白いチョークで大きく、ミコト・ミナイエと書かれた黒板。その前に立ったミコトは、
「はじっ、初めまして、ミコトとと、ミコト、といいます。今日かりゃ、ら、よろしく、お願いします」
何度もことばを詰まらせながらそういった。こういうときは礼をするもの、と聞いているので、最後にふかく、頭を下げる。
話すのは上手だってみんながいってくれていたのに。
昨日の夜も、こっそり練習したのに。
最初のあいさつから失敗した。ミコトは頭を下げたままぎゅっと目を閉じる。何度かかんだ舌を、口の中でぐるぐる、ぐるぐる動かすが、いい間違いは戻せない。背中の翅はふるふる、頼りないばかり。
そんな翅が、
パチ、
と、合わせられた手と手の、遠慮がちな震えをつかまえる。
パチ、パチ、パチパチパチ……
震えがいくつか生まれて、弾けて、大きな音になって、ようやくミコトは顔を上げた。
音の向こうにはたくさんのひとの笑顔が透けている。打ち合う手の音をを拍手と呼んで、それは歓迎を意味していているということを、そして歓迎ということばの意味を、ミコトはこの少し後に知ることになる。
「はい、はい、はい。ミコトはこっちに来て日が浅いらしいが、上等な挨拶だったな」
グレイの声に、拍手の波が少しずつ引いていく。
「まだことばにも自信がないらしいから、困ったり間違えたりのときはお前らが教えてやれよ」
はーい、という声がいくつか重なる。ミコトはほっと息を吐いた。翅から自然と力が抜ける。
それじゃあミコトの席は。グレイがいい終わるよりも先に、ひとの中から素早くまっすぐ、手が伸びる。
「せんせぇ、あたしのとなりが空いてまーす!」
さっきの『はーい』の中に聞こえた声が告げる。
教室の中ほどの席に座る、きらきらと光る目がきれいな子だった。地球の人に見えるが、つやつやの髪から覗く耳は少しとんがっていて、ほっぺたが目と同じように光っている。よくよくみれば、それは魚のウロコのようだった。
ミコトの視線に気づいて、その子がにっこりと笑う。どうすればいいのか分からず、ミコトははたりと翅を揺らした。
「ヴィンギローテ、お前の隣はずっと、永遠に、決して埋まることなく空席だ」
弾んだ声に対するグレイの声は、じっとりと低かった。
ヴィンギローテ、という名前らしい。あたまの中で繰り返そうとするが、び、びん…のあたりでミコトは詰まった。
「なんでよう」
「授業そっちのけで隣に話しかけまくるだろが。今まで何回廊下に立ったと思ってる」
「あはっ、覚えてないでぇす」
あっさりと返されたグレイは、とにかくお前のとなりはダメ!と声を荒げる。告げられた、びん…は、先ほどまでの笑顔はどこに行ったのか、ぷっくりと頬をふくらませた。細かなウロコが頬といっしょに動いて、ぱちぱちと瞬くのが見えた。
今度は窓際の席から手が挙がる。びん…のぶぅぶぅという声は無視して、グレイはそちらに視線を向けた。ミコトもグレイの視線を追いかける。机に上半身を預けるようなかっこうで手を挙げているひとが見えた。顔はミコトたちの方を向いているようだが、フードを深く被っていて、あんまり顔は見えない。
グレイが少し意外そうに、名前を呼んだ。
「マオ」
「僕の、前……」
ぼそりと落ちた声は、聞こえるか、聞こえないかぐらい。
声といっしょに持ち上がった指で、目の前の空席を指さした。と、思ったら、その指はすぐに、ぱたり、落っこちる。顔ごと机に沈んでいた。
「居眠りの盾にしようとしてんのは分かってるぞー」
グレイの声に返事はない。代わりにすぅすぅという寝息がミコトの耳にも届いた。
あぁ、でも、とグレイが閃く。ミコトの目を見て、それから、先ほどの窓際を指さす。
「マオの後ろが空いてるな。あそこにすっか」
「はい」
前のヤツが寝てたら椅子蹴っ飛ばしてくれよ、との付け足しには、あいまいに笑って返しておいた。
生徒たちの視線を感じながら、窓際の席を目指す。机はタテにむっつ、ヨコにむっつ程度並んでいて、空席が半分より少し少ないぐらい。辿りついたミコトの席はいちばん後ろで、となりには誰もいなかった。ここなら少しぐらい翅が動いても、迷惑にはならないかもしれない。
ミコトが椅子にお尻をつけるのと同時に、グレイが教卓の上の本を取った。
「んじゃ、初めましてのミコトもいるし、今日は久しぶりに皇都のあらましでもやるか」
教科書開けー、と続けば、ざわめきと机やかばんを漁る音が答えた。ミコトも昨日渡されたばかりの教科書をかばんから取り出す。教科書のない子たちがグレイにつっかかっている間に、そうっとクラスの背中を見渡してみた。
首や手足の長いひと、ずんぐりむっくりで小柄なひと、毛のふかふかしたひと、つるんとして丸いあたまのひと、ミコトのてのひらぐらいの大きさのひと。いかにも地球人らしいひとも多い。
最後に自分の真横の列をみる。窓際のミコト以外には、いくつかの空っぽの机を挟んでひとりだけ。廊下側の席のトワだった。
じっとこちらを見ているトワが気になったが、グレイがパンパンと大きく手を鳴らしてミコトはそちらを向く。手拍子で生徒たちが静まったところで、ミコトにとって最初の授業が始まった。
かんかんと鍋を叩く音に、ミコトはほっと息を吐く。いっしょに全身の力も出ていったのか、肩はかくりと、翅はへたりと落ちた。
午前の授業が終わって、お昼休み。生徒たちは教室を出て行ったり、何人かで集まっておべんとうを持ち寄っている。ミコトはかばんから小さな包みを取り出して、しばらく包みと見つめ合う。静かな見つめ合いのさなか、ミコトは首を右へ左へ傾ける。それから包みを掴んで立ち上がった。そのまま教室の外に出てみる。
校舎はふかい色をした木でできていて、平屋建て、という作りらしい。木目の廊下を抜けて玄関に出れば、教室の外に出た子たちは、運動場に遊びに行ったり、通りの向こうのパン屋さんへ走っている。ミコトは包みを下げたまま校舎をぐるりと周ってみる。
運動場の端を通れば窓際のミコトの席が見える。教室の窓際を過ぎると、背の低い木や、まばらに花の生えた花だん、校舎をよけて腕を伸ばすおおきな木がある。重なる葉っぱにさえぎられた陽の光は、ここちよくゆらゆら、揺れていた。
ミコトは木の根元に座る。翅が自然と拡がって、背中は幹にあずけて、目を閉じる。
さわさわ葉っぱの擦れるおと。
枝に止まる鳥のこえ。
地面を歩く虫のあしおと。
木の幹が水を吸い上げるながれ。
気持ちいいものを翅が受け止めて、ミコトの体の中を隅から隅まで満たしてゆく。なんとなく体がぽかぽかして、翅がどこまでもどこまでも拡がるような気持ちになる。
ミコトは長く息を吐いて、気持ちいいもののじゃまをしないように、ゆっくり、目を開ける。
ひらけた視界もゆっくりと、ミコトの目の前のものを結ぶ。それが何かをゆっくりと確かめて、それからミコトはぱっと目を丸くした。
「とっ、トワ、さん」
いつのまにか、目の前にトワが立っていた。大きな包みを下げて、ミコトを見下ろしている。
「昼飯」
「え?」
「食べたか」
「え、えと……」
トワはミコトが傍らに置いている、小さな包みをじっと見ている。まだ包みをといていないそれをミコトも見つめて、ちょっと考えて、
「食べてないです、というか、今食べてました、というか……」
と、答えた。ぼんやりしたミコトの話し方では分からないだろう。トワはもっと話すよう視線と沈黙で訴えている。
「おべんとうは、持たせてもらったんですけど、わたし、口から『食べ』なくていいんです」
こうやって、とミコトは翅を拡げてみせて、続ける。
「翅で、光とか、風とか、音を受けてたら、それでお腹も満足するんです」
これは地球の人には分かりづらい感覚らしい。ミコトは今までクロノや、クロノが連れて行ってくれるお医者さんの話から理解していた。トワはどうだろう。
トワは、まだ何もいわない。元からあんまり話さないひとなのだろうと思う。一回一回のことばが少ないし、ミコトが今まで出会ったひとたちに比べて、自分から話しだしたりすることがとても少ない。
やがてはがねのいろをしたひとは、
「……自家発電」
と、ミコトの知らないことばを小さな小さな声で呟いて、静かに腰を下ろした。ミコトから少し空けてとなり、同じ木の根元に。
それから大きな包みをといて、いくつかの段になったおべんとうばこを膝の上に並べた。膝に乗りきらないぶんは、地面の上に包みを拡げ、その上に。
ずらりと並んだおべんとうを見ながら、トワはぽつりと宣言した。
「俺もここで食べる」
「は、はい」
思わずミコトは返事をした。
トワのおべんとうの中には、おかずやごはんがぎっしりと詰められている。例えばひとつには、厚く切られたパンに、野菜やチーズやベーコンをたっぷり挟んだサンドが詰まっていた。別の段には、大きなおにぎりがぎゅうぎゅうに詰まっている。すごく、量が多い。
「口から食べなくてもいいとしても、」
ペーパーに包まれたフォークを取り出しながら、トワはまた口を開く。
「誰かが作って持たせたんなら、そいつは食べてもらいたいと思うんじゃないか」
「あ……」
「それに、帰ったら、鬱陶しいぐらいしつこく、味の感想を訊かれるかもしれない」
なんだかとても、具体的だった。
けれどたしかにその通りだ。朝、家の前まで来て、ぴかぴか光るぐらいに笑いながら包みを渡してくれたひとを思う。朝からとっても元気で、初めて登校するミコトを励ましてくれた。ばしばし肩を叩いての励ましは、翅がばたばた振れるぐらい強くて、ちょっと痛かったけれど。
料理長に怒られるといい残して走り去ったあのひとは、確かにおべんとうの感想を訊いてくるかもしれない。かもしれない、じゃなくてたぶん、やっぱりぴかぴかに笑いながら訊いてくると思う。それにミコトは『食べなくてもいい』のであって、『食べられない』わけではないのだ。まだ『食べる』ことには慣れていないけれど、『おいしい』のは好きだし、気持ちいい。
ミコトはトワと同じように、包みを膝にのせる。段はトワとちがってひとつだけ。渡してくれたひともミコトが食べなくていいことを知っているから、中身も少ない。厚く切られたパンに、野菜やチーズやベーコンをたっぷり挟んだサンド。
「あれ?」
ミコトは自分のおべんとうと、トワのそれを見比べる。
「わたしのおべんとうと、トワさんのおべんとう、中身がそっくりですね」
「…………弁当は、そういうものだ」
少し間をおいて、トワはミコトからも自分のおべんとうからも目を逸らしながら、そう答えた。
そのあとは目立った話もなく、ふたりでもくもくとおべんとうを食べた。トワは他のひとよりもたくさん食べるようで、すべての段を空にした後、なんだか物足りなさそうな顔をしてミコトのおべんとうを見ていた。ミコトのおべんとうをふたりで分け合う流れになったのは、自然なことだったと思う。
かんかんと鍋が鳴ったのは、ちょうどミコトが教室に戻り、自分の席に座ったときだった。
午後からの授業を始める音のはずなのに、まだ半分ぐらいしか生徒たちは戻ってきていない。教室にいる子たちも、自分の席に戻らずにおしゃべりをしたり、なにかの遊びを楽しんでいたりする。ミコトのように席についている子のほうが少ない。
「ねえ」
ふと声をかけられた。
数少ない席についている子のひとり、ミコトの前の席の子だった。朝、ミコトの席を決めるときに手を挙げた、眠そうな子。今も深くかぶったフードの下の目は、とろんとして半分閉じている。残りの半分は、さっきのおべんとうに入っていたイチゴのような色をしている。
確か名前は、
「えぇと……えっと?」
「……僕、マオ。よろしく」
思い出すより先に、振り向きながら器用にぺこりと頭を下げて、告げられる。
「あ、ミコトです、よろしくお願いしまぷっ!」
マオと同じように頭を下げたミコトは、勢いが過ぎて額を思い切り机にぶっつけた。
なんとなく、マオの顔を見られない。机に沈んだままでいるミコトの頭に、ぽんぽんと、軽く手が乗せられる。それから降ってくる、声。
「君、甘いの食べれる?」
内容はわりと、唐突だった。ミコトはとりあえず、伏せたまま答える。
「あ……甘い、のは、好きです」
「じゃあ顔上げて」
いわれたとおりに顔を上げる。やっぱり半分ぐらいしか開いていない目が、ミコトを見ていた。
「口開けて」
「は……んむっ」
開いた口の中に、丸いものが転がり込んでくる。そのまま口の中で転がせば、ちょっとだけとんがったような甘さが舌に絡む。
「飴玉。僕の好きな味で悪いけど、先生どうせ昼寝しててすぐには来ないから」
あげる。マオは目と同じ色の、イチゴが描かれた包み紙を丸めながらそういった。
甘いのを味わうべきか、マオにお礼をいうべきか。食べながら話すのはマナーがなっていないと習っているし、でも親切にしてもらってお礼をいわないのもいけない。どちらが先か、ミコトは口元を押さえたり、両手を広げたりして考える。
マオはゆっくり首をかしげて、それから「ああ」と呟いた。そして唇の端っこをちょっとだけ持ち上げて、カーブをつくる。マオは、やわらかい笑い方をするひとだった。
「いいよ、お近づきのしるし。授業中に僕が寝てても起こしたりしなかったし、そのお礼のぶんもね」
いわれて、ミコトはあいまいに笑った。
確かにマオは、授業中もすうすうと気持ちよさそうな寝息を立てていた。グレイは起こすようにいっていたが、ひょっとするとなにか事情があって眠たいのかもしれない。それに、まだお互いのことを知らないひとの眠りを邪魔することなんてできず、結果として起こせずに終わっただけだった。
「それにお昼、教室にいなかったから。ひょっとしてお昼ごはん食べてないのかと思って」
ミコトはだいぶちいさくなったあめ玉のかけらを、ほおの内側にくっつける。ミコトにマナーを教えてくれたアルフにもし見つかったら、お小言をいわれるだろうけれど、ここにアルフはいないので大丈夫。たぶん。
「ううん、外の庭で、トワさんと食べたよ」
あめ玉が口にあるとは思えないぐらい、きれいに喋れた。
「へぇ、トワくんが」
半分のマオの目が、ほんの少し開かれた。そのままミコトから視線をすべらせて、廊下側の席に座っているトワをうかがう。トワは周りの様子など見えていないかのように、静かに本を読んでいた。
マオはもういちど、ふぅん、と呟いて、くるりと前に向き直った。その、くるり、の瞬間のちいさな声を、ミコトは耳と翅で捉えた。
「よかったら今度は、僕たちともお昼ごはん、食べようね……」
マオの声はゆっくりちいさくなって、フードの後ろあたまもゆっくり沈んでいった。じきに、すぅ、すぅと静かな寝息が聴こえてくる。
ミコトはいくどか瞬いて、それから「はい」と答えた。
もう寝入ってしまったらしいマオにも、たぶん、聞こえたと思う。ミコトの翅がぱたりと振れたのと同時に、フードのあたまがもぞりと動いたのを、ミコトは確かに見た。