ダニエル 4
*BL/R-18
必要なものはいくつかあった。清潔な布、着替え、湯、それから薬。
ちいさくしゃくり上げ続ける主を一人にするのは忍びなかったが一度部屋のベッドにルドルフを寝かせ、ヨハンは密やかに、且つ迅速に事を進める。湯などは自分以外の者の手を借りる必要があったが、寝ずの仕事に従事していた使用人たちに声をかけ何があったとは悟らせずに用意させた。
持ち歩いていた手燭がいくらも減らないうちに主の部屋に戻る。ノックだけで部屋に踏み入れば、暗い部屋にはまだ微かに泣き声が響いていた。布団に潜り込んでいるため姿は見えない。けれど布の小山は嗚咽と共に跳ねるように上下する。
「若君」
声をかけると末期の痙攣めいて跳ね上がる。嗚咽は呻きに似た堪えるものに代わり、震える布まで強ばっているように見えた。
あまりよくはない精神状態だろう。ヨハンは持ち込んだ道具類を一度テーブルの上に置き、木桶の湯に布を浸した。固く絞ったそれを手にベッドに近寄り、震える主の影に手を伸ばして触れた瞬間ひっと上がる悲鳴。内側からきつく引かれるシーツは明確に拒絶を示している。
失礼します、と形ばかりを口にした。そのままシーツを掴み強引に剥ぎ取る。抵抗はもちろんあったが、未成熟な上に疲弊したルドルフよりはまだヨハンに利があった。
「や、いや!」
「……ルドルフ様、申し訳ありません」
いずれ双頭の鷲を継ぐ雛。聡く、周囲を察するに長けた子。早く大人になることを求められ、それを悟り、応えるべく生きてきたに違いない。
教育を仰せつかった幼い頃からルドルフを見守ってきた。けれど思えば――今、いいや今朝まで、こんなに真っ直ぐに感情を表す姿は見たことがない。母を亡くした日でさえ、涙はヨハンの胸に押し隠していた。
そのルドルフが泣きじゃくって、幼い口調で拒絶している。今まで押し隠してきたか、あるいは本人も気づかずしまい込んでいた辛さや痛みを全て混ぜ込んで。ちいさく固く、己を守るように身を縮こまらせる姿をいっそ真綿で包み込んで守ってやりたいとすら思う。
同時に予感がある。このままでは、主は一生癒やせない歪みを抱えることになるのではないかと。
細い腕をまとめ上げて押さえ、ベッドに乗り上げた膝を割り入れ乾きかけた白濁で汚れる足を留める。大きく足を開いた姿勢で逃げ場をなくしたルドルフは大粒の涙を零しながら、ひゅうひゅうと吸う息の合間に叫んでいる。
「やだ、やだ」
「ルドルフ様、中のものを掻き出します」
部屋に微かに残った松明の火に照らされる痕に顔を顰める。開かれた足の間、本来開かれるはずのない場所は赤く腫れ上がり、もっと薄い赤を混ぜた白い子種を零している。中に残していれば確実に腹を痛めるだろう。
最早冷静を失ったルドルフの意思は尊重していられない。ルドルフが元の精神状態を取り戻したならばどんな責めも罰も受けようと、許可を得ないままヨハンは指を伸ばした。
「やっ――」
後孔の縁に触れた瞬間、とろりと白が流れ出す。ビクンと殊更大きく細い身体が跳ねた。
「おれ、から」
引き絞るような声が叫ぶ。ヨハンの押さえ込む身体が固く、瘧のように震え始める。
「おとうさんを、奪わないでっ――ッ、ッ!」
「っルドルフ様!?」
「ひゅ――ヒ、はッ――」
押さえ込んだ手が真っ白くなるほど握り込まれている。全身を硬直させてルドルフは目を見開いていた。吸うばかりの呼吸の中に最早言葉らしい言葉はなく、息を吐くことも忘れてぼろぼろと涙を零し続けている。薄い胸がぐうっと反って、涎を零す口は死に際した魚のようにはくはくと開かれていた。
ぞっとする。即座に恐ろしい思いつきをを打ち消す。
死ぬようなことではないはずだ。精神的に追い込まれたことと泣きすぎて呼吸のリズムを乱したこと、吐くことを忘れて吸うばかりになっていた息。過呼吸だと見て取り、ヨハンは固く握り込まれる主の手をきつく握った。時折思い出したように跳ねる身体を己の身体で押さえ込み、言葉を失くした唇を己の唇で塞ぐ。
「――ッ!!」
抵抗はない。ヨハンは目を瞑り、ひたすらに主の吸気を遮ることに専念する。
ヨハンを跪かせ、主としての言葉を下す口はちいさいのだと今更思う。触れる唇は冷たく、熱を分けるようにゆるく舌でなぞり、先端を差し入れる。ぬるい口内でちいさな舌まで強張っておりそっとそれも絡め取った。
「……ぅ」
か細い声が擦れ合う舌の隙間に漏れた。握り込まれていた手もヨハンの手のひらの中、少しずつ開かれてゆく。少しずつ弛緩してゆく身体が自らの下、それでも拒絶を含んで弱く抵抗する様にむしろ安堵した。ヨハンを拒むだけの意思と冷静さを取り戻したということなのだから。
手を離してももう振り回されることはなかった。そのまま薄く、じっとりと湿った胸に触れる。指先に柔らかい尖りが掠める。
「んっ……」
喉奥から漏れる色を含んだ声は意識から追い出した。触れる手のひらの向こうで鼓動は平静を取り戻している。体温も少し低いが温みがあり、硬直も解けていた。
「……ルドルフ様」
唇を離し、静かに名前を呼ぶ。そろりと顔を離せば泣き濡れた瞳がヨハンを見上げていた。
震える手が伸びてきてヨハンに縋りつく。言葉を返すことはせず、けれど抱き締め返すこともせずに受け入れた。
「……ヨハン」
「はい」
「おれ――おれ、は、父上に、ちちうえの、」
抱き締め返すことはしない、けれどただ受け入れ、背を支えながらヨハンはゆっくりと身を起こした。主のベッドに乗り上げて座り込み、首に両腕を回させた。ぎしりと寝台の軋む音は何かの悲鳴に似ている。抱きつく姿勢のまま膝の上に乗せてもルドルフは抵抗せず、素直にされるがままになっていた。先ほど見た光景と同じだと気づいて、自嘲めいた感情がヨハンを苛む。ルドルフはただ震える声で譫言を紡ぎ続けている。
片手でちいさな背を撫でながら、もう一方の手で寝台の端に放り投げていた布を手にする。まだ冷え切ってはおらず、水分も残っている。背筋を辿っていた指を腰へ、更に下へと伸ばしても、ルドルフはちいさく震えるだけで拒絶しない。
「父上の、代わりにはなりたくないっ……なれな、ぁ」
解ける蕾に指をあてがう。くっと、浅く人差し指の腹を押し当てれば熱い。ルドルフは細く苦痛を混ぜた声を漏らすが、ヨハンの背に爪を立てるだけで拒みはしなかった。
身を固くしながら受け入れる主の姿勢に更に指を進める。つうと垂れる白濁を布で拭い、奥へと指を進める。
「おれが、子を――のこせるように、なった、ら。父上はもう、安心だって、いなくなっ……ひ、う、ぅ」
呑み込む悲鳴はどちらの痛みに対してのものか。辿々しく繋ぐ言葉か、無理に受け入れ細く裂けた傷か。
まだ言葉は返せない。幼い主が何に思い詰めたのか、ヨハンは拙い言葉から見つけなければならないのだから。今は細い身体を支えて、貴方のためだと嘯いて傷を抉ることしかできなかった。せめてと支える手に力を込めれば、ルドルフも同じだけの力で縋りつく。肩口に濡れた熱を感じる。
「おれは、ははうえ、みたいにっ……父上を支えた、い、のに、おれは――おれは、母上には、なれないっ……おれが大人になったら――」
折り曲げた指を引き抜く。夜の闇、灯りに浮き上がる陰影に青い白が零れる。ルドルフは呻いて腰を浮かせ、しかしヨハンの押さえる手に従ってぎこちなく力を抜く。
「おれは、父上にいて欲しくて、いないとだめだって、言いたくて、母上の代わりになるって、でもおれ――俺では、伯母上の言う――父上を――おれが、俺、がっ、おとう、さ、ん、を――ぁ、あ、あっう」
零れた白を拭い、再び指を差し込めば顎を逸らして喘ぐ。痛ましい様すら稚拙に吐き出される言葉よりはましだと思ってしまう。
幼い主は己の肉体の成長を恐怖したのだろう、と推測する。精通を迎え、子を成せる身体になったということは尊き鷹の城の血に組み込まれるということだ。大人の言葉に耳を澄ませ顔色を見上げ、遅れて生まれた子どもながら精一杯次期当主足らんと、大人足らんと振る舞ってきた幼き王。生まれついての貴族。
それが現実を突きつけられた。亡き母のように父を支えられるのだと思っていたのに、己が『大人』になるということは更に次代へと繋ぐ準備が整ったということ。先代に、アルブレヒトに何が起きても血だけは繋げる、ということだと。
つまりルドルフの喜ぶべき成長が、不具の父に終わりを約束させるのだ。
無論、そんなに単純な話ではない。未だ成人を迎えぬ学びの途上の若い鷹に、大鷲は整え引き継がせるべきものが多々残っている。冷静に考えれば幼き主にとてわかりそうなものだが、どこでどう思い詰めたのかわからない。末弟の誕生と引き替えにもたらされた母の死か、あるいは嘆きに不意に紛れ込む伯母の言葉にか。
「ん、んんっ……や、ぁっ」
押し込んでいた指を曲げ、ひねるように種を掻き出せば指先がちいさなしこりを掠めた。途端ルドルフが身を捩り、ちいさく藻掻く。悲鳴が裏返り、腹部に押し当てられるものがあった。見下ろせば淡い色をした主の幼茎が、泣き震えながら僅かに勃ち上がっている。
確かめるようにしこりを揉む。ひあ、と叫んでルドルフがかぶりを振った。
男のここには感じる場所があると、ヨハンの飼い主たる淑女について回っていた時代、宮廷雀の囀りに聞き及び辟易した記憶がある。下卑た話だと思っていたが、今目の前で戸惑い喘ぐ幼い主の姿には確かに――胸にくるものがある。
こみ上げるどろりとしたものから目を逸らしながら、ヨハンはゆっくりと指を動かす。
「……ルドルフ様、感じておいでですか?」
「ぁ、ぁ、わか、んなっ、ぅ、いたいのっ、に……! ああっ」
「少し、快楽に身をお委ね下さい。ヨハンめに任せて――」
裂傷が痛むのは間違いないだろう。ただ主の身体は続く痛みの中に生まれた快楽を拾い上げ、必死に反応している。ならばいっそそこに沈めてやった方がましだろう。
そっと背を支える腕を緩めて覗き込めば、ルドルフは瞳を揺らして喘いでいた。常ならば決して見せない不安に、疲労と睡魔が混ざっている。
焦点を失う瞳を閉ざすように、ヨハンはルドルフの瞼に口づけた。いつも示される親愛の証に少しだけ安堵を滲ませルドルフは力を抜く。ヨハンはもたれかかる主を胸に受け止め、片手を綻ぶ蕾に、もう片方の手を蜜を結ぶ茎に添えた。
「ルドルフ様。失礼いたします」
「なに……やっ!? ぁ、ああ、あっ、ひア、やぁああああ――!!」
悲鳴と水音が夜に響く。
押し込んだ指を子種を掻き出すためではなく、快楽に導くために抜き差しする。同時に頭をもたげる陰茎を擦る。にち、にちゃ、じゅぷじゅぽと、聞くに堪えない音にルドルフは顎を上げ、仰け反り、かぶりを振って暴れる。
「や、ぁ、やだ、ぁあ、っん! なんかくる、くるっ、くるの、こわい!」
「大丈夫です。そのまま……」
「やっ――おとうさ――ァ――」
まだ幼い身体に過ぎる快楽は、すぐに終わりをもたらした。
ルドルフが目を見開く。ぼろりと、目端に留まっていた大粒の涙が零れた。
手足に固く力を込め、その身が覚えたばかりの射精を果たす。ぱたぱたと薄い子種をヨハンの腹に散らし、同時に後ろに突き入るヨハンの指をビクビクと締めつけた。
しばらく快楽の余韻に震えた後、幼い身体はくたりと弛緩する。我が身に何が起きたかも理解できないまま意識を落としただろう。身体の仕組みと子作りの術についてきちんと話ができていなかったのはむしろ幸いだったかも知れない。先ほどより重みを増した身体に安堵を抱きながら、布で拭った指で主の前髪を掻き分ける。涙の痕を残してルドルフは目を閉ざしていた。
「……おやすみなさいませ、若君」
露わになった額に口づけ、力の抜けた身体を寝台に横たえる。深い呼吸を繰り返す主に目を覚ます気配はなく、ヨハンはやっと本来の目的を遂行する。
あらかた子種を掻き出した秘所を丁寧に布で拭い、赤く腫れて傷を残すそこに薬を塗る。何度か温くなった湯で布を浸しながら全身を清拭し、最後に寝間着を着せてやった。
布団を被せ、少しも目覚める気配のない寝顔を覗き込む。苦悩の影を残しながらも表情は穏やかだった。ヨハンも少しだけ安堵する。
拭った涙の痕を確かめるように頬に触れれば少しだけ熱い。あれだけ身体に負荷をかけたのだから恐らく夜明け頃には熱が出るかも知れない。
また後ほど、次は水を持って様子を見に来よう。そう決めてヨハンは最後に、幼く尊い、愛すべき子どもの頭を撫でた。せめて今夜見る夢が優しいものであればいいと願いながら。
木桶や汚れた布、薬など、今夜の痕跡となるものを全て持ち部屋を辞す。すれ違う寝ずの使用人には適当にそれらしく誤魔化し、綺麗な湯を注いだ木桶と再び清潔な布、他にもシーツや替えの寝間着を見繕い次の部屋へと赴いた。不審でない程度に足早に、辿り着いた部屋の扉は静かにノックする。続けて声をかけるよりも先に返事があった。
『入りなさい』
「――失礼いたします」
細く扉を開け、滑り込むようにして入り込む。一礼して顔を上げれば、アルブレヒトは相変わらず厚いヘッドボードに沈み込んで、けれどしっかりと目を開いてヨハンを見つめていた。
穏やかな、けれどそこを透かすような瞳に不意にルドルフの中から掻き出した白を重ねてしまってぎくりとする。誤魔化すように――恐らくはそれすらも悟られるのだろうが、ヨハンは荷を抱えたまま寝台に傍寄る。
「お目覚めでいらっしゃいましたか」
「……さすがにね」
長持ちに荷を置き、薄く笑みを浮かべるアルブレヒトの背を支える。その笑みが苦笑なのか自嘲なのかは図りかね、また探ろうとも今は思えなかった。汚れた服を脱ぐのに手を貸し、湯に浸した布で身体を清めていく。
「ルドルフは?」
「……取り乱しておいででしたので落ち着かせました。それから少しばかり傷がありましたので手当てを。身をお清めして今は眠っていらっしゃいます」
拭う白濁がどちらのものなのかは意識から閉め出し、問われるままに答えながら新しい寝間着を着せていく。そのために何をしたのか、何を思ったのか、ルドルフが何について誰の名前を口にしたのかは伏せたまま。
曖昧な沈黙に気づかなかったのか、敢えて問い質すことはしなかったのか。されるがままに衣服に腕を通し、シーツを替えれば寝台に収まった大鷲の王はゆっくりとヨハンを見上げた。
王、なのだろうか。少しばかり戸惑う。
夜の闇に憔悴が浮かんでいる。包容を備え、常に穏やかに笑み、臣下の、民の声に耳を傾ける賢公。鷹の城の当主。市井の誰に問うても好意と尊敬の念を込めてそう答えるであろう人。
ヨハンとてその評に同意する。今の鷹の城が戴く、大鷲の王は皇帝の若造にも他家の当主にも劣らぬ傑物だと。
けれど今、ヨハンの目の前にいる人は。清潔な寝間着に身を包み再び寝台に身を沈める人は、当主として在るのではなく。
「何か、話していたかな」
「散漫な言葉ではありましたが……アルブレヒト様の代わりにはなれない、母君の――ヨハンナ様のようにお支えしたいのに、ルドルフ様が『大人』になってしまって……アルブレヒト様が退位されるのではないかと、いうようなことを」
「そうか……」
ただ一人の父親だった。
深く、胸の内の全てを吐き出すように長くアルブレヒトは息を吐いた。瞼を静かに閉じ、そして静かに天を見上げる。
「私は、あの子に敬愛されるほど立派な人間ではないのだけれどね」
「……そんなことは」
「あるとも。せがまれたとはいえ、実の息子を抱くような男なのだから」
返せる言葉はない。
黙り込むヨハンを薄く笑んで見上げる人は、当主ではなく、父でもない。
ただ一人の、迷える男だった。
「私の告解を聞いてくれるかな、ヨハン」
「……司教でもない私でよろしければ」
「構わないとも。赦しの秘蹟を授かりたいわけでもないのだから」
手を、と乞われ、ヨハンはアルブレヒトの手をシーツの上に乗せてやった。布から抜け出した腕をぎこちなく動かして、アルブレヒトは胸のあたりで指を組む。祈りに似て、けれど持て余すだけの仕草。
「司教――そう、思えばそれが始まりだったかな。単純な話だ」
夜の闇に静かに降り積もる。今やまるで、誰もが忘れてしまったような過去。
紡ぐ声は愛惜を込めて、けれどただ一人を疎むように折り重なる。
「私は本来、この家において不要と、役に立たないとされたはずの存在だった。兄上たちの言うがままに働くこともできず――それが今やこうして、不具の身ながら唯一の生き残りとして当主の座に収まっている」
姉上はそれも気に入らないのだろうけれど、と付け足して、アルブレヒトは笑った。
本来家と領地は、兄弟たちが共に治めるものである。無論分かたれれば分かたれるほど各々の治めるべきは小さく、また共有する兄弟たちが多ければ多いほど諍いの種にもなる。
アルブレヒト――アルブレヒトたちとて例外ではなかった。早くに亡くなった長兄を除いても五人の兄弟。その中でもアルブレヒトは司教として、聖界に入るはずだったのだ。それが理由もわからぬまま教皇から拒否され、アルブレヒトは鷹の城に舞い戻った。やがて皇帝位に手を伸ばした次兄も、兄を支えて戦った次の兄も弟も、最後まで共に家を支えていた末弟も亡くし、この人はただ一人の統治者として賢公と呼び慕われるまでになった。
本人の言葉通り、彼の姉――ヨハンを直々に召し上げたアグネスは少なからず思うところがあるのだろう。彼女は父と祖父の、偉大にして苛烈な手腕を見ている。アルブレヒトの争わず領地を守り保つ姿勢にもの申す姿をヨハンは幾度も見てきた。
「姉上は構わないんだ。けれど私は、兄たちの進もうとした道を諦め、それでいてただ一人生き残っていることを――そうだな、心苦しい、と思うこともある。……こんな私を皆が慕い、あるいは讃えてくれることに罪を感じる」
それは、と遮ろうとして、けれどヨハンは口を噤んだ。アルブレヒトは否定や客観視を欲しているのではない。
何よりも、アルブレヒトの瞳に過ぎり、あるいはヨハンの脳裏に蘇る白は彼の罪の所在はそこではないと訴えている。
「それでも私は唯一生き残った者として、何よりも領地と民を守らなければならない。こんな身体になってもまだ生き長らえている私は、恐らくこの家のために生を許されている。私はウィーンに、領民と領地に、ハプスブルクにこの身を捧げているつもりだ。責任と、贖いの元に」
組まれていた指がほどける。
行き場のない指先はペンだこの目立つ指を、手のひらを、手の甲を辿り、やがてぱたりとシーツに落ちた。
「けれどね、ヨハン。私も人だから」
低い声が夜に這う。
「――あの子が、泣いて縋りながら、私が必要だと、私が欲しいと訴える様に悦びを覚えてしまった」
灯りの落ちた夜なのに、ヨハンには込められた感情がいやに鮮烈に見えた。
それは仄かに炎を照り返す瞳のせいだろうか。あるいは少しずつ饒舌に、ほんの気のせい程度にでも加速してゆく口調のせいだろうか。
「この身も生も捧げたはずなのに、どうしようもなくあの子のものになってやりたくなる。同じぐらい、あの子が欲しいと思ってしまう」
言葉は熱すら宿していく。アルブレヒトの手の甲にきつく爪が立てられるのが見えた。
「――私を、ただのアルブレヒトを求めるルドルフが欲しいのだと」
アルブレヒトは笑った。
自嘲でもなく、苦笑でもない。夜よりは淡く、けれどどうしようもなく仄暗い悦びを湛えて。とろりと滴る白のように粘ついて、落ちる。ぞわりと背筋が粟立つのを感じ、ヨハンは固く指を組んだ。
情はともかく、役割の上では不要と断じられ、ただ生き残ってしまったがために業も悲願も背負うことになった男。滅私し、領地領民のために生きる尊き人。
……貴方だから必要なのだと、貴方だけが欲しいのだと告げられる甘美はヨハンも知っている。己を殺してまで耐えていた身ならばヨハンの知るそれよりも余程甘いだろう。ましてやあの無垢な瞳で、幼くも賢い子どもが過ちを承知で、全てを擲ってまで訴えたのであれば。
赦しは要らない、と言った。ただ罪を告白したいのだと。少なからず共感できるヨハンには断罪も赦しも与えられない。求められたものが耳を傾けることだけでよかったと思う。ただ司教のように厳かに、受け止める言葉だけを選ぶ。
「それで――今宵のこと、と」
「どうしようもなく、お互いに愚かだった。子の過ちを正さない私は悪以外の何物でもなく、罪と断じられるべきだろう。……だから相応の理由などないし、私が『辛い』と思うのも酷く傲慢なことなんだよ、ヨハン」
アルブレヒトは緩慢に、ルドルフを連れて辞した際のヨハンの答えを否定する。
そうして男はまた、長く深く息を吐いた。胸に溜まる澱を吐き出してなお澱む夜に目を伏せ、背のものを、と呟く。意図を汲んだヨハンはヘッドボードに添えていた寝具を外し、アルブレヒトの身体を横たえた。次に目を開いたアルブレヒトはもう、ルドルフの父であり、鷹の城の王である。
「聞かせて悪かったね、ヨハン」
「いえ。アルブレヒト様の御心が知れてよかったと思います。……けれどこのことは、どうか、」
「ルドルフに伝えることはしないよ」
断じる口調は柔らかくも硬質だった。
ヨハンなどが気にかけるまでもない。主として父として、あるいはただのアルブレヒトとして、この人は誰よりもルドルフのことを想っている。
「ただでさえあの子を傷つけた。今宵のことは――遠く先まで癒えないかも知れないけれど、それでもあの子に、これ以上悔いることだけはさせたくない」
ヨハンには頷くことしかできない。いくらでも否定できる、ただの願い程度の展望だ。
恐らくルドルフは、あの幼き主はいつまでも今夜を悔いるだろう。賢いが故に、これから先の、あるいは過去までも繋げて背負い込んで――無論、そんなことはヨハンがさせないよう、可能な限り傍で支え続けるつもりではあるけれども。
あるけれども、触れられない。身体の傷はいずれ癒える。けれど心に負ったものは目に見えず、いとも簡単に隠し通せて、触れることもできないのにずっと癒えようとしない。
アルブレヒトとてわかっているのだろう。まるで声に出せば叶うかのように、声だけは無邪気に未来を語る。
「もしも癒される日が来るとしたら、それは私ではないのだろうね。そのことだけが悔しいかな」
「……それこそ傲慢ですよ、アルブレヒト様」
ヨハンは辛うじてそう返した。愚かと笑うこともできず、願いを乗せて同意することもできない。結局、自分たちには傷を広げることしかできず、時だけが――時だけは、まだ大人になりきれない子どもを癒してくれるのだと信じるだけだった。
このときはまだ、夜明けほどの先すら見えない夜の淵にいたのだから。