ダニエル 3

*BL/R-18

 身を清め、身なりを整え、一歩部屋から出ればもうヨハンの主はしなやかな姿を取り戻している。
 まだちいさな背に双頭の鷲を背負い、天鵞絨の外套と艶やかな赤毛を靡かせて毅然として歩く。朝食の席に遅れたことを侍従たちに簡単に詫びる姿も悠然として、既に上に立つことに慣れた者の所作だった。そのくせ、図らずも泣かせてしまったのだろう例の侍女には『母上の夢を見て気が動転していた』などとそれらしい理由をつけて話し、子どもらしいで侍女の庇護欲を買っていたのだからヨハンは舌を巻くしかない。わかっていてやっているのなら成程、父君たる鷲の王にも劣らぬ末恐ろしさである。
 そんな姿だから、少なからず安堵していた。否、油断と言うべきだろう。呆然とする幼い主の姿に、刹那胸中を過ぎった影のことなどいつの間にか霧散していたのだ。
 政の要であった母を亡くした雛が羽ばたき巣立つ日は、いつとは言えずともすぐだろう。限られた時間の中で学ぶべきことはいくらでもある。礼儀作法などは言うまでもなく、言語、歴史、神学、政治、算術、戦略、戦術、剣術、馬術、等々。一日の中で主の学びの時間は細かく、詰め込めるだけ詰め込まれている。
 ならば自身の身体や夜の営みについて説く時間などなく、主人に付き従うヨハンも同様に忙殺される。ほんのわずかな予感などすっかり摩耗して、思い出したのは夜の勉強の時間が終わってから、少しだけ静かな時間を過ごしてあとは眠るだけ、といった頃合いだった。しかも口にしたのは主からである。
「ヨハン、朝のことを」
 そっと背を押して寝台へと促すヨハンを、寝支度を整えたルドルフが振り仰ぐ。
 朝のこと、と言われて即座に理解できない程度には、ヨハンの中から陰った予感は消え去っていた。うろうろと、若き王らしからず彷徨う視線と少しだけ赤く染まった頬と、そしてきれいに整えられた寝台を見比べてやっと思い至る。
「父上にお伝えしたいんだが、もうお休みだろうか」
 今朝はここでちいさく丸く縮こまっていたというのに。大鷲の雛はもう和毛を捨てて、夜にはしなやかな若い翼を撓ませている。
 少し恥じらう仕草と自ら父に伝えようと背筋を伸ばす姿の不均衡が微笑ましい。無論、ヨハンから大鷲の王に――当主たるアルブレヒトに伝えたとて問題はないのだが、ルドルフが自ら伝えたいのであればそれに越したことはないだろう。ヨハンは微笑んで頷く。
「この時間ならまだ起きていらっしゃいますよ。お話しすればきっと喜ばれると思います」
「……うん」
 幼い主がそっと俯く。羞恥というよりも照れが入り交じるそれを、ヨハンは同意の頷きだと思って疑わなかった。跪いてそっと肩を抱き、安堵と励ましを込めながら問う。
「今からアルブレヒト様のお部屋へ向かわれますか?」
「うん。できれば早くお伝えしたい」
「ではヨハンめもお供しましょう」
 ちいさくも頼もしい背に外套を羽織らせ、歩き出すルドルフの後ろに付き従い部屋を出る。
 松明に照らされた廊下の石床にちいさな主の影が長く伸びる。ヨハンの持つ手燭がなくとも主は迷いなく歩みを進めるため、ほのかな光は主の影を少しばかり照らすだけだった。前を行こうかとも思ったが、己の意思で歩み始めた主を尊重して付き従う。……あるいはこのとき燭光で主の影を遮っていなければ、前を行き主の顔を見ていればと、後悔とはいつも先には立たないものである。
「あのな、ヨハン」
 目的の部屋が見えてきたところで、主は少しだけ歩調を緩めて口を開いた。その声はそうっと、夜の隙間に忍び込ませるような、悪戯めいた囁きだった。
「父上とは、二人だけでお話ししたい。だからお前は、すぐに席を外してくれるか」
 ちらりと振り返る目端に、酷く真剣な光が宿っている。
 男児ならば誰もが迎え、けれどこの鷹の城においてはどれほど尊んでも足りない大切なこと。次の当主としての責務。あるいはただ一対の父と子。男同士の話。母を亡くした若君の唯一の肉親に、大人として巣立つ前の最後の甘え。性への、あるいは親子の姿への羞恥心。
 ヨハンは目端に宿る光と俯きがちな様子から、そういったことを推察した。ルドルフが精通を迎えたことに関して、養育係たるヨハンが当主たるアルブレヒトと話をしておく必要があるとしても、それは親子の時間を遮るまでのものではない。大人の――もしくは悪い大人の思惑などは後でいくらでも擦り合わせられる。
 刹那でそう判じ、ヨハンは確かに頷いた。
「承りました。では私は近くのお部屋に控えておりましょう」
「うん――頼む」
 羽織っただけの外套の裾が翻る。
 間違いなく、次に大鷲を継ぐ者だ。幼い主は何気ない仕草で、けれど決然と示しながら、辿り着いた父王の部屋の扉をノックした。
「父上、ルドルフです。今よろしいですか」
『……入りなさい』
 柔らかな声に、ヨハンが扉を開く。
 開かれた扉。室内から零れる明るさに、幼い主の影が長く伸びる。
 ここまで主の背を頼もしく、微笑ましく思いながら灯りを捧げ持ち後に従っていたヨハンは気づかなかった。
 とうに忘却した陰り。主の背から伸びるそれに、すっかり呑み込まれていたのだと。
 手燭をヨハンから取り上げ、ルドルフは吸い込まれるように大鷲の下へと踏み出す。現当主、大鷲の王――アルブレヒト賢公は既に寝台にいた。とはいえ就寝しているわけではなく、寝台は手足の悪い彼の定位置である。干し草入りの布で厚く作られたヘッドボードに背を預け、手紙を読んでいるようだった。
 室内に掲げた松明の暖色に、穏やかな笑みが浮かぶ。アルブレヒトは少しだけ首を傾けて口を開いた。
「こんな時間に珍しいね」
「はい。あの……父上、お邪魔ではないですか?」
「もちろん。ヨハン、手紙をしまってくれるか?」
「は」
 差し出された手紙を受け取り、書き物の際に使われる机の近くに据えられた長持ちへと勝手知ったるとばかりにしまう。戻りしな机の上に置かれていたベルを手に取った。所用の際、隣室に控える侍従を呼ぶためのものである。
 寝台に座すアルブレヒトの傍ら、ルドルフは置かれていた椅子を寄せてちょこんと腰かけている。手燭は寝台横に設えられた長持ちの上へと置かれていた。その隣に手にしたベルを並べ、ヨハンは二人に頭を下げる。
「では、ヨハンめはこれで。何かありましたらいつも通り、ベルでお呼びください」
「おや、ヨハンは一緒じゃないのかい?」
 意外そうにアルブレヒトが見上げてくる。養育係としてルドルフに常に付き従うヨハンが今更席を外す姿は、確かに奇妙に思えただろう。この疑問を浮かべた表情が、後にどれほどの歓喜を湛えたものになるだろうか。悪戯の共犯者のような気持ちだ。
 ヨハンから答えることはせず、ただ微笑んで若き主を見つめた。侍従から息子へと転じる父の視線に気づき、ルドルフがまたちいさく俯く。
「父上と、二人でお話ししたくて」
「では、秘密の話かな。聞こうか、ルドルフ」
 どこまでも優しく注がれるアルブレヒトの視線と声に、こくりと頷くルドルフ。親子の姿を微笑ましく思いながらヨハンは再度頭を下げ、部屋を辞した。
 これが全ての歪みを留める最後の堰であったなどとは知る由もなく。


 ちりん、ちりんと、夜に溶けるような微かなベルの音。それがヨハンの耳に届いたのは、思っていたよりもずっと時が経ってからのことだった。
 ここしばらくはスイスでの争いや末子レオポルトの誕生、引き替えに訪れた鷹の城の母であるヨハンナの死で落ち着きがなかった。ルドルフにとっては母でありアルブレヒトにとっては妻であるヨハンナが亡くなったというのに親子の時間は満足に持てていなかっただろう。ルドルフも次期当主として、そして弟妹たちの手前気丈に振る舞ってはいるが寂しかったのだと思う。ただでさえ遅く生まれた待望の男児として、過剰なまでの期待とよくない風聞とに苛まれているのだから。
 積もる話はいくらでもあるだろう。しばらくはそっとしておこうと、ヨハンは様子を窺うことはせず待つことに決め、待機していた部屋にいくつかの書面と手燭を持ち込み仕事を進めていた。そうしてベルの音に顔を上げれば、かなり短くなった蝋燭が小さな炎を揺らめかせている。
 ヨハンはすぐさま手燭を持ち、アルブレヒトの部屋へ向かう。更に夜の深くなった城内は酷く冷たく、ところどころ松明の火が消えており暗い。背筋を這う悪寒を振り払いながら、ヨハンは数刻前に辞した扉の前で足を止めた。
「アルブレヒト様、ヨハンです」
『……入ってくれ』
 夜が深いせいだろうか。アルブレヒトの声は沈んで、くぐもって聞こえた。
 扉を開く。失礼します、と頭を下げながら大鷲の巣へと踏み込む。もしかしたら話し疲れて眠る幼い主の姿があるのではないか、などと他愛ないことを考えながら顔を上げ――細い蝋燭の火に照らされる光景に息を止める。
 確かに幼い主は、ルドルフは眠っていた。ベッドヘッドにもたれかかる父親にくったりと身を預けて、あどけない顔で。
 微笑ましいと、身体が大人になったとて若君はまだ子どもなのだと思えただろう。夜着をはだけた父親に裸身を晒して跨り、身体のあちこちを白濁で汚しているのでなければ。
「――は、」
 知らず止まっていた息が漏れる。
 状況を理解しかねた。驕りではないが、ヨハンにはそれなりに機転の利く聡い人間だという自負がある。いかな状況であろうと主君のために最善を悟り、選ぶ自信がある。
 しかし今、目の前にある光景はどうだ。これは何だ。何が起きた。
 理解できないのではなく、理解することを拒んでいる。状況は把握できるとしてもこうなったに至る経緯に説明がつかない。
「ヨハン」
 言葉を失う文官に投げかけられる大鷲の王の一声。はっとして見れば、アルブレヒトはいつもの穏やかな表情でヨハンを見ていた。眦の端に疲労と、ほんのわずかな痛みを滲ませて。
 胸元に崩れる息子の背を、重たげな所作で撫でる手のひら。ルドルフはぴくりとも動かない。
「……気を失ってしまったんだ。身を清めてやってくれないか」
 私では持ち上げてやることもできないから。
 続いた言葉に少しだけ察した。アルブレヒトは手足が悪い。食事や書き物程度であればこなせるが、歩いたり身を起こしたり、特に関節を使う動作が難しく介助を要する。衣服の着脱も同様で、ましてや息子を膝の上に抱き上げるなどできないだろう。
 ――ならば今の状況は、ルドルフが望んで行った結果だ。
 ベッドの傍に近寄り、手燭を傍らの長持ちに置きながら察する。果たしてどちらのものか、少年の下肢にはべったりと白いものがまとわりついている。薄く混じる赤に眉根を寄せながら抱き寄せれば、肉付きの薄い足の間をとろりと白が流れるのが見えた。
 片腕で未成熟な身体を支え、もう片方の腕で肩に掛けていた羽織を脱ぎルドルフを包む。届いていないだろうと諦めながら、耳元で失礼しますと告げて抱き上げた。呻くこともせず深い呼吸を繰り返す身体は薄く、軽い。そして不健全な湿り気を帯びている。青い匂いを苦々しく思いながらヨハンは口を開いた。
「ひとまず若君のお部屋にお連れします。……アルブレヒト様は」
「私は構わない。……いや、後で濡らした布でも持ってきてもらえると嬉しい」
「では、口の堅い者を――いえ、私が参りましょう」
 どんな意図があって何が起きたのか。まだヨハンはどちらの口からも聞いていない。であればどれほど信用のおける者であろうと、ほんのわずかな痕跡であれ見せるべきではない。寝台の上に散らばるルドルフの服もある。これを取りに来るついでに、所望されたものを届ければいい。
 アルブレヒトは深く息を吐き、寝台に身を沈めた。夜は冷える。失礼しますと声をかけ、ルドルフを抱いたまま片手で布団を引き上げた。なるべく乾いた、汚れのない部分が触れるようにはしたがこれも取り替えねばなるまい。
「ありがとう。けれどまずはこの子を頼む」
「無論です。どちらも朝までには終わらせます」
「ああ。……ヨハン」
 二代の皇帝からの信頼を得、市井の民からは賢公と讃えられる、ハプスブルク唯一の当主。不具を枷ともせず領地を守護する大鷲の王。
 後にも先にも、この人のこんな表情を見るのはこれきりだろう。悼み、あるいは痛むように顔を歪め、けれど眼差しには憐憫と慈愛を湛え、唇は自嘲するように弧を描く。ほんの家士上がりの臣下に、一国の主は低く問うた。
「お前は、私を――見下げ果てた男だと、思うか」
 震える声は、まるで告解のように。
 じわりと、胸元に滲む何かがある。
「……いいえ」
 ヨハンは静かに首を振った。
「貴方ほどの方が、こうせざるを得なかった。相応の理由があったのでしょう」
 例え君主といえども、本当にアルブレヒトを見下げ果てた男だと、不道徳だと思うのならそう口にしてもよかったのだろう。どちらにいかな理由があったとて男同士で、あまつさえ親子でと、激しく責め立ててもよかった。仮にルドルフが始めたことだとして、そして例え手足の自由ままならぬ身だとしても、親である以上止めなければならないと。あるいはそうするべきだったのだと思う。
 けれどヨハンは本当に、心の底から思う――この結果しかなかった、それだけの理由があるのだと。
 夜の端を揺らす声が上がる。
 ハプスブルクの当主ではなく、賢公でもない。もしかすると人の親ですらなかったかも知れない。ただ一人の男であるアルブレヒトは、今度こそ、自嘲を込めて笑っていた。
「そう思うか。……そう思われるのは、少し、辛いな」
 あるとすれば、悔恨と、そして虚無感だけだ。
 恐らくこの場にいる者全てが同じだろう。ヨハンは頭を下げ、少しだけ目を閉じた。
「私もです。……失礼いたします」
 アルブレヒトの部屋を辞し、足早に、しかし音を立てぬよう歩く。じわり、じわりと、先ほども感じた旨に滲む感覚が広がってゆく。
 灯された松明の火は扉を開く前よりも更に減って、身を切るような冷たさと暗さに落ちている。手燭を持たずとも視界は確保できるが、けれどまるで先が閉ざされたように暗い。暗澹とするのは胸の内だと知っている。
 纏わりつく空気に反して酷く熱い胸元に、滲む感覚に、口を開く。
「……若君、ルドルフ様。起きておいででしょう」
 腕の中の身体が、跳ねる。同時にヨハンの胸に押しつけられていた顔が浮き上がり、ひっとしゃくり上げる声が漏れた。
 見下ろせば暗澹に散る光がある。ルドルフはぼろぼろと涙を零し、泣いていた。涙が滲んで濡れるヨハンの胸に縋りつき、辛うじて声を殺しながら。ひび割れるほどに震える声で呟く。
「おれ、はっ……ぅ、ちち、うえにっ、あんなっ……こと、言わせっ……ひ、ぁ」
「貴方にも、」
 抱き上げる腕に力を込める。狂おしいほどの熱と、じっとりと不純な湿りを孕んだ身体。けれど今、ヨハンの胸で生まれては弾ける熱だけは誰にも咎められることのない美しいものである。
 あるいはこの夜に光る涙がいずれ希望に代わるのではないかと――教養人と呼ばれ、それだけで召し上げられたヨハン・リビが思うにはあまりに愚かで、何の根拠もない願いを抱きながら。
「そうせざるを得ない理由が、あったのでしょう?」
 例え愚かであったとしても、間違いでしかなかったとしても。選んだ貴方を、その心を、誰も責めはしませんから。
 若き主はヨハンの胸に顔を埋め、喘ぐように、声なき声を張り上げて泣く。
 誰かの、もしかすると誰もの胸の軋む音を掻き消す声にきつく目を閉じて、ヨハンは冷え切った主の部屋へと足を踏み入れた。
18/4/8