやはり冷たい。大人しく薄く開いた唇に舌を挿し入れても指先で弄んだと同様に熱はなく、しかし指で触れるよりは心地いい。すぐ目の前の金の瞳はとろりと溶けているようだった。
果たして鬼には血が流れているのか、脈があるのか。とりあえず唾液はあるらしい。ぬる、と舌と舌を絡ませればなじんだ味がする。甘くも苦くもなく、かと言って不味くもない。月影の味。
目を細めた。溶けた月影の瞳に光が刹那奔る。舌を解いて唇を離せばつっと引く糸も銀に光る。静謐な宵の暗がりを裂く。声をそっと、吐く。
「――散れ。邪魔をするな」
潮の引くような音がする。
無論、錯覚である。わずかにナナキの髪を揺らした風ばかりは現実だろうか。文字通り後ろ髪を引かれる仕草で振り向けば灰のように黒い何かが舞っていた。
「何だった? 『ウジ』か、『アリ』か?」
もう一度振り向く。月影はいつもの乏しい表情に呆れたような色を混ぜていた。問答無用で吹き飛ばしたことに対してだろうが、所詮正体を知るまでもなかったということだろうに。むしろ後手でも確かめようとしたことを褒めてもらってもいい。
小言を重ねることもなく、もちろん褒めることもなく、ナナキの背後を正眼に捉えていた月影は淡々と答える。
「ただの『カゲ』だった。大方、街の明るさに誘われて湧いたんだろう」
「クリスマスだからなぁ。妬ましいのも多いんだろ」
喰ってもよかったぞ、と付け足せば首を横に振られた。この鬼も随分と美食家なものだと思う。自分といるだけで満たされているのだろう、とは理解しているが。
うら寂しい公園はそんなつもりもなかったが片付けてしまった。ナナキはぐっと伸びをして表通りへと踵を返す。通りすがり様、ほんの一時世話になったパンダの背を労いも込めて叩いてやった。
「そもそも、」
今日の夕飯はどうするか、などと考えながらイルミネーションの踊る歩道に出ようかというタイミングでぽつりと背後から声。振り向けば月影が神妙な顔つきで付き従っている。
「現代社会において、男の長髪は生きづらいんじゃないか」
「それで高校教師やってた奴いるからなあ……山伏も今ロン毛らしいぞ。大和のスマホで見せてもらったけどめっちゃウケた」
「お前の修験に対する感情を差し引いても、笑いがある時点で一般的ではないということだろう」
光と色彩が溢れる。クリスマスムードを賑やかす街の灯りに、行き交う車のヘッドライト。ナナキの目に映る世界はどれだけ光があろうと平坦だが、今は少しだけ人の世の熱があった。
ナナキがナナキである限り、その背にはこの世あらざる光にして影がついて回る。されどその人外も少しばかりは己の世界を捨てているのだ。選び難かったはずの過去を、自ら他愛もない話として口にできる程度には。
人界にふたりきり。己を理解できるのは自分の一部たる相手だけ。それで何の不都合があろうか。
ひとり世界を笑いながら、ナナキは冬の雑踏に身を滑り込ませた。