第1話 : 学校に行くミコトさん


 ない、ない、見つからない。
 ミコトは無心にかばんを探る。目の前の車掌や後ろに並ぶ人たち、ベンチに座ったままの他の客。たくさんの視線が感じられて、頭がぐるぐる、背中はぞわぞわする。空調のない電車の中、視線と空気が交じり合って、必死にかばんを探るミコトの頭からこめかみから足から、なにかを引きずりおろそうとしている。
 ミコトは背中の翅を小刻みに震わせた。引きずりおろそうとするなにかを振り払うように。もしかすると恐怖にちかいものに揺さぶられているだけかもしれないけれど。
 早く見つけなくちゃという焦りに、だれか助けてという考えがちらちらと横切る。邪魔するものはどんどん大きくなっていって、指先がもつれて絡み合っていく。
 せっかく早くに家を出たのに。ミコトはぎゅうっと眉根を寄せた。


 朝は、『好き』。
 太陽が空気を温める前、少しずつ消えていく夜の空気。しっとりとした夜の名残に跳ねる緑の葉。
 まだぼんやりとした朝の光を浴びながら、ミコトはすうっと背筋を伸ばす。背中で翅が震えるのを感じながら目を細めた。ちかちか、眩しい。テラスから見下ろすこの庭は、大きな樹と、きれいな花に溢れていて『気持ちがいい』。
 水気を払うように翅を動かしていると、おぉい、と声がする。ミコトはテラスから身を乗り出し、庭を見渡す。
「おはよう、ミコちゃん」
 大きな麦わら帽子がひょっこりと茂みから覗く。見上げてくるのは日に焼けた赤い顔に、豊かな白い口髭を蓄えた老人だった。ミコトも口元を緩めて、ぺこりと頭を下げる。
「おはようございます、シモンさん。朝早くから、お仕事、ご苦労さまです」
 シモンの手には捕らえられたヘビのようにくったりと、青いホースが握られている。先端からはぽたり、ぽたりと水が滴っていた。朝の光を弾いて地面へ落ちていく。シモンは皇宮の庭木を朝から晩、端から端まで手入れする庭師だった。
「ミコちゃんこそ、今日は一段と早いねえ」
「うん。今日から、学校なんです」
 ミコトはぱたりと翅を振る。ああそうかとシモンは頷いて、そのまま口髭をいじりながら声を潜めた。
「学校までの行き方は大丈夫かい?」
「昨日、クロノといっしょに、電車で行ったから」
 大丈夫、道も覚えていますと続ける。しかしシモンは、もごもごと口髭のあたりにことばを絡ませていた。今の答えは、まちがっていたのだろうか。
 ひとつ翅を振ってミコトは口を開く。しかし問うより先に、「なら、大丈夫かな」とシモンが笑った。顔にぺたりと被せたような笑顔だった。
「それでも、ミコちゃん一人で街へ出るのは初めてだろう? 皇都は下町でも治安がいいから滅多なことはないと思うけど、気をつけて行くんだよ」
「うん、ありがとうシモンさん」
 先の疑問を背中で振り払い、ミコトは頷く。わずかに温まった空気がやわらかく頬を撫でていった。


 ――と、今朝のやり取りを反芻する程度には、ミコトは焦っている。
 道は覚えていたのに。電車にも間違えずに乗ったのに。降りる駅もここなのに。
 学校まで、あと、すこしなのに。
 おぼつかない指先とつながるように、翅が震える。これ以上震えが大きくならないように、ミコトは指先だけでなく、背中にも神経を張りつめる。そうすると周りの視線が、少しだけ消えたような気がした。
 きっとそんな気がしただけで、今一言でも声をかけられたら泣き出してしまうだろう。視界の端で目の前の車掌が口を開く――
「なあ、」
 え、と声がこぼれ落ちる。うしろからすっと伸びた手が、ミコトの肩を越え、車掌に四角いなにかを突き出している。それはミコトが探しているものによく似ていた。
 振り向けば、見知らぬだれかがミコトを越え、車掌をまっすぐ見上げていた。声はミコトにかけられたものではなく、涙はすこし、引っ込んだ。
「俺の定期で、こいつの分も切っておいて」
 ミコトには、なんのことかが今ひとつ分からない。一方の車掌は分かっているのか、困ったように眉を下げながら、「いいけど、いいのかい」と答えた。ミコトのうしろの見知らぬ人は頷いて、ついでのようにことばを重ねる。
「他の客が迷惑してる。あんまり止まってると電車も遅れる」
 迷惑、という言葉と意味は、ミコトも理解していた。慌てて車掌とだれかを交互に見やるが、既にかちん、かちんと二回、はさみが入れられている。車掌はなぜか、ごめんね、と小さくミコトともうひとりに呟いて、帽子の下の前髪が眉毛を撫でる程度に頭を下げた。あっと声を上げかけるが、手首を引っ張られて電車を降りてしまう。
 シモンに大丈夫と答えたのに、人に『迷惑』をかけてばかりだ。耳から発車を知らせる長い笛の音が入り込んで、くっと内側から目元を押す。翅がまた細かく震え始める。
「あんた」
 声はふっと、風が吹くように聞こえた。
「わ、わたし」
「ここ」
 ここ、と指されて、視線を動かす。白っぽい石畳の上に佇むベンチと、座ってと続く声。また手首を引かれ、ミコトはわずかによろけながらベンチに座る。背中と背もたれのあいだで、翅がへにゃりと押しつぶされた。
 ミコトはそろりと相手を見上げる。
 かばんを肩からななめに下げていて、すうっとした顔と、目をしている。
 なんとなく、やさしいナイフのようだと思った。まだことばに慣れていないのでまちがっているかもしれないけれど。
「かばん、探して」
 声も、あまり『生きもの』という感じがしない声。とはいえ、ミコトを責めたり、突き放したりといった感じもしない。
「電車で探してたの、定期」
「う、うん」
「帰り困るから」
 今、探しておいたほうがいい。
「あっ、そうです、ね」
 ミコトは肩に引っかけていたかばんを膝にのせ、あまり多くない中身をより分け始める。いわれるまで定期券をなくしていたことを忘れていた。
 はがねの視線を感じながら、ミコトは指先を動かす。黙ってじっと見られていても電車の中で感じたようないやな気持ちはしない。定期券も、すぐに見つかった。落ち着いていればどうということはない、うすい桃色のケースに収められた券はノートとノートのあいだからミコトを見上げている。
「あった、ありました」
「うん」
 短い返答と頷きに、ミコトの翅がぴくりと一度跳ねた。もっとも背中と背もたれに挟まれているので、相手には伝わらなかっただろう。
「かばんの内ポケットとか、分かるところに入れて」
「うん、あ、はい」
「慣れてないうちは降りる駅のふたつくらい前から出しといたほうがいい。駅の間隔短いから」
「はい」
 頷くだけのミコトを気にした様子もなく、ミコトの隣に座る人物は続ける。「それから」
「次にあの車掌の電車に乗ったら、見つかったって教えてやって」
「は……」
「あの車掌、ひとがいい。一度でも乗った客の顔は覚えてるし、前乗った時どうだったかも覚えてる。ひょっとしてあんたが電車の中で定期落としたんじゃないかって気にしてる」
 じりりりりとけたたましくベルが鳴る。ミコトたちの座るベンチの裏の線路に金属の擦れる高い音がした。振り向けば入り込んできた電車から、たくさんの人が降りてくる。
「電車に乗ったひと、みんな」
「覚えてる」
 問うでもなく、ぼんやりと呟いたミコトに、しかし返答はあった。
 気がつけばふたりとも後ろを向いて、ホームを歩く人の波を見つめていた。
 タイを締めた紳士や作業着の青年は足早に、かばんを背負った子どもは跳ねるように、腰を曲げた老婆は荷車を押して、どこかへと向かっていく。
 電車の車輪が張り上げる音、ひとのざわめき、ホームの屋根に座る鳥の唸り。
 ミコトが初めて感じる『朝』だった。
「にんげんは、」
 肩から大きく振り向いているので、翅を遮るものは何もない。すこし濁った朝日を透かして、翡翠色の翅は、はたり、と、頼りなく揺れた。
「すごいんですね」
 そこには、まだミコト自身も理解していない、驚きと、恐れと、羨望と、悲しさが混ざっていた。
 少しばかり沈黙が続く。ミコトが今のことばが『人間』にとってはおかしなものだと気づき、訂正しようとしたのと同時、やわい、はものの声に遮られる。
「みんながそうじゃないだろうけど、すごいな」
 人間は。
 ベンチから立ち上がりながら、小さく落ちたことばには、ミコトと同じものが混ざっている。
 はがねがゆるやかに歪む。はがねはなにかを拒んでいた。
 ミコトの目の前に手のひらが差し出される。「学校」といわれて、顔を上げた。
 はがねはもう、拒んではいない。
「行こう」
「あの、ええと」
「トワ」
 たぶん、ミコトの知らないことばだった。
「とわ?」
 ゆっくり舌を動かしながら繰り返す。こくりと頷かれる。
「俺の名前。トワ・ソーマライア」
「トワ、トワさん」
 今度はしっかりと声に出す。目の前のこの人は、トワさん。名乗られたときには、名乗りを返す。
「わたしは、ミコトっていいます」
「知ってる」
 えっ?
 おそらく今日一番大きな声が出た。口をまるく開いたままトワを見返すが、悪びれた様子もなく、平然とミコトに手を差し出している。
 ミコトはまだ、ことばにも感情にも、何度か聞いた『一般常識』なるものにも自信がない。なので初めて会ったはずのトワが、今日からミコトが学校に行くことを知っているのも、別に驚くようなことではないのかもしれない。
 なので、
「そういうもの、なんですか」
 と返事をした。
 トワに手を取られ、ミコトはベンチから立ち上がる。ぴったりと目線を合わせて、トワはまた「そういうもの」と頷いた。妙に、力強かった。
 またベルが鳴って、ホームに電車が滑り込む。わずかな空気の流れを汲んだミコトの翅が、誘うように揺れた。