さっきから何度も繰り返したとおり。軽く手をグーに握って、また軽く目の前のドアを叩く。
がんっ、がんっ「わっ」、がつ。
荒い木目のドアは思っていたよりも薄く、いわれた通り立て付けが悪いようだった。嵌めこまれた曇りガラスは薄っぺらく、ミコトのノックに抗議する。予想しなかった音に驚いて、ちいさな悲鳴と、下手くそなノックの音が重なった。
「はいよ、どーぞお」
下手くそな音でも意図は伝わったらしい。ドア越しにしては明瞭な返事が聞こえてきて、ミコトはドアノブに手をかけた。くすんだ金色のノブは固いながらもどうにか回り、ミコトは内側に開くドアに吸い込まれる気分で恐る恐る、室内へと踏み込む。翅のつけ根がちりちりする。
「失礼します。あの……」
部屋はこじんまりとしていて、四角い机がぴったりと向かい合わせに六つ程度置かれている。机の上にはたくさん本が積まれていたり、逆に限りなく何もなかったりしていた。砂埃で汚れた窓ガラスはお世辞にも朝の光を取り入れているとはいいがたいのに、目の前を漂うほこりだけはよく見える。
これはたぶん、汚い、とか、雑多、というのだ。
ミコトは見たものとことばの意味とを内心で確かめる。おかげでひときわ高く積まれた本から、「何の用ですかあ」
「ひぃっ!?」
ゆらり、と立ち上がる影に気づくのが一拍遅れた。
背中にぴりっとしたものが走る。驚いて翅が拡がったのは、目の前までのそのそ歩いてきた人の視線で知れた。翅への視線には聡くなったと、ミコトは自負している。
思わず一歩引くミコトに構わず、その人はミコトの頭のてっぺんから足の爪先、翅の脈まで、じろじろと眺める。念入りなのに目は半分閉じかけていた。ひと通りミコトを眺めて、後ろ頭をボリボリと掻いて、もう一度ミコトの翅を見て、ようやく口を開いた。
「あー、はいはい、新しく入ってきた」
「み、ミコトです」
「うん、聞いてる聞いてる。まあ座ろうか」
本の山を崩さないよう、器用にすり抜ける背中に続く。背中はくるりと回って窓のそばに置かれたソファに沈み、低いテーブルを挟んで反対側のソファをほそい顎がしゃくる。ここのテーブルにも埃がうっすら積もっている。同じく埃に覆われたソファにミコトが恐る恐る腰掛ければ、ギシリと大きな音がした。
思わず腰を浮かすミコトを、対する人物は笑った。
「えっらいおっかなびっくりだなあ。昨日来てたって聞いてるけど?」
「えと、昨日はこっちじゃなくて、別の……」
きれいな部屋に、と付け足しそうになって飲み込む。
「校長に会ったんだっけ?」
「はい、お話しました。クロ……ええと、付き添いの人もいっしょに」
「じゃあこっちじゃなくて理事長室行ったんだな。汚くてびっくりしたろ、こっち」
かっかっか、と天を向いて笑う人に、ミコトは「えぇと、はい」と頷いた。こんな笑い方をする人には初めて会う。
ミコトの頷きを気にする様子もなく、対する人は口元にたっぷり笑いを含んだまま、手近な机に手を伸ばす。本の塔のてっぺんに積まれたファイルをひょいと取り上げる。塔は崩れそうで崩れなかった。
「じゃあ、ま、とりあえず初めましてだな。教師のエルヴィス・グレイです。別に『先生』とか呼ばなくてもいいけど『おっさん』って呼ばれると傷つくかな」
相変わらず笑顔だったが、なぜだか、目と声は笑っていないような気がする。
ミコトには外見や、『年齢』というものが、まだあまり分からない。分からないが、どうやらだいじなものらしい。こくこくと頷く。
背中の翅がびりびりするのは気のせいだと思う。
「グ、グレイ先生って呼びます」
「うんうん、殊勝な心がけだ。で、そっちは?」
グレイ教師が『そっち』と視線で示したのはミコトではなく、ミコトの斜め後ろ、ソファの後ろで直立する人物だった。
ここに来てようやく話を振られた人物は、ほんの少し眉間にしわを寄せた。続けて首を傾げる。うっすら埃っぽい空気に、はがねいろが光る。
「……グレイ先生?」
「いや、お前が俺をなんて呼ぶかとか聞いてねーよ? なんでそこで突っ立ってるんですかってセンセイは聞いてるんだが、トーワくぅん?」
グレイが不信の目を向けても、トワは特に何か答えるでもなく直立し続けている。このままではいつまでもにらみ合いを続けるのではないだろうか。間に挟まれたかたちになっているミコトのほうが焦ってしまう。
「あの、トワさんは、わたしが電車で困ってるところを助けてくれて」
「ほお、電車で」
「それで、学校まで……えっと、いっしょに来てくれたんです」
間を置いてしまったのは、連れてきてくれた、と続けようとして、それがまちがいだと思ったからだ。
行こうといって手を差し出してきたのに、トワはミコトの前を歩くでなく、さりとてとなりに並ぶでなく、今のようにミコトの斜め後ろをついてきた。気になったミコトが少し立ち止まってみたり、ゆっくり歩いてみたりするとトワも同じように動く。
結局、会話もなく、ふたりは一定の距離を保ったままついに学校まで辿りついたのである。校門の前で振り向けばトワは大きくひとつ頷いたから、もしかするとミコトが駅から学校までの道を覚えているかどうか確かめていたのかもしれない。
「職員室に入るときはどうするのかも教えてもらいました」
校門の前からは先に立って案内してくれたし、それは素直にありがたかった。
背中に注がれる視線が痛くて何度も翅が震えそうになったのは、忘れることにする。
「……ほぉーう。なるほどなあ」
グレイは風にたわむ大樹の枝の動きで頷いて、改めてトワに向き直った。
「世話焼いてやったみたいだな」
「……別に」
「うんうんうん、ま、いいわ」
分かってる分かってる、小声でそう付け足しながら、グレイは何度も何度も頷く。ゆるく横に伸びるくちびるからは、ものすごく楽しそうに弾む声。
「後は俺が面倒みっから、お前は先に教室行ってな」
「……わかった」
グレイとは正反対に、トワは感情を見せないまま頷く。そのままきびすを返して本の塔をすり抜ける。
立て付けの悪い薄いドアに手をかけたところまで見送って、ふとミコトは思い至る。慌てて立ち上がった。
「あ、あのっ、トワさん!」
視界の隅っこで、立ち上がる勢いに揺れる翅が本の塔をなでたのが見えた。かまわず少し息を吸う。
トワがドアに触れたまま、それでもゆっくりと体ごと振り向いてくれる。落ち着くように、胸の前で手を組んで、吸った息を吐き出す。
「ありがとうございました。これから、よろしく、お願いします」
ぺこりと頭を下げる。少しして、ゆっくり顔を上げる。
トワは目を丸くしているように見えた。ミコトが首を傾げると、一度瞬きをしてから、くるりとドアに向き直る。そのまま何もいわず、薄いガラスをがたがた鳴らして出ていった。
「わ」
くるりとグレイを振り返る。翅が本の塔を薙ぐように振れても、ミコトは気づかない。
「わたし、トワさんに、きっ……きらわれてる? の、で、しょうかっ?」
「…………いや」
振り返った先で、グレイは、種類こそ違えど一度も絶やさなかった笑みを、すとんと落っことしていた。
「あいつもあんな顔……できんだなぁ……」
先ほどのトワにも負けないくらい丸く目と口を開いている。それはじわりじわりとゆるんで横に伸びて、今まででいちばん楽しそうな、すごく、すごく、楽しそうな笑顔になった。
いや、いいや、うん、うん。ぶつぶつと呟いているが、ミコトには何なのか分からない。グレイもミコトに聞かせるつもりはなかったようで、ひときわ大きな声で「うん」と頷いた後、まだ立ち尽くしているミコトを見上げる。
「まあ、大丈夫だよ、あいつは。とりあえず座んなさいな」
「あっ、はい、すいません」
「いいよいいよ、俺もびっくりしたし」
今度は大きな音がしないように、ミコトはゆっくりとソファに座る。
ミコトが座って呼吸ひとつ分、グレイは取り上げられたまま出番のなかったファイルを開いた。昨日クロノが持ってきたものだった。
「昨日も話したと思うけど、一応確認な」
「はい、お願いします」
「おう。えーと、名前はミコト・ミナイエ。出身については?」
「いっちゃだめだって聞いてます」
グレイは頷く。今度は、今まででいちばん真剣な顔をしていた。
「そうだな、ここに来た経緯も」
「話しちゃだめ、です」
「お前のいた星はユニオンの規定に基いて口外が禁じられてる」
翅の付け根がぴりりとする。ミコトは曖昧に頷いた。
「なんとなく、聞いてます」
「ま、過渡期に地球が抱える問題の一つってやつだな。そのうち習うから今はなんとなくで大丈夫だ」
あまり分からないことばに首を傾げる。グレイはにししっと笑ってファイルを机に放った。埃がキラキラと舞う。
「最後、お前が学校生活で一番気をつけなきゃなんないことは?」
これはさんざんクロノから注意されている。注意されなくても、これまでの生活で何度か大変な目にあったのだ。ミコトはグレイをしっかりと見つめた。
「すごくびっくりしたり、すごく怒ったり、大きく気持ちを動かさない、です」
背中のぴりぴりが強くなる。ふだんはあると分からないぐらい軽く、わずかな空気の流れにも揺れる翅。そのくせものに触れるとすり抜けてしまうこともある翅が、存在を主張する。
グレイはそんなミコトの翅を見ながら、大きく頷いた。
「詳しい原理は聞いてないけど、下手するとドッカーン、らしいからな」