ダニエル 2

*BL/R-18

 客人のもてなしは本来宰相たるヨハンの仕事ではない。
 とはいえ、客人が世に名高い皇帝陛下であり、またもてなしを申しつけたのが主君たるルドルフであればこそ不服はない。むしろ自分以外には務まらないだろうという自負もある。
 ならばこそ、ヨハンは恭しくこうべを垂れて客人の部屋へと踏み入った。
「おはようございます、皇帝陛下。お目覚めでいらっしゃいますか」
「……ああ」
 おや、と思って顔を上げる。既に身なりを整えたその人は窓辺に立ち、ぎこちなくヨハンを振り返っていた。その表情は朝の濁った光に晒されて、濃く影を浮かび上がらせている。その陰りを呼ぶならば、憔悴、疲労、そんなところだろうか。
 ヨハンは薄く眉根を寄せた。
「昨夜はお休みになれませんでしたか」
「いや……しっかり休ませてはもらったんだが」
 含みがある。仮にも皇帝陛下とはいえ、ヨハンはこの男に対し臣下然としてかしこまるつもりはなかった。ヨハンの仕える相手はこの坊主王ではなく稚気と無謀に富んだ青年と彼の治める家であり、また目の前の男はこの家の敵と呼んで差し支えのない相手である。不興を買うつもりも挑発するつもりもないが、ヨハンからすれば油断ならぬもののまだ青く、ほんの会話の上でならば手玉に取れる相手だった。
 何より、恐らく真っ当な感覚の持ち主である男はヨハンに対して幾許かの引け目がある。まさかとその引け目を脳裏に描きながら、ヨハンは更に問いを重ねた。
「ならば、何か。不安ごとでも?」
「……宰相殿は」
 ちらりと、男の目がヨハンを見つめる。ヨハンの主たちほどではないにせよ賢しらしい翡翠色の目は、鈍く揺れて疑問を呈していた。
「婿殿の養育もされていたんだったな」
「……ええ」
 今度はこちらが言葉を濁す番だった。
 濁し誤魔化すことなど何もない。ヨハンは相手が誰であれ、望むのならばいかに鷹の城に召し上げられ今や立派な鷲にまで育った雛に手厚く学びを与えたのか、詳らかに語って聞かせる気概と誇りを持っている。
 しかしだ。今は違う。脳裏に描いていた皇帝陛下の引け目が、明確に形を持ってヨハンの予感を煽っていた。
 なら、と男は重苦しく口を開いた。ヨハンにはその仕草が殊更ゆっくりしたものに見える。可能ならば部屋を辞して聞かなかったことに、あるいはこの男の後頭部を殴り倒してこの会話をなかったことにしたいとさえ思う。
 無論、そんな夢想が現実になるはずもなく――ヨハンの主君の義父たる男は、躊躇いがちに言葉を紡いでしまった。
「ならば、その――こんなことを問うのもどうかと思うんだが。……婿殿の、初めてについては、ご存じか」
 どうかと思うなら、口にしないで欲しかった。
 もしも相手が相手でなければ、ヨハンは頭を抱えていただろう。
 ヨハンの愛すべき主の、初めて。この男が敢えて今、口にしたということは、無論男女の仲での話ではないだろう。他言などされるはずのない男性同士での話に相違ない。そして他言などされるはずのないそれを、皇帝や義父という立場を差し引いてもこの男は問う権利を持っている。その程度のことはヨハンも認めている。
 何故ならば、ヨハンの主君たるルドルフが、自らこの男に――カールに、身を差し出して委ねているのだから。
 それで過去の遍歴を探るなと怒るほどヨハンは愚かではない。ヨハンの主君を抱いていることにこの男は引け目があるのだろうが、ヨハンも同様にこの男に主君は慰めてもらっているのだという引け目がある。
 何より、今まで初めての朝以降有耶無耶にされていた夜の話について、この物わかりの良い男が今更口にした。ならば無視できない理由があるのだ。思い至るそれをヨハンは脱力しながら口にする。
「……若君が仰いましたか」
「初めての相手は誰か、という話に……なって」
「ああ……」
 それを口にしてしまったのか。
 悲しむべきことか。あるいは、喜ばしいことか。
 ヨハンは改めて向き合う男を見つめる。今目の前に立っているのは、帝国の皇帝ではなく、主の義父でもない。ただ戸惑うばかりの一人の男であった。叶うならば彼も知りたくはなかったのかも知れない。薄い朝日に落ちる影に内心で苦笑しながら、ヨハンは過去の朝を思い浮かべる。


 侍女に急ぎ足で呼び止められたのは朝食の時間も差し迫る頃、太陽がそこそこの高さまで重い腰を上げ、緩慢に冬の空気を暖め始めた頃合である。ヨハンは告げられたことばに片眉を上げ、思わず問い返した。
「――若君が?」
「はい、誰も入るなと……少し扉を開いてお顔だけでも窺おうとしたのですが、大声で叫ばれて」
 侍女は真っ青な顔で、目端には涙を浮かべている。まだ幼いとはいえ、鷹の雛に酷い剣幕で拒絶され混乱を極めたのだろうと容易に知れた。
 弟君の生まれる数年前までたった一人の男児、たった一人の後継者として手厚く育てられた若君――ルドルフはその境遇に慢心することなく、大人しく手のかからない素直な子どもとして、城の者皆に可愛がられている。理由も話さず大声で拒絶されるなど、侍女からすれば考えたこともなかったのだろう。
 とはいえヨハンとて考えたこともなかった事態である。城の者の前では物分かりのいい若君を貫いているあの方に何があったのか、問い質せるのは侍女の泣きつく通り自分以外には居まい。ルドルフの教育係たるヨハンは外套の裾を翻す。
「私が話をしてきましょう。貴女はいつも通り、若君の朝食の準備を整えるように」
 掠れて引き攣る侍女の返事もそこそこに、ルドルフの部屋へと足を急かせる。叫ぶ余裕があるのだから身体的に危急の事態ではないだろうが、侍女から他の者に話が伝わって城内が浮つくのは避けたい。話がゆくことで不具の大鷲の心を乱したくはないし、若君の乱心にかこつけてヨハンの飼い主たる女狐様が騒ぎ立てる隙も作りたくはなかった。ならば少しでも早く若君の心を落ち着かせ、常の姿を取り戻してもらうことこそ肝要である。石造りの床に踵を高く鳴らし、はあと息を吐けば目前が白く濁った。
 既に勝手知ったる城の中、いくらもせず目的の部屋まで辿り着く。靴音も高く馳せ参じたのだからして、室内のルドルフにも来訪者の存在は伝わっているだろう。それが扉の前で足を止めても無音。侍女と違って拒絶されてはいないと見て、ヨハンは口を開く。
「若君、ヨハンです」
 しばし待つ。室内の気配は窺えないまま、返答は無音。ならばと扉をそっと押した。
「入りますよ、若君」
 大声が投げつけられることもなく、扉はすんなりと開いた。重い雲を通して濁った陽光が設えられた高い窓から降り注いでいる。そして件の若君はといえば、緩い光の下、寝台の上でシーツを羽織って丸くなっていた。
 後ろ手に扉を閉め、一歩。シーツの小山がびくりと震えるがそれ以上のこともなく、ヨハンは大股に距離を詰める。白い布から溢れる赤毛を指で梳き、若君、と極力穏やかに声をかける。ちいさな頭がもぞりと動いて、シーツの隙間からようよう顔を覗かせた。その目元が赤く潤んでいることに気づき、ヨハンはそっと跪いて幼い主人に視線を合わせた。
「どうなさいました、若君」
「……ヨ、ハン」
 ひくりとしゃくり上げてふるふると首を振る。幼くして既に王たる振る舞いを身につけるルドルフが泣きじゃくる姿は珍しく、その時点で主人にとって相当なことだと知れた。ここまで素直に感情を発露させるのは――主人が人目を、父君の目すらも忍んで、それでもヨハンの胸に顔を埋めて泣いたほんのひと月ほど前、彼の母君が末弟の出産と引き換えに亡くなった日以来二度目だ。
 身に纏うシーツごと、ちいさな身体を抱き寄せる。すぐに肩口に顔を埋め縋りつく鷹の雛の背を、ヨハンはこの世で一番尊いもののように撫で宥めた。ひっくひっくと喘ぐ声が徐々に小さくなり、涙に濡れた肩口が随分と温くなった頃合に、ヨハンはそっと主人の顔を覗き込む。少しは落ち着いたと見て、不安げに揺れる瞳の上に唇を落とす。
「落ち着かれましたか?」
「……う、ん」
 こくりと頷く姿は未だ幼い。もう一度、背骨のひとつひとつを辿るようにゆっくりと宥めてから、改めてヨハンは主人に向き直った。
「何があったか、お話しいただけますね?」
「……うん」
 俯く目元が赤みを増す。視線を逸らしたまま、ルドルフはするりと肩から羽織ったシーツを落とす。露わになった身は何も纏っておらず、冬の空気に白く薄い裸身を晒け出す。思わず視線で衣服を探そうとすれば、ぎゅうと袖口を掴まれた。
「起きた、ら」
 ヨハンの視線を受けて、ルドルフはきつく俯く。
「ぬるって……も、漏らしたんじゃ、なくて、白くて、ね、粘ついたのがっ出て、て」
 その下でもぞもぞと擦り合わせられる内腿を見、ああ、とヨハンはようやく得心した。何のことはない、男児なら遅かれ早かれ誰もが経験することである。
 とはいえそんなことは知らない若君は――ヨハンが教えていないのだから知らないのも無理からぬことである――シーツを手繰り寄せ、乾き始めて貼りついたそれを隠すようにして身を縮こまらせている。ちらりと上目に窺う目端からは治っていたはずの涙までついに零れ落ちていた。
「ヨハン、どうしよ……病気? おれ、し、死ぬ、のっ」
「いいえ、若君」
 随分と飛躍した考えを、と笑う気は起きない。幼くも王の気配を纏う主人は、死に対して過剰なまでに恐れているきらいがある。ヨハンや彼の父君以外には決して気取らせていないが、昔から漠然と抱えていたそれは母君の死で白日の下に晒されたとも言えるだろう。恐らくは彼が物心ついた頃から市井に溢れる黒い死の病、あるいは生まれてから一度も立ち歩く姿を見たことのない手足の自由ままならぬ父によって積み重ねられてきたその恐怖を、何故惰弱だと断じることができようか。
 死を恐怖せぬ者は愚かだ。ヨハンはそう思う。勇敢なだけで勝ち生き抜けるならこの世はとうに愚者に溢れ、秩序のない悪夢に堕ちている。今の鷹の城の王こそ、その最たる姿だ。勇敢に勝利を求めるのではなく、生きるべきに必要なものを少しずつ集め定めること。それこそが賢公と呼ばれるに相応しく、領民から慕われる理由に他ならない。
 死を恐れ、生に縋ること。鷹の雛はきちんと、王者たるに最も必要なことを知っている。だからこそ恐れ震え泣く姿が愛おしく、ヨハンは再び細い身体を抱き寄せた。
「大丈夫です。死ぬようなことではありませんよ」
「そ……う、なの、か?」
「ええ。男子なら誰もが経験することです。むしろ祝うべきことですらある」
 不思議そうに瞬く若君を見つめ、額に口づける。それから冷たくなってしまった手を取り、指先に敬愛を込めて再度。和毛から硬くしなやかな翼へと変じようとする主人を少しばかり惜しむような気持ちで微笑み、こうべを垂れた。
「精通おめでとうございます、ルドルフ様」
「……せいつう」
「ええ、子を成せるようになった証です」
 ヨハンが教えてはいないとはいえ、聞き及んだことぐらいはあるだろうか。賢明な若君には珍しく茫洋とした様子で、子を、と呟いている。我が身に何が起きたのかはまだ理解できずとも、その意味は重々承知しているだろう。
 まだ当主の座に座るのは遠い先だとしても、貴き血を後世に残す準備ができたこと。彼の身体がハプスブルクの偉大なる血筋を脈々と流すための一部になったこと。
 重圧を感じる、あるいは奮起する。予想される反応としてはどちらかだったが――ヨハンの幼い主人は、そのどちらとも異なる様子だった。心ここに在らず、といった表情でじっと、己の身体を見下ろしている。
 ヨハンの裡に嫌な影が過ぎる。けれどほんの予感でしかないそれを問い質すにはまだ早いと判じ、ひとまず冷たい空気に晒された薄い身体にシーツを掛ける。
「今回の場合、正しくは夢精と言いますがそれはおいおい……今はひとまず身を清めて、それからお召し物を。お風邪でも召されたら大変ですから」
 うん、と頷く様はやはり主人らしくなく幼い。きっと主人らしくないなどと断じるのも酷なことなのだろうが、若君の恐れ戦く通り死は身近なのだ。いつ誰に何が起こるかなどわかりはしない。伸びやかに子どもから大人へと変わることを、鷹の城は尊き雛に許さない。
 寝台でシーツを纏う主人は、大人になった身体を庇うようにしてきつく己の両腕を掴んでいた。今はそっとしておこうと、ヨハンは身を清めるための準備を整えにゆく。
 ――後に、ここできちんと話をしておけば、と悔いることになるとは夢にも思わぬまま。
18/2/3*18/2/12