第1話 : 学校に行くミコトさん 3


 しばらくは、学校の仕組みについて話を聞いた。
 まず、下町の学校なので、生徒は家の手伝いをしている者が多いということ。なので毎日学校に来る必要はなく、家庭の用事などがあれば気軽に休んでもいいということ。
 また、階級意識や排他的考えの強い上流街と違い、下町には他国・他星からの移民が多い。なのでミコトと同様に、言語や文化、歴史、団体生活の中での習慣を身につけに通う子どもも多いということ。同時にこの国、この星で生まれ育った子どもたちが、異文化で育った子どもたちを理解するのも大事な目的であること。
 始業は九時、お昼休みは十二時から一時、終業は個人によって異なるがおおむね四時ということ。
 教員は校長を除き一人か二人が常駐すること。今日は自分しかいないこと。担任制ではないこと。校長はいたりいなかったりすること。理事長は滅多に来ないくせに無駄に立派な部屋を構えていること。いつかあの部屋を乗っ取ってやろうと思っていること。
 道路を挟んで向かいのパン屋のアップルパイがおいしいこと。小さな校庭の向こう側にある金物屋の店主は雷親父と呼ばれていること。駅までの道にある花屋のおばあさんは生徒に飴玉をくれること。用水路脇の家の塀を越えると大通りまでの近道になること、その家には番犬がいて吠え立てること、けれど食べ物をやれば黙って見逃してくれること。
 など、など、など。
「――ってところかな。分かったか?」
「え、あ、う……半分、ぐらい……は?」
 正直、知らないことばや知らない場所や、学校の仕組みに関わるだいじなことなのだろうか?と思う部分もあったけれど、話に飲み込まれたミコトは頷いていた。
 グレイは笑ってよしよしと頷いている。最初からミコトが理解できるとは思っていないのか、そもそも気にしていないのか。ミコトの様子に気づいていないのかもしれない。思いついたら、なぜだかかくりと肩が落ちた。
 ちょうどそのとき、カンカンカン、と、軽い金属の音がした。
「お、時間だな」
 音も立てずにソファから立ち上がるグレイを見上げる。グレイは笑いながらミコトを見て、次に窓の外を見た。
「授業が始まる時間になったら、生徒が鍋叩いて知らせるんだ」
 ミコトも立ち上がり、かばんの紐を掴む。これから同じ場所で過ごすひとたちに、ついに会うのだ。変な目で見られたりしないか、びっくりして大変なことになったりしないか。
 すこし翅が気になって、ちらりと背中を見る。首をひねるミコトに気づいたグレイが、からからと笑った。
「爆発でもしねーかぎり大丈夫だって。その翅が変ならウチの学校の生徒はほとんどが変の極みだ」
「ヘンの、きわみ」
「ああ。ほれ、行くぞ」
 先に立って本の塔をすり抜けるグレイを追いかける。通り抜けざま、グレイは塔の中階あたりの本を崩しもせずに抜き取った。けれどミコトは、グレイのさりげない本のダルマ崩しよりも、続くことばに引っかかった。
「えーと、今日からみんなと一緒に勉強することになった、ミコト・ミナイエさんで……イカン背中痒いわコレ……しっかしミナイエとは、まあ……」
「先生?」
「ん?」
 グレイはドアを思い切りよく開く。はめ込まれた曇りガラスが、やめろとばかりに大きく音を立てる。ミコトはグレイのそばに小走りで駆け寄った。見下ろしてくるグレイの顔には、うっすら生えたヒゲと、目元にちいさなシワ。
「ミナイエって、なにかあるんですか」
 ミナイエ、という姓は、学校に通うにあたって必要だろう、ということでクロノから付けられたものだった。
 ミコトにはこの『姓』というものも今ひとつピンとこない。血のつながりやら家族やらといわれても、ミコトにはそれに類する存在がなかった。本当はあったのかもしれないが、この星とは異なる概念での『母』以外、意識したことはない。
 そうでなくても、個々の生体を区別するための『名前』を理解するのにかなりの時間を要したというのに。
「クロノが昔使ってたんだよ。皇族に入ってからはなくなっただろうけど」
「クロノが、むかし? 先生は、クロノの、お友だちなんですか?」
「ぶはッ!」
 グレイは割れたように笑いを吹き出した。
「え? え? おかしかったですか?」
「いやぁ……うん、友だち、かなぁ……ぷフッ」
 ドアにすがりつきながら、泡が弾けるようにグレイは笑い続ける。待つことしばし、ひとしきり小刻みに肩を揺らして、満足したのかグレイはようやく廊下を歩き出した。歩き始めは笑いの余韻でふらついているように見えた。
 小走りでミコトが後ろに続く。グレイは首だけで振り返る。
「俺はトモダチだと思ってるけど、あいつはすっげーイヤァアな顔するんじゃねぇかなあ」
 そこに浮かぶ笑顔は、どこまでも、どこまでも、楽しそうだった。


 ――っくし。
 主人が小さく漏らしたくしゃみに、従者は顔を上げた。
「お風邪でも召されましたか?」
 主人はずび、と洟を啜って答えた。
「くしゃみ一つで風邪かと思うのは少しばかり短絡的すぎる、俺は昔からそう思うんだが、アルフ」
「それはそうですが。春先とはいえまだ風も冷たいですから」
 いいながらアルフは主人の背後に回り、ガラスの出窓を閉める。春風にそよぐレースのカーテンが招き入れた淡い花弁は、勢いをなくしてはらはら、くるくる、落ちる。ひとひらがちょうど主人の黒髪に舞いおりて、アルフは「失礼致します」の声とともに払おうと手を伸ばし――ぴたりと止めた。
 差し伸べかけた手を静かに引く。主人は他者に触れられることも、自ら他者に触れることも厭う。なのでアルフはスーツの内ポケットから手鏡を取り出し、主人に見えるよう差し出した。
「クロノ様、御髪に」
「ん、ああ」
 主人――クロノは筆を休めて髪を払う。黒革に包まれた指先に、白い花弁が滑った。
 細身ですっきりしたデザインの手袋は、早春の屋内には不似合い極まりない。しかし整ったクロノの容姿と、精緻な銀飾りに縁取られた黒衣にはよく映える。アルフは己の選んだ主人の装いと、その完璧な仕上がりに今日も大変満足しつつ、手鏡をしまうのだった。
「……うん、誰かが噂でもしているんじゃないかとは思うな」
 クロノは完璧に休憩の姿勢に入ったらしい。左手で頬杖をつき、右手の指先に花弁を乗せて声を低める。二十歳を少し越した外見に反し幼い仕草。しかし眉間には往年の老賢者のごとく、深い縦じわが刻まれていた。
「風邪よりそちらのほうが可能性は低いと思いますが」
「いや、悪寒がする」
 それこそ風邪では。返そうと思ったアルフは、庭先から響いてくる物音に言葉を飲み込んだ。
「……あれですか」
「……悪寒はあれかも知れんが、くしゃみは別件だろうな。あれは俺のことなんて頭の片隅にもないぞ」
 ――お止めください、困ります、事前にご連絡いただかないと……
 ――何よ今更、いいじゃない、私とミーコちゃんの仲だもの……
 ――で、ですから本日からミコト様は、うぐっ……
 ――ミーコちゃんただいま! 帰ってきたわよ! あら、ミーコちゃん?……
 大音声で交わされるやり取りは、近づき、クロノとアルフのいる部屋の前を通り過ぎ、二階へと遠のく。上階から響くどたどたという物音に、いまだクロノの指先で留まっていた花弁はひらり、儚くも落ちた。
 クロノの筆跡が滑る書類の上に落ちた花弁は、とどめとばかりに吹き飛ばされる。乱暴に開かれたドアの風圧によって。
「ちょっとクロノ!!」
 部屋の入口には二人の女が立っている。一人は肩を怒らせ腰に手を当てながら、もう一人は先の一人に縋りつくようにしながら。クロノは深くため息をつく。
「ベニオ、毎度毎度うちの門番を泣かすのはやめてくれないか」
 腰に手を当てて仁王立ちをしているのはクロノの姉で、つまりベニオ皇女だった。二週間ほど国外へ外遊に出ていたはずだが、今日帰ってきたのだろう。皇宮内ではあまり見かけない白いロングワンピースを着ている。ゆったりとしたドレープに、裾にかけて染められた深紅。ガラス鉢を舞い泳ぐ金魚のように優雅だが、纏った本人の放つ怒気がすべてを台無しにしている。
「知らないわ、何泣いてるのよ」
 縋りついている方はまともに怒気に晒され、ぴぃっと奇妙な声を上げて数歩引いた。あまりにも頼りなく、頬には殴られた痕さえ見られるが、これでもクロノたちの住む離れ家の門番である。
「マリアさん、何度目ですか」
 クロノの傍らで、今度はアルフがため息をつく。視線をやらずとも右目にかけた片眼鏡を押し上げているだろうとクロノには知れた。呆れたときや苛立ったときのアルフの癖だ。
「皇女様が屋敷に入る前に止めていただかないと」
「うぎゅ、も、申し訳ありません……」
「もう、そんなのはどうでもいいから! クロノ、ミーコちゃんをどこへ隠したの!?」
 腰にあった手を大きく振り、びしりと音が聞こえんばかりの勢いで、ベニオはクロノを指さす。
 勢いが過ぎたのか、ベニオの長く艶やかな茶髪が鞭のようにしなり、マリアの鼻先を打った。うずくまる女騎士の元へアルフを遣りながらクロノは答える。
「誰が隠すか。ミコトは今日から学校だ」
「学校!? 聞いてないわよ!!」
「それはそうだろう。お前の外遊中に決めたからな」
「学校なんて行かなくていいじゃない、なーにを今更……!」
「ミコトもだいたいの言語や概念は理解してきたし、翅の抑え方も問題なくなってきた。この星で、この国で生きるためのあとの知識まで俺が教えてやれる余裕はない」
 クロノの視界の端では、アルフがマリアに手を差し伸べていた。ベニオは切れ長の目を吊り上げて、唇を尖らせる。
「なら、家庭教師でも雇えばいいじゃない。皇宮付きの教師はいくらでもいるわよ」
「ミコトは『特別』だが皇族じゃない。それに集団の中でしか学べないことも多い」
「う……ゆ、ユニオンで禁」
「ユニオンからの許可、奨励は受けている」
 にべもなく言い放つ。
 ついにベニオは押し黙った。むっつりと頬を膨らませてしばしクロノを睨みつけ、最後にフンッと鼻を鳴らして踵を返す。アルフに騎士服の首根っこを掴まれて退場したマリアを追うように、高くヒールを鳴らしながら、
「まあいいわ、学校まで迎えに行って早退させてくるから」
 またベニオの鼻が鳴る。文字にすれば「フフン」だ。今度は勝利宣言なのだろう。
 時間にとらわれない貴族学校では、授業を中座してパーティやらオペラ鑑賞やらに行く生徒も少なくないとクロノは聞いている。なんでも家から迎えが来て、家族揃って出かけるのだとか。
 しかしそれは上級街、貴族たちの常識である。
 去りゆく姉の背中に、クロノは忠告を添えてやった。
「皇女様の行けるところじゃないと思うが」
「……何よ、それ」
「お前、下町の学校に行ったことないだろう」
 ぐるりとベニオは振り返る。華やかな美しさ、どこの新聞にもそう形容される第三皇女は、目と口をぽかんとまん丸く開いている。これを俗に阿呆面というのだろう。
 クロノが感心して数度頷くほどの間を開けて、
「はああああああ!? なんっでそんな危なくて品のない学校になんか行かせるわけ!?」
 靴音高くクロノの座す机まで歩み寄り、ベニオは天板をばぁんと大きく叩いた。インク瓶が跳ね上がるが、寸前にクロノが抱き寄せていた書類たちは無事である。
「見たこともないのにお前……」
「見てなくても聞いてるわよ! 学校だか託児所だか分からないって! 皇族じゃなくても上級街の貴族学校には行けるんだからそっちにすればいいじゃないの!!」
 台詞の合間合間に殴られる机が哀れで仕方がない。インク瓶とその中身も心配だが、自分の服は黒一色なので目立たないだろう、などとクロノは考える。
「上級街は選民的、排他的なところがある。教育内容も確認したが少しばかり方針に偏りがみられた。下町なら種族も多様だし、何より、色々と雑多だ」
 下町はいい意味でも、悪い意味でも、雑多だった。
 ばんっ。
 ベニオの演奏もどきが止む。クロノは少し長い前髪の隙間から姉の目を見た。先ほどまでと打って変わって、聡い色でクロノを見つめている。
「クロノ、あんた、『俺もミコトもいつまでもここにいられるわけじゃないからな……』とか思ってる?」
 急に声を低めたかと思えば喋り方を真似たつもりらしい。とはいえバカにしているわけではなく、これはベニオなりに心配しているのだとクロノは知っている。
 ついでに、クロノが皇宮のほとんどの人間に疎まれていることを案じていることも、いずれクロノたちが皇宮を追い出され一般市民として暮らさざるを得なくなるのではと思っていることも。
 クロノの唇から笑いが落ちた。ベニオはまた口をへの字に曲げて、何よ、と遠慮がちに声を上げた。
「思ってないわけじゃないが、今回の件は別だ」
「別って」
「下町の学校には頼りになる人間がいる」
 一抹の不安がないわけではないが。
 という台詞は飲み込んで、ミコトを安心して任せられる人間がな、と、クロノは付け足した。少しばかり自分を騙す意味も込めて。
 しかしクロノの口元は本体の意思に反して騙されず引きつってしまったらしい。更なる不安を感じたベニオに責められてようやくクロノは気づくことになる。


「ぇ……ふぇ……ぶぇっくしゃああああ!」
 教室の外にミコトを待たせたグレイは、教卓の横に立った瞬間、盛大なくしゃみをひとつ。
 朝一番の教師の失態に、教室にはどっと笑いが起こる。せんせーやだー、だの、きったねー、だの、うるせぇ生理現象だろが!だのと、楽しそうな声がそこかしこから聞こえていた。
 沸く教室に反して、頂点まで緊張を高めていたミコトは驚き、上体ごと跳ねた。
 瞬間、背中の翅が細かく震えながら天井目がけて拡がる。慌ててミコトはぎゅっと両手を握り、呼吸を整える。しばらくのあいだ無心で息を吸って吐いて、繰り返した。
 脈打つ心臓は、教室の喧騒とともに落ち着いていく。ミコトは安堵の息をこぼした。
 笑いとグレイの吠える声に満たされた教室の中、スライド式の扉に近い後ろの席で、トワは無表情にグレイを眺める。それからすうっと、グレイの入ってきた扉に視線を移した。そこには見えないミコトを透かすように、翅からはがれ落ちるうすい光の粒を拾うように、つぶさに見つめる。