No.2425

Day29「思い付き」 #文披31題 #小咄 #トウジンカグラ
 夜闇がそっと退いて、淡い光が里を満たす頃に目が覚める。
 それはうつくしい夜明けであり、野分のところの雌鳥が甲高い声を上げる、実に単純な朝の訪れでもあった。ついでに、普通、雌鳥は朝に鳴かないんだけどねえと、何かの折に不思議そうに呟いた紫燕の台詞を思い出す。
 衣擦れの音に、伏したまま目を開く。逞しい背中が起き上がっている。この季節だからと裸身に長襦袢を被って横になったことを思い出す。辛うじて、と付け足さざるを得ないのは、この背中の持ち主に抱き込まれながらほとんど気を遣ったからだ。
 二人で一枚を羽織ったので、背中が剥き出しな以上、襦袢は己にまだ被さっている。こちらがまだ眠っていると思っているのだ。伴侶が己より遅く目覚めたことは今までなかったことを思い出す。だから、朝の身支度をする背中は初めて見た。
 剥き出しの背中には、細かな赤い引っ掻き傷が奔っている。野放図に伸びた髪が揺れながら、傷を撫でたり隠したりしている。男の手がその髪をまとめて掴む。いつものように結い上げるのだろう。気づいた瞬間、のっそりと起き上がっていた。襦袢が滑る衣擦れの音に気づかれるより早く、背中の傷を己の胸で覆った。腕を相手の胸に巻きつけて、閉じ込めて、まだ結われていない髪へと鼻先を突っ込んだ。
「穂群」
 少しだけ驚いた響きを混ぜて、伴侶が名前を呼ぶ。染み入るような低い声が気持ちよくて目を閉じる。このままここで眠りたい。鼻先には硬い髪の感触が触れ、男の匂いが立ち込めている。深く息を吸って、肺いっぱいに吸い込む。
「……嗅ぐな」
「んー?」
 首を傾げる。擽ったいのか、男の身体が震える。ほんのりと汗の混ざった、深い森のような、静かに佇む木々のような匂い。心地良い。吸って、吐いて、伴侶の首筋で息をする。
 しばらくは諦めたように何も言わなかったが、やがて硬い膚の手のひらが己の腕を掴んだ。引き剥がされたくなくて、腕にはやんわりと力を込める。胸を背中に擦り寄せて、すると前の方から息を詰める音が聞こえる。己の胸の尖りがつんと膚を押しただけなのに。笑いそうになって、堪える。笑ったら怒られて、剥がされてしまうから。下肢を擦り寄せるのも堪える。怒られて押し倒されるのもいいけれど。
 持ち主の手が諦めた髪にそっと触れる。束ねて掴んで、名残惜しく鼻先を埋める。唇で触れる。戸惑うような気配があるので、口を開く。目覚めたばかりで掠れた声になっている。
「結ってやる」
 戸惑いが留まる。己は伴侶にいつも髪を結ってもらうが、己が伴侶の髪を結ったことはない。それを相手も知っている。こちらもわかっているので、見よう見まねで髪をまとめて、引っ張ってみる。
 やがて諦めを含んだ吐息が聞こえた。被せるように笑った。楽しくて仕方がなかった。ぐちゃぐちゃに仕上がって、笑って、やっぱり諦めた顔の伴侶が今度はこちらの髪を手にするのはもうすぐ後。櫛が要るなと最後に囁いた声の重さを知るのは、この季節が終わる頃に。
(氷雨と穂群/トウジンカグラ)

某誕生日に続く。
閉じる

ネタ

プライバシーポリシー
当ページでは、cookieを使った以下のアクセス解析サービスを利用しています。
●アクセス解析研究所
このアクセスデータは匿名で収集されているものであり、個人を特定するものではございません。
こうした履歴情報の収集を望まない場合、cookieの受け入れを拒否することが可能です。詳細はご利用のブラウザの設定をご確認ください。
詳しくはサービスのプライバシーポリシーをご覧ください。