Skeb、もしくはクリエイター様とツイートと、トウジンカグラが終わらなかった話の日記 #トウジンカグラ開くトウジンカグラは1話、いいとこ2話で終わるはずだった。予定ではなく継続力の話として、始めにキャラありきの創作で、私自身に何事も地道に続ける根性はなくて、そもそも仕事をしながら趣味の作文をするなんて正気の沙汰じゃないな~と思っていた。何かわからんなぞのやる気が急に湧いたばかりに、2021年の年末から当時時点で17年前にキャラを起こしてそれきりの創作を練り練り練り練り練り直し、できる限りの形を作り、描けもしないのにネットオタク人生16年目にしてペンタブを買ってイラストも整え氷雨に至っては17年前のビジュアルから改め、正月にはまあ書き上がるでしょとか言いながら全然終わらず、あまりに終わらないので怠惰な生活習慣を改めて打ち込み時間を確保するなどして1月20日に個人サイトに公開したのが2年前。創作はまず個人サイトで、投稿サイトは遅れて追随するという何となく根付いている精神性に基づいて個人サイトという自分の城に自分がいいなと思うページを整えてアップロードした。人間なので欲がある。なぞのやる気に突き動かされてなぞに1話を公開した、どうせすぐ止めるだろうけれどエンドマークがついていない以上続ける気があるってことで、じゃああわよくば自分以外の誰かにも見てもらえたら嬉しい。一切誰も見なくていいと思っているならワールドワイドウェブにアップロードはしないでしょう。トウジンカグラはいい歳をしてそれでも創作することを止めない自分の挑戦だった。プロット考えないすぐに飽きるマン、同じく当時時点で17年前から数年単位でチマチマ字や絵に起こしていた翼角もいざ本編を書こうとするとあの体たらく、成人してチョビッと働いて早々にダウンして通院しながら時間だけ持て余していた時分に創り上げたミコトさんもあの中断っぷり。タイムカードもなければ有休消化義務さえ果たせない果たさない前時代的劣悪早よしょっ引かれろ労働環境で、描きたいから以外のエッセンスを加味して恣意的に創作するアタマが多少は芽生えた今、果たして何がどこまでできるのか。二次創作での小説は何となく書いてきた。後述するけれど、諸々を置いて文章だけなら「全く以て凄く巧くはないけれど読めないことはない」レベル、というのが客観的な自分の文章なんだろう。一次創作は違う。二次創作は既に大多数の人間が共通の理解やある程度近似した解釈を持っている、という前提がある。キャラクターの容姿や所作や声、背景の町並み、世界の文化レベル、そういう世界を理解する基盤を皆が同じ公式から読み取っているけれど、一次創作はもう全然そうじゃない。必要な情報は全部開示して読んでもらえる盤面=文章でなければ何も通じない。思えばJKの頃、自分の創作の小説を友人に読んでもらって理解して欲しい要素が全然伝わらなくて、小説を書いたルーズリーフを1人グチャグチャに丸めてゴミ箱に捨てて、でも結局後で拾った、あの経験はトラウマなんだろうなと今更気付く。些細なことが伝わらないのが怖いので文章も描写も冗長を極めるし、Aはイスから立ち上がった、そして赤い扉の真鍮のノブに手を掛け、ゆっくりと回した。見上げる程高い窓が壁そのもののように居並ぶ長い長い廊下を、ガラスの向こうの曇り空と陰鬱など知らぬげに灰色の下咲き誇る淡い色の花々を見ながら進む。みたいな一挙手一投足を余さず書いたようなメガ盛り駄文にしないと気が済まない。個人サイトは人など来ない。当時のTwitterも歴史創作から繋がった人が見てるかな見てないな、一次創作をする人をちょっとフォローしたな、ぐらいだったと思うので、忖度してページを開いて下さるような方も恐らくいなかった。なので投稿サイトで公開することがゼロからの、いわば世界への本当の挑戦になる。一次創作投稿サイトの主流など無論知らない。昔々小説家になろうが隆盛を始めたぐらいに一作品を投じてもちろん何も起きないまま後年そういえば投稿してたなで非公開にして、投稿するかも知れないなでアルファポリスのアカウントを持っているだけだった。それも全年齢ファンタジー作品なのでまあ参考にならない。調べたところBLで年齢指定ありならまあムーンライトノベルズと二次創作の投稿に使っているPixivがユーザー層的に安パイかな…となった。見返したら21日にムーンライトノベルズに投稿して、23日にPixivに投稿してた。なんか知らんがラグがあった。誰か読んでくれる人がいるだろうか。自分がこうだと思って描いた世界は、文章は、自分以外にも理解してもらえるものだっただろうか。指標になるものは数字しかない。数字だって別に読まなくても数は増えるから意味はない。大変無意味な行為ではある。しかもキャプションが読もうという気を一切起こさせないあらすじ。読んで欲しいなら自分と作品のマーケティングに努めるべきだが自分には悲しいほどにメタ認知能力がなかった。ところで自分はずっとPixivのユーザー名でリアルタイム検索をする悪癖があった。二次創作を投じては界隈の誰かがなんか呟いたりしてくれないかなと探して有難いことに誰かが呟いたらそれを黙ってスクショして満足する、承認欲求マシマシ陰キャムーブのためである。凄くキモい。でもまあそのキモいムーブが、自己実現と承認欲求をどうにか繋いでやる気へと繋げてくれるワケ。繰り返すけれど、どの口が何を言ったってワールドワイドウェブに公開するなら誰かに見て欲しい欲がゼロなはずがない。自己実現だけで己の欲求を無視してモチベーションを保つのは凄まじい精神力が必要だし、承認欲求に傾くと怪物になる。ありもしないと嘯きながらあるといいなと希望を抱いてしまうのが人間でしょう。Pixivのツイートボタンから、トウジンカグラの1話こと「人斬りクソビッチがモブの心を折る話」を呟いて下さった。好きだった、読んで下さいの言葉まで添えて。この嬉しさを表現する言葉を自分は持たない。初めて、自分だけが抱えて描いて下手くそな文章で表した世界を、人を、第三者に理解してもらった。自分の文章は人に想像の世界を伝えられた、グチャグチャに丸めて捨てなくてもいいんだ。読んでもらったのみならず、わざわざツイートをする、というお手間まで頂いて、好きだった、とまで言ってもらって!初めて第三者に自分の創作を認知してもらった。自分の脳内だけではなく、世界に自分の創作が存在を始めた。そういう感動と感謝と、よかった、許されたという気持ち。凄まじいカタルシス。私は第二の誕生という概念が好きだけれど、創作におけるそれ。私の文章は人に伝わる、この安堵。あのツイートをしていただかなかったら、ああやっぱり駄目なんだな、で自分にあるだけの熱量で、1話を書き上げた満足、よくて2話3話までで終わっていただろう。もっともっと、まだ、もう少し、そうはならなかった。もちろん「初めて」は1回だけなので、奇跡的に他の誰かが自分の創作を世界に認めてくれて今に帰結したかも知れないけれども。もちろん壊滅的に冗長な悪文なことは変わりがないし、1話あたり平均20,000字とかいう読む気を削ぐ文量で、しかももう10話を超えた。どう考えても素人の文字数だけ嵩んだ作文なんて読む気が起きるはずがない。それでもこんな悪文の小説を、描ききれない世界やキャラクターをまだ見て下さる方がいる、自分は継続力のない人間なので、何度これは自分のための自分だけが楽しいだからいつ止めてもいい創作と嘯いても、絶対に自分1人ではここまで続けられなかっただろう。誰かがわざわざ読んで下さって、しかも読んだことを伝えていただけたから生き繋いでいる。心の底からそう思います。ということを今回のSkebの納品を頂いて、あのときのツイートをまた読み返させていただいて思いました。ラベリングヘタクソマンが火群を稀に「物騒受け」「オラついた受け」と称するのも彼の方のツイートからです。でももちろんいつ更新を止めるとも知れない、それが自分の創作な訳なんですけれども。閉じる 2024.2.2(Fri) 03:08:12 メモ,日記
トウジンカグラは1話、いいとこ2話で終わるはずだった。
予定ではなく継続力の話として、始めにキャラありきの創作で、私自身に何事も地道に続ける根性はなくて、そもそも仕事をしながら趣味の作文をするなんて正気の沙汰じゃないな~と思っていた。
何かわからんなぞのやる気が急に湧いたばかりに、2021年の年末から当時時点で17年前にキャラを起こしてそれきりの創作を練り練り練り練り練り直し、できる限りの形を作り、描けもしないのにネットオタク人生16年目にしてペンタブを買ってイラストも整え氷雨に至っては17年前のビジュアルから改め、正月にはまあ書き上がるでしょとか言いながら全然終わらず、あまりに終わらないので怠惰な生活習慣を改めて打ち込み時間を確保するなどして1月20日に個人サイトに公開したのが2年前。
創作はまず個人サイトで、投稿サイトは遅れて追随するという何となく根付いている精神性に基づいて個人サイトという自分の城に自分がいいなと思うページを整えてアップロードした。
人間なので欲がある。なぞのやる気に突き動かされてなぞに1話を公開した、どうせすぐ止めるだろうけれどエンドマークがついていない以上続ける気があるってことで、じゃああわよくば自分以外の誰かにも見てもらえたら嬉しい。一切誰も見なくていいと思っているならワールドワイドウェブにアップロードはしないでしょう。
トウジンカグラはいい歳をしてそれでも創作することを止めない自分の挑戦だった。プロット考えないすぐに飽きるマン、同じく当時時点で17年前から数年単位でチマチマ字や絵に起こしていた翼角もいざ本編を書こうとするとあの体たらく、成人してチョビッと働いて早々にダウンして通院しながら時間だけ持て余していた時分に創り上げたミコトさんもあの中断っぷり。
タイムカードもなければ有休消化義務さえ果たせない果たさない前時代的劣悪早よしょっ引かれろ労働環境で、描きたいから以外のエッセンスを加味して恣意的に創作するアタマが多少は芽生えた今、果たして何がどこまでできるのか。
二次創作での小説は何となく書いてきた。後述するけれど、諸々を置いて文章だけなら「全く以て凄く巧くはないけれど読めないことはない」レベル、というのが客観的な自分の文章なんだろう。
一次創作は違う。二次創作は既に大多数の人間が共通の理解やある程度近似した解釈を持っている、という前提がある。キャラクターの容姿や所作や声、背景の町並み、世界の文化レベル、そういう世界を理解する基盤を皆が同じ公式から読み取っているけれど、一次創作はもう全然そうじゃない。必要な情報は全部開示して読んでもらえる盤面=文章でなければ何も通じない。
思えばJKの頃、自分の創作の小説を友人に読んでもらって理解して欲しい要素が全然伝わらなくて、小説を書いたルーズリーフを1人グチャグチャに丸めてゴミ箱に捨てて、でも結局後で拾った、あの経験はトラウマなんだろうなと今更気付く。
些細なことが伝わらないのが怖いので文章も描写も冗長を極めるし、Aはイスから立ち上がった、そして赤い扉の真鍮のノブに手を掛け、ゆっくりと回した。見上げる程高い窓が壁そのもののように居並ぶ長い長い廊下を、ガラスの向こうの曇り空と陰鬱など知らぬげに灰色の下咲き誇る淡い色の花々を見ながら進む。みたいな一挙手一投足を余さず書いたようなメガ盛り駄文にしないと気が済まない。
個人サイトは人など来ない。当時のTwitterも歴史創作から繋がった人が見てるかな見てないな、一次創作をする人をちょっとフォローしたな、ぐらいだったと思うので、忖度してページを開いて下さるような方も恐らくいなかった。なので投稿サイトで公開することがゼロからの、いわば世界への本当の挑戦になる。
一次創作投稿サイトの主流など無論知らない。昔々小説家になろうが隆盛を始めたぐらいに一作品を投じてもちろん何も起きないまま後年そういえば投稿してたなで非公開にして、投稿するかも知れないなでアルファポリスのアカウントを持っているだけだった。それも全年齢ファンタジー作品なのでまあ参考にならない。調べたところBLで年齢指定ありならまあムーンライトノベルズと二次創作の投稿に使っているPixivがユーザー層的に安パイかな…となった。
見返したら21日にムーンライトノベルズに投稿して、23日にPixivに投稿してた。なんか知らんがラグがあった。
誰か読んでくれる人がいるだろうか。自分がこうだと思って描いた世界は、文章は、自分以外にも理解してもらえるものだっただろうか。指標になるものは数字しかない。数字だって別に読まなくても数は増えるから意味はない。大変無意味な行為ではある。しかもキャプションが読もうという気を一切起こさせないあらすじ。読んで欲しいなら自分と作品のマーケティングに努めるべきだが自分には悲しいほどにメタ認知能力がなかった。
ところで自分はずっとPixivのユーザー名でリアルタイム検索をする悪癖があった。二次創作を投じては界隈の誰かがなんか呟いたりしてくれないかなと探して有難いことに誰かが呟いたらそれを黙ってスクショして満足する、承認欲求マシマシ陰キャムーブのためである。凄くキモい。
でもまあそのキモいムーブが、自己実現と承認欲求をどうにか繋いでやる気へと繋げてくれるワケ。繰り返すけれど、どの口が何を言ったってワールドワイドウェブに公開するなら誰かに見て欲しい欲がゼロなはずがない。自己実現だけで己の欲求を無視してモチベーションを保つのは凄まじい精神力が必要だし、承認欲求に傾くと怪物になる。ありもしないと嘯きながらあるといいなと希望を抱いてしまうのが人間でしょう。
Pixivのツイートボタンから、トウジンカグラの1話こと「人斬りクソビッチがモブの心を折る話」を呟いて下さった。好きだった、読んで下さいの言葉まで添えて。
この嬉しさを表現する言葉を自分は持たない。
初めて、自分だけが抱えて描いて下手くそな文章で表した世界を、人を、第三者に理解してもらった。自分の文章は人に想像の世界を伝えられた、グチャグチャに丸めて捨てなくてもいいんだ。読んでもらったのみならず、わざわざツイートをする、というお手間まで頂いて、好きだった、とまで言ってもらって!
初めて第三者に自分の創作を認知してもらった。
自分の脳内だけではなく、世界に自分の創作が存在を始めた。
そういう感動と感謝と、よかった、許されたという気持ち。
凄まじいカタルシス。私は第二の誕生という概念が好きだけれど、創作におけるそれ。
私の文章は人に伝わる、この安堵。
あのツイートをしていただかなかったら、ああやっぱり駄目なんだな、で自分にあるだけの熱量で、1話を書き上げた満足、よくて2話3話までで終わっていただろう。もっともっと、まだ、もう少し、そうはならなかった。もちろん「初めて」は1回だけなので、奇跡的に他の誰かが自分の創作を世界に認めてくれて今に帰結したかも知れないけれども。
もちろん壊滅的に冗長な悪文なことは変わりがないし、1話あたり平均20,000字とかいう読む気を削ぐ文量で、しかももう10話を超えた。どう考えても素人の文字数だけ嵩んだ作文なんて読む気が起きるはずがない。
それでもこんな悪文の小説を、描ききれない世界やキャラクターをまだ見て下さる方がいる、自分は継続力のない人間なので、何度これは自分のための自分だけが楽しいだからいつ止めてもいい創作と嘯いても、絶対に自分1人ではここまで続けられなかっただろう。誰かがわざわざ読んで下さって、しかも読んだことを伝えていただけたから生き繋いでいる。心の底からそう思います。
ということを今回のSkebの納品を頂いて、あのときのツイートをまた読み返させていただいて思いました。
ラベリングヘタクソマンが火群を稀に「物騒受け」「オラついた受け」と称するのも彼の方のツイートからです。
でももちろんいつ更新を止めるとも知れない、それが自分の創作な訳なんですけれども。
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