ダニエル 4.5
馬鹿なことをしたと思う。
馬鹿なことをしていると思っていたし、馬鹿なことを考えていると気づいてもいた。そんなものは考えてもどうにもならないと、自分が自分としてこの家に生まれた以上決まっていたことだと知っていたのに。
けれど――大人になった身体に心が追いつかない。当然だと思っていたことが急に怖くなった。
優しい微笑みもぎこちなく撫でてくれる不自由な手も、いずれ失われてしまう。そして彼がいなくなった後、残されたものを自分が全て受け継ぐのだ。
ヨハンの心底から喜び慈しむ笑みに、未知の事態に恐れていた思考が急速に冷えていった。曖昧で身近な死より、確実な未来の姿の方が余程怖い。
その結果が、あれだ。
自分は誰よりも大切で、ずっと傍にいて欲しい人をただ傷つけた。
泣いて縋ればなかったことになるのではないかと、浅ましく自分を捧げれば繋ぎ止めておけるのではないかと――そんなの身勝手以外の何ものでもない。弟たちより、生まれたばかりの赤子の末弟よりも幼い考えだ。身体だけ大人になった分、赤子の癇癪よりも質が悪い。
こんな自分だからまだあの人の代わりにはなれないのに、現実は変わらず時は未来に向かって流れ続ける。
けほ、と喉から音が漏れる。昨夜散々喚いた喉が痛い。
喉だけではない。目元も引き攣れたように痛むし、熱が出ているせいで頭がぼうっとする。何より――下半身の、人には言えない場所にずくんずくんと鈍痛が響いている。
手を伸ばせば届く場所にヨハンが水差しを置いていってくれたが、少しも動く気力が湧かなかった。代わりに身体を横に向けたまま、乾いて固いシーツの中じわじわと丸くなる。自分を守るように丸くなって、小さくなって、このまま消えてしまえたら、なんて思いながら、もう一人の冷静な自分がそんなことは許さないと首を振る。目尻がぴりぴりと痛むのに、涸れてしまったのか涙は出なかった。
目を瞑る。昨晩ヨハンに連れられて部屋に戻ってから、浅く眠っては目を覚ましての繰り返しだった。シーツの向こうの世界には白んだ明るさがあったが、今が何時頃なのかもわからない。時折ヨハンが様子を見に来ているようだが、不十分な覚醒の間のことで確信が持てない。侍女たちも来ているのかも知れないが、恐らくヨハンが世話を全て請け負って近づかないように言い含めているのではないかと思う。
一番会いたくなくて、会いたい人は来ない。手足のままならないあの人は一人では歩けないから、わざわざここには来ない。父に罪を犯させた、愚かな子どものところになんて。
ひゅうと喉が鳴った。きつくシーツを握り締める。全身のあちこちの痛みに苛まれて、けれど涙は出ない。この期に及んで泣くなんて甘ったれたこと到底できないから、涸れ果ててしまったことだけは幸いだと思えた。
この世に一人きりみたいだ。白い繭の中で眠るように、シーツに潜って思考を沈ませる。
誰よりも、誰かに求められ育まれることで生きているだけの子どもが何を考えているのか。いいや考えるだけなら許されてもいいだろう――許される? 愚かな振る舞いで父を冒涜した自分が?
ひゅう、ひゅうと喉が鳴る。身体を貫く痛みに、破れるほどにシーツを握り締める。耳の奥でどくんどくんと脈打つ音が響いていて、頭の芯を痺れさせる刃鳴りに似た鋭い音が混じり始める。閉じた瞼の裏が真っ赤に染まって、力の抜けない身体が硬く強張り始めて――息が、息ができない――
真っ赤に塗り潰されていく思考に、不意にちいさな音が割り入った。
石床を踏む、軽い音。それから扉の開く音。いずれも囁くような静かで密やかなもの。薄い靴裏が石を跳ねる音が、徐々に近づいてくる。すぐ傍らで止まる。
「ルドルフさま」
赤い世界に、白い光が差した。
シーツの裾野がふわりと解ける。雪解けの山に春が来たみたいだと思った。隙間の世界からはそうっと、遠慮がちに覗き込む翡翠の瞳。
常にはくりくりとよく動くそれが、今は気遣いを以てこちらに向けられていた。健やかで美しい瞳に目眩を覚える。不格好に震える自分がその美しさに映り込んだ瞬間、嫌悪を覚えた。無論、美しいその人ではなく自分に対して。けれど逃げることもできず、そして彼女はこちらの胸の内も、昨晩犯した愚かな罪も知らない。
「ルドルフさま」
なのに――赦すような響きだと思うのは、自分がそれを求めているからなのだろうか。
少しだけシーツを捲り上げ、ちいさなまろい手が固く握り締められた手に触れてくる。――今は触れられたくない、貴女を汚してしまう。
恐れるのも刹那。こわばりを解くようにゆっくりと撫でながら、彼女は淡く微笑んだ。
「大丈夫ですよ……大丈夫」
三つ下の少女は母の包容で囁く。
微笑と、囁きと、ゆるり、ゆるりと緩慢な律動に、滞っていた呼吸が流れ始める。頭の中で響いていた刃物で裂く音が消えていって、流れと共に脱力してゆく。シーツが指の隙間から滑り落ち、ちいさな指に絡め取られるまでになってようやく、掠れる声で少女を呼んだ。
「カタリーナ……」
「はい。こんにちは、ルドルフさま」
するりと、完全にシーツの帳を剥がされる。まろい頬に薄く朱を乗せた、まだ十にも満たない許嫁のきれいな微笑みがよく見えた。鈍色の雲を透かす冬の濁った日差しの中、きらきらと、天使の梯子を下ろしたように輝く笑みに目を眇める。
どうして、と続ける声は醜く掠れていたが、少女はきちんと聞き入れて頷いた。聖母めいた笑みは年相応の、いつものくるりくるりと翻る稚気に満ちたものに変わっている。
「お見舞いです。ヨハンさまはダメだって仰ったんですが、私の旦那さまなんですから」
ご迷惑でしたか? と小首を傾げる姿に、内心で苦笑した。ちっとも迷惑だとは思っていない顔で、遊ぶようにこちらの手を握ったり解いたりしている。にぎにぎ、やわやわと続くそれは擽ったく、けれど振り払う気は起きなかった。
ませた口調に幼い仕草が酷く似合う。それでいて遠ざけようとするヨハンをしっかり出し抜いているのだから計り知れない。フランスの血が混じる彼女の、よくできた天使像にも似た容姿にそぐわない図太さが見えて、ついに笑いが零れた。
「まだ結婚していませんよ」
「あら、私がルドルフさまの妻になる以外の未来があります?」
掠れた声で告げれば、プラハから来た少女はちいさな胸をくっと反らす。
お互いにまだ言葉も覚束ない歳に決まった結婚だ。少女は嫁ぎ先であるこの城で妻となり、やがて鷹の城の母となるべく大切に養育されている。大切に、とは、用心深く、という意味でもあるのだが、少女は気づいているのかいないのか、爛漫に日々を過ごしている。
そう。この少女は自分の妻になる。この城の母になる。
自分の種を受け入れて育て、いずれ遠く先まで羽ばたくはずの雛を育てる。そのためだけに父の元を離れ、ともすれば敵国とも言える場所で暮らしているのだ。
くらりと、目が眩んだ。
冷たい夜の空気が蘇る。みっともなく啜り泣く自分の声と、言葉少なに受け入れる父と、ふたりの間で死んでゆく白を見る。
「ルドルフさま」
遠のく光をまた、少女の指が繋ぎ止めた。
「せっかく笑って下さったのに。よっぽどお加減が悪い?」
気遣わしげな声にほうと息を吐く。
彼女の傍は心地良い。大切にされていると思える。心が癒されて、身ひとつで自分の元へ来たこの少女を守らなければと思う。きっと彼女と彼女の持つ優しさはこの先ずっと自分を支えてくれる。
そう信じられる。彼女の手を取って、今よりももっとちいさくまろいその手の輪郭に口づけたときから信じて、疑ってもいなかったのに。……今は彼女を信じることすら棘になって刺さる。
たった一晩の愚行はあらゆる人を欺いた。今更気づいて悔いても遅く、何も戻らない。
「カタリーナ」
爪で細く引っ掻いた、傷みたいな声。酷く耳障りなそれを、いずれ妻となる少女はゆっくりと瞬いて聞き入れた。
触れる指を絡める。引き留め、あるいはもう触れられないと別れを告げる指。彼女は気づいているだろうか。この期に及んで目を伏せてしまったので、彼女がどんな表情をしていたのかはわからない。
「……私は。貴女を裏切りました」
そのくせ離れ難いと縋る指に、彼女は何を思っているのだろう。
罪の告白は重々しくシーツに落ちて、死んだように横たわる。
その冷たい亡骸を前に、妻となるはずの少女はすぐには答えなかった。何のことかと問うでもなく、怒るでもなく――ただじいっと黙っている。それでも目を開いて少女の顔を見ることはできない。
沈黙はどれほどだっただろう。長い時間だったかも知れないし、ほんのわずかな時間だったかも知れない。停滞が破られたのは未練がましく触れ合うままの指先からだった。
握り締められる。祈るように指と指が絡まって、そして少女の口にする言葉は実に単純なものだった。
「そうですか」
あっさりと、ただ事実を事実として受け入れる言葉。
憤りも呆れもない、ほんの少し、言葉が音になって消え入る間際の声にはあの淡い笑みすら浮かんでいるようである。追及のないことに安堵よりも戸惑いを覚える。のろのろと目を開こうとすれば、遮るに似て額に落ちる感触があった。
「いいんですよ」
今度こそ目を開けば、そこにあるのは間違いなく聖母の微笑だった。
夫になるはずの不実の子どもに落とした唇は艶々と淡い紅色を晒してしなっている。嘲笑とはほど遠い、この期に及んでまだ悪戯を湛えたそれ。いっそうろたえれば、顔に出ていたのか咎めるように絡めた指を抓られた。
「よく、は、ないでしょう」
「でも、起きたことはもうどうしようもないでしょう? それだけです」
「しかし――」
言い募る勢いで身を起こす。肩肘を寝床について背を反らせ――しかしそこまでだった。昨晩酷使した箇所から痛みが走り、背筋から腹まで駆け抜けるそれに耐えきれず突っ伏す。小さな衝撃が思ったよりも強く、肺を圧される感覚に荒く息を吐く。
指が解ける。落ちたつむじに少女は労りを宿して触れてきた。まだ十にも満たない彼女はもっと幼気な子どもを諭すように、春風の優しさで囁いた。
「それとも、裏切ったから私との婚約は解消なさる?」
「……そ、れは」
できない。二人の関係は二人の意思によるものではなく、また個々人のためのものでもない。
二人ともが言葉も覚束ず世情の輪郭すら見えない頃に、過去を鑑み、未来を見通し、最善となるべく互いの家のために、互いの親の元に結ばれたものだ。これは契約であり、また理由なく破られることがあれば最悪剣の抜かれる事態にもなりかねない。
夜の中で白く汚した、優しい人を思い描く。どんな表情をしていただろう、するだろう。あの人を煩わせるなど、これ以上の愚を犯すことなどできず、そうでなくてもまだ何の力も権利も持たない自分には呼吸をやめて生きるのと同じくらい無理のあることだと理解する。
「ね。だから、変わりませんよ」
少女は歌うように囁く。少し高い体温を宿す指先が、むずがる赤子をあやすように、あるいは猫の子を宥めでもするように髪を梳き、撫でる。
「最初から私にできることは、貴方を信じることだけですから。だからそんな顔をなさらないで、ルドルフ――私の、旦那さま」
こうやって心を預けられることは、嬉しくて、恐ろしいことだ。
いずれ妻として母として、共に鷹の城を継いで繋いでゆく少女。無垢ではない。この城のあらゆる者たちから庇護という名の疑心に囲われ研がれ、それでも誰かへと向ける労りを失わない。十にも満たない彼女はもう、嫁ぐとはどういうことなのかを身を以て知っている。
諦観と背中合わせの信頼は、ひとえに自分へと注がれる慈しみである。背を押す翼にも、足を縛る鎖にもなり得るもの。身ひとつで嫁ぎ、故郷から離れ、時に悪意に苛まれながらも凛と背筋を伸ばす少女が全てを賭けるのは夫となる自分なのだ。
これに応えなければならない。恥じない当主とならなければならない。
嬉しくて恐ろしい、呪いのような、信仰のような関係なのだ。一度の大いなる裏切りなど些末だと、未来への支払いを既に約束させられているし、約束している。この指に触れ手を取って、口づけた瞬間から――死ぬまで。
あやされるがまま寝台に沈み、掠れた声で諦念を呟く。尤も自分の諦めなど、少女のそれに比べたら吹けば飛ぶ程度のものだ。
「……貴女には敵いませんね」
「当然です。私はルクセンブルクのカタリーナ。皇帝カールの娘ですから」
笑う少女の声は誇りに満ちていた。
他家に嫁ぐ娘とは皆、これほどまでに強いものなのだろうか。確かに過日に亡くなった母も強い女性だった。不具の父に代わり領地のあちこちを巡り、女だと侮る相手にも一歩も譲らず和平を取り付ける。
俺はあの人のようになりたかった、俺はあの人を裏切った――詮無い思考はまた、少女の指に掻き混ぜられて霧散する。
十にも満たない少女の強さは、母のそれとはまた異なるように思う。何が彼女を支えるのだろうと考えて、彼女の言葉全てなのだとすぐに思い至った。
ルクセンブルク、皇帝カール。彼女を生み育て、また揺るぎない根となるもの。広範で胡乱な諸都市を国というかたちで、諸侯の決議の元、教皇からの戴冠を経てまとめ上げる偉大な人。未だ戴冠を受けていない彼の人は正しくはまだ皇帝ではないがそれを約束されている――かつては曾祖父たちが手を伸ばした場所に、一族が求めて止まない至高の座に就く人。
未だ会ったことのない、自分の舅に、義父になる人だ。
きっと彼女は彼の人に慈しまれ、その立場に相応しい教養と視野を育まれた。ならばこそ、これほどまでに強いのだろうか。……彼女に学びを与えた義父に早く会ってみたいと、少しだけ思った。
優しい指の促すままに目を閉じる。いかに裏切ろうと罪深かろうと、自分は変わらず前に進まなければならない。子どもの駄々のようにぐずって誰かを傷つけ、あるいは失うとしても、少女の支えがある限り。いずれ、双頭の鷲を高く遠くまで羽ばたかせる義務がある。
その日まで、今だけ。この指に縋ってもいいのだろうか。
カタリーナ、と囁けば、どうしましたと甘やかな声。
「信じるだけ、の他にも、貴女にしかできないことがあるんです」
「まあ、何かしら。何でも仰ってくださいな」
「……手を、握っていてください。俺が眠るまで」
シーツの上に投げ出していた手が、そっと柔らかい熱に包まれる。閉ざした眦から滲み溶ける水に、彼女は気がついただろうか。
このひと時を以て、次に目を覚ましたなら。例え愚かでも、悔いることをやめられなくても、それでも己の生に課された定めに背かず歩き出そう。全てを賭けて道行きに従ってくれる少女の声に誓って、少年は最後の涙を零す。
「喜んで。……おやすみなさい、ルドルフ」
あなたの見る夢が、優しいものでありますように。
聞こえた願いが現のものであったのか、自分のものか少女のものか。はっきりとしないそれがされど真実であることは疑わず、ルドルフは眠りの中に沈んでいった。