第1話 : 学校に行くミコトさん 5


 個々に課題のプリントを片付け、グレイに答え合わせのプリントを貰いに行く。あるいは数人で固まって同じ分野を教え合う。はたまた少し先んじて学んでいる者がそうでない者に分かりやすく教える。
 そんなかたちで進む午後。ミコトはたった一人の教師と、面と向かい合っている。
「話したり聞いたりは大方仕上がってるし、お前はまず文字の読み書きからだな」
 確かに、開いた折り目も瑞々しい教科書の、ほんの一部分しかミコトには理解できない。そのほんの一部すら大半が挿絵である。話すこと、聞くことは皇宮にいる内にクロノや周りのひとたちから学んだが、文字に関しては一切何もしなかったのだから当然だった。
 鉛筆の握り方から始めて、基本的な音と文字の関係を書き留める。ミコトがその作業に没頭している内に時間はだいぶ進んでいたらしい。かんかんかんと、教室のどこかで鍋がなった。
「じゃあ今日はひとまずここまで。宿題欲しいヤツは取りに来い。どうしても残らねーといけないヤツ以外はさっさと帰れよー」
 グレイの声を皮切りに、騒々しさがふーっと戻ってくる。授業からの解放に跳ねる声や足音を耳に、ミコトは机にあごを乗せて脱力した。翅もへなりとしおれて横に落ちる。
 とにかくこれで、学校一日目は無事に終わった。教室から駆け出すいろんな姿かたちの子たちを見送って、ようやくミコトは体を起こす。あらかじめグレイに渡されていた宿題のプリントを、ていねいにかばんにしまう。机の周りに忘れものがないことを確かめてから、ミコトはかばんを肩にかけた。
 そこで、声をかけられた。
「ミ〜コっトちゃん!」
 顔を上げればふたり。ひとりはすっかり帰り支度をすませているマオで、声をかけてきたのはもうひとりのほう。つやつやの髪に、少しとんがった耳、きらきら光ってかがやく大きな目と、ほおをいろどるウロコ。
 朝、ミコトの席を決めるときに真っ先に手を挙げてくれた子。名前は――
「えっと、びん……び……?」
 とてもむずかしい名前だったことは覚えているが、びん…から先が出てこない。
 必死で名前を口にしようとするミコトを見て、当のびん…本人はからからと笑った。
「ヴィ・ン・ギ・ロー・テ! ヴィンギローテだよ。ビッテって呼んでね」
 よろしくーと差し出される手を、ミコトはあたふたと握り返す。少しひんやりした、気持ちのいい手だった。
「ミコトです、よろしくお願いします」
 手を握り合うミコトとヴィンギローテを眠そうに見比べて、マオがぽつり。
「……今度はさすがに、噛んだり机に頭ぶつけたりしないんだ」
「まっ、マオさん!」
 ミコトが見やると同時に、マオは深くフードをかぶり直す。けれど、ちらりと見える唇が、笑うかたちに歪んでいるのを、ミコトにははっきりと目にした。
 今度はヴィンギローテがからからと笑う。
「最初の挨拶で真っ先に噛んじゃうし、右手と右足が同時に出ちゃってたもんね〜?」
「び、ビッテさんまで……」
 ミコトはこの場の空気を払うように手を振る。翅もぱたぱたと上下に動いて、微力ながら空気を払う努力を見せた。それを見たマオはあからさまに笑みをこぼし、ビッテは肩をぷるぷると震わせて、
「やーんもうミコトちゃんかっわいいー!!」
「ひゃあっ!?」
 がばり強く抱き寄せられる。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、ミコトの顔はヴィンギローテの胸元に押し付けられるかたちになった。痛くなくて、やわらかい。突然のことにくるくる、思考が回る。
「…………うん」
 そんなくるくる頭は控えめになでられていた。たぶん、マオの手だと思う。
 驚きのあまり背中の翅がぴーんと伸びる。翅を振り返りたいが、ヴィンギローテにがっしり押さえこまれていて振り向くこともできない。
「オイコラお前ら」
 そこに、救いの手が差し伸べられた。
「新入生いじりもほどほどにしときなさいね」
 ふいっとヴィンギローテの胸元と、マオの手が遠ざかる。ふたりはグレイに首根っこをつかまれて、じたばたともがいていた。正しくはもがいているのはヴィンギローテだけで、マオは猫のようにおとなしくぶら下げられている。
「何よう放しなさいようオッサン教師! セクハラ! セクハラ!」
「誰がオッサンだコラァ!! っんとにお前はいらん言葉ばっかり覚えやがって……」
「あー分かったぁ、自分もミコトちゃんにぱふぱふしたいのにできないから僻んでるんでしょ? オッサンがやったら犯罪だもんね? ペドフィリアだもんね?」
「本当にお前はどこからそんな単語を仕入れてくるんですか!! ちなみにセンセイはぱふぱふするよりぱふぱふされたい派です!!」
 グレイとヴィンギローテとマオ。穏やかでない様子で、ミコトの知らないことばが飛び交う。自分が話の渦中にいるような気もするけれど、止めようがまったく分からない。救いの手と思ったものは、まったく逆のものだったようだ。
 おろおろと三人を見比べ、さなかに自分の背中を振り返る。驚きに跳ね上がった翅は、今はもう脱力してミコトの背中でなびいている。クロノの言いつけは守られているようで、ほっと息をついた。
 ふと、今まで黙ってぶら下げられていたマオの声。
「生徒の乳を露骨に性的な目で見てくる……いやらしい……」
「お前は誤解しかない発言はやめんかコラ!」
「やめて! 私に乱暴するつもりでしょう? エロどうもがっ」
 ヴィンギローテがトーンの高い声で続けるが、途中でさえぎられた。口をふさがれたヴィンギローテはもがもがと声を出している。
 その口をふさいだのは、いつのまにかあいだに割って入っていた、
「と、トワさん……」
 ミコトからははがね色の背中しか見えない。けれど、まるい後ろ頭はグレイを見上げていて、見えるトワの背中にはなんだか近寄りがたいものがあった。
「お前らなあああああ……!!」
 グレイが低く唸って、ぱっ、と放す。お尻から落っこちたヴィンギローテはちいさく悲鳴を上げて、マオのほうは器用にステップを踏んで着地していた。非難の目で見上げるヴィンギローテと、あいかわらず眠そうな目で見上げるマオ。ふたりを見下ろすグレイは、這うような声とは反対に、眩しい笑顔をしていた。
 そして眩しい笑顔のまま、再びふたりの首根っこをつかんで、今度はどこかへ引きずっていく。
「ちょっとぉやめてよ! せっかくミコトちゃんと帰ろうと思ってたのにぃ!」
「知るか! まだ言葉もおぼつかないヤツの前でなんちゅう台詞をお前らは……教育的指導!!」
「……ミコト、また明日」
「明日はいっしょに帰ろうね! ばいばーい!」
「あっ、はい! また、明日……!」
 引きずられながらも器用に手を振るふたりに、ミコトもとっさに手を振った。遠ざかる声で「……ほーらやっぱり人目につかないところに連れ込もうとする……」「汚いなさすが教師きたない!」などと続いたものの、意味の分からないミコトは首を傾げるしかない。
 グレイに伴われたふたりが教室を出て見えなくなったところで、ミコトは自分の手を見下ろした。
 ヴィンギローテとマオに振り返した、手。だれかとあしたの約束をしたのは、たぶん、初めて、だと思う。
 なんだかほおがゆるんでしまう。両手を当てて引きしめようと思うけれど、振り返したばかりのこの手をもう少し見つめていたいような気もした。
「…………」
「あっ、はいっ、何ですかトワさん!?」
 ただでさえ口数の少ないらしいトワが、輪をかけただんまりで自分を見ていることにミコトはようやく気づいた。なんとなく背中のうしろに両手をかくして、やっぱりだんまりのトワに向き直る。なぜだか背中の翅がぱたぱたして止まらなかった。
 しばらくトワはミコトの泳いでやまない翅を見て、それからやっと、口を開いた。
「帰る」
「そっ、そうですね。用事がないなら、早く帰らないと」
「あんたも」
 帰ろう。
 続くトワのことばと、差し出された手。朝、差し出された手と同じで、けれどもちがう。
 駅のざわざわとはちがう、教室のざわざわの中で、向かい合う。
 ぱたぱたし続けていた翅は、最後は静かにぱたんと振れた。それから、うしろにかくしていた手を、トワへと差し出す。
「……はい」
 なんだかこういうのは、すごく、『いい』なあ。
 またほおがゆるんでいるような気がする。まぶたもゆるんでいるのかもしれない。トワの目がほんの、ほんのすこしだけ、まるく開かれたように見えた。
 トワの目元をじっくり見ようとするが、同じタイミングでトワはぐるっと背中を向けた。少しだけ引きずられて、ミコトはトワの斜め後ろに並ぶ。
「行くぞ」
 朝とは違って、トワが前に立って歩き出す。ミコトは弾んだ声で「はいっ」と答えた。


 ふたりが並んだのは、電車に乗り込んで空いた座席に落ち着いてからだった。
 朝は仕事に行くひとで席の埋まっていた電車も、この時間は空席が目立つ。そうミコトが気づいてトワに尋ねると、仕事終わりにはまだ早い、とだけ返された。太陽はまだあかるく熱をもっていて、窓から外をうかがえば、汗を拭いながら早足で歩くひとや、大きな荷台を馬にひかせているひとも見える。石畳に伸びるかげも、まだ短い。
「このあたりは、高くて、まっすぐなおうちが多いんですね」
 ふと、外を見ていて気づいたことを声に出してみる。
「あれは家じゃない。ビル。このへんは商業街で、北の上級街近くか南の下町近くに住む人間がほとんど」
「……びる? しょうぎょうがい?」
 おそらく初めて聞いたことばに、ミコトは首をかたむけた。
「……たぶんそのうち習う」
 なんだか、丸投げにされた気がする。
 とりあえずあれは家ではなくて、このあたりで暮らしているひとは少ない、ということはわかった。
 ごとんごとんと揺れながら、何度も電車は停まって、ひとが乗ったり降りたりする。それでも進むに連れてひとが減っていく。
 降りる駅まであとふたつ、というところで、ミコトはかばんの中から定期券を取り出した。
 降りる駅のふたつ前ぐらいから。朝聞いたばかりのことば。となりのひとを見れば、ほんのちょっとだけ頷いてくれた。
「トワさんは、どこで降りるんですか?」
「皇宮庭園前」
「あ、わたしとおんなじですね」
 ミコトは翅をぱたんと打つ。トワはミコトから目を逸らして、窓の外を見ているようだった。こちらを見ないトワから、ミコトは手の中の定期券に視線を移す。丸く描かれた線から、ところどころまっすぐな線が枝分かれしている。線にはいくつもの点が打たれていて、点のよこには駅の名前が書いてある、らしい。ミコトにはまだ、自分の使う『皇宮庭園前』と『下町学校通り』しか読めない。
 内回り、外回りとかもあるらしく、そちらのほうもあんまり分からない。けれど、行きと帰りで乗り降りした駅がおんなじなら、遠回りをしてしまっても料金はおんなじ。ミコトはまだお金の計算も、外回り内回りも分かっていないから、手っ取り早く定期券にしておく。と、クロノがいっていた。
 ふと、ミコトは思い出してとなりを見る。
「トワさん」
 返事はなかったけれど、視線でトワは答えてくれた。
「今朝、トワさんの定期で、トワさんとわたしの分、支払ってくれたんですか?」
「そうなる」
「……じゃあ今度は、わたしがふたり分払えば、トワさんの分もぴったり?」
 たずねてみたが、どういえばいいのか分からなくて、変なことばになってしまった気がする。伝わったかな、とミコトは心配になるが、
「……それで合ってる」
 今度は声と頷きで返ってきた。意味は伝わったらしい。
 翅を振って「じゃあ、いっしょ」と笑う。被せるように、ふたりの降りる駅を告げるアナウンスが流れた。
 乗る駅も降りる駅もおんなじひとがいるのは、とっても心強い。まだ電車は止まっていないけれど、今度はミコトからトワの手を握る。ちょっとひんやりしていて、クロノよりはちいさい手。その手が一瞬震えて、トワが何かを呟く。けれど電車が止まるかたくておおきな音にかき消されて、なんといったかまでは聞こえなかった。
「今、なんていいました?」
「……いい。降りる」
 手を握ったのはミコトからだったけれど、先に歩き始めたのはまたトワだった。
 手を引かれながら電車の先頭まで歩きつく。降りるひとはミコトとトワ以外にはいないようで、列に並ぶこともなく車掌の元へ。立っているのはどこかで見た顔のひとだった。
 向こうも気づいたらしく、ミコトが口を開くより先に声をかけてくる。
「あぁ、今朝の」
「朝の、車掌さん」
 定期券を探すミコトを、眉を下げて見下ろしていた、そしてトワの定期券でミコトの分の運賃も切ってくれた車掌だった。
 トワはこのひとを「電車のに乗ったひとは客全員を覚えている」といっていたけれど、そうでなくてもミコトの翅は目立つ、らしい。すぐに気づいてくれたのは、翅のおかげもあると思う。いやな気持ちになる目で見られることが多い翅だけれど、こんなふうに役に立ってくれるのはうれしい。
「定期券は見つかった?」
 真っ先に聞いてくれた。ミコトは少し前から握っていた自分の定期券を見せる。
「はい、かばんの中に」
「そっか、よかったね」
 車掌は下げていた眉の端を元のところに戻して、それからほっと息を吐いた。ミコトを見る目を細めて、笑う。ミコトの翅も、ぱたぱたとちいさく上下する。
「朝は、ありがとうございました。それで、これ、わたしとトワさんのふたり分、切って下さい」
「ああ、そうすればふたりとも精算が合うね。――はい、どうぞ、お嬢さん」
 かちん、かちん。
 二回はさみが入れられて、気持ちのいい音が鳴る。ミコトはふたつ印が入ったばかりの真新しい定期券を眺めて、それからかばんの内ポケットにしまった。となりのトワがまた、確かめるように頷いている。
 もう一度ミコトは車掌を見上げた。こんなときは『お礼』で、頭をちょこんと下げる。
「ありがとうございました」
 次に顔を上げれば、車掌は前髪が眉毛をかすめるぐらいに頭を下げて、目元もやわらかく細くなって、ふたりを見下ろしていた。 「こちらこそ、ご乗車ありがとうございました。段差に気をつけて降りてね……またのご利用を」
 ミコトとトワが電車を降り、数歩下がったところでドアの閉まるアナウンス。次に、ぴろろろろろ、と高く笛が鳴った。窓越しにちいさく手を振る車掌に、ミコトも同じように手を振る。翅の方は、おおきく振れて電車を見送っていた。
「よかったな」
「うん。トワさんも、ありがとう」
 返事は、呼吸ひとつ分のあとの「別に」だけ。ミコトは翅をいちど打つ。
 遠くなるがたんがたんという音に落っこちた静かさは、なんだか、とても『好き』だと思った。
 それからホームを出ようと歩き始めるトワに、ミコトも続く。白い石畳を踏みながら、ふと気づいた。学校から駅まではおんなじだったけれど、ここから先、トワはどこまで行くのだろう。
「トワさんのおうちは、どちらなんですか?」
 また少し、間があった。
「……あんた、送る」