ダニエル 1

*BL/R-18

 目覚めはいつも濁りから始まる、と思う。
 傍らの熱が蠢く気配に重い瞼を持ち上げる。まだ明け切らぬ夜の端が薄衣のように視界を覆って、夢の曖昧に世界を溶かす。その真ん中でするり、するりと動く影ひとつ。しなやかに白い曲線を描いて、寝台の上で上体を起こすその背。顔は見えない。表情も感情も。ここから理解できるのはせいぜい、随分と若い肌に宿るはずの漲る野心が、あるいは瑞々しい生すら霧に霞むように酷く薄く見えるということだけ。
 カールは未だ夢の水際にいる。だから、そう、まだ朝の来ない世界ならば許されるだろうかと、白い背に揺れる赤毛を指先に絡め取った。くっと弱い手応え。無視されるかと思ったが、彼の背は未だ彼岸に留まっていた。
「……何です、お義父さん?」
 するりと指先から抜ける赤。若い獣の尾のように踊るそれが追従するのは、いつ獲物の喉笛を食い千切ってやろうかと油断なく窺う剣呑な獣に似た青年だった。けれど今は存外と静かに、平生の険すらも潜めて囁くように問うてくる。まるで頑是ない子どもに語りかけるかのように――頑是ないのも『子ども』なのも、そちらだろうに。カールは枕に埋もれながら、じっと己の娘婿を見つめ返した。
 振り返る白い裸身に、濁る薄藍にも鮮やかに赤い花弁が散っている。全て濃藍の底で自分が散らしたものだ。
 それらを惜しげもなく晒しながら薄く微笑む。夢とうつつの水際に遊んだものか、赤を逃して浮いたままになっているカールの手をそうっと掬い上げ、己の口元へと運んでいく。ちゅうとちいさな音を寝室に響かせて、濡れた感触は爪の先。続けて、指の節。付け根は悪戯に甘く噛んで、そして最後は手の甲へ。額ずけ、羽のように軽く触れる。
 まるで心の底からの敬愛のようだ。カールは内心で苦笑して、薄藍の世界に身を起こす。取られた手のひらを引けば婿殿の顔もゆっくりと持ち上がる。赤の前髪に透ける瞳が、少しばかり、朝露を孕んで濡れている。
 取り戻した指を伸ばし、まろい頬へと触れる。相変わらず拒絶はない。ひやりとした皮膚が少しだけ沈む。空色の瞳が夜明け前の薄闇に、眩しげに細められた。成程、と不思議に納得しながらカールは顔を伏せ、目を閉じる。膝下で寝台にかけられた布が蠢く気配。唇に、身を寄せてくる青年の唇が触れる。
「ん……」
「っふ、んく……ぁ、」
 滑らかなそれを舌でなぞれば、解けるようにするりと開かれる。誘い招かれるがまま忍び込み、差し出される舌を絡め取り、啜り上げる。ぐちゅぐちゅと水音が鳴り、薄目を開けば陶然として口づけを甘受する娘婿の顔。
 指で頬の稜線を辿り行き着いた耳朶を爪先で擽ればぴくりと跳ね上がる肢体。もう片方の腕で押さえ込むべく背骨を辿り、腰を掴む。もぞりと膝を擦り合わせる気配に合わせて唇を離し、先の悪戯の返礼とばかりに尾てい骨のあたりを強く押した。
「ひあ!?」
「……ああ、零れてしまったな」
 ぴんと青年の背が弓なりにしなる。更に奥まで指先を伸ばせば、ぷちゅんと微かな破裂音に粘ついた感触。藍色の蜜のような水底で散々にカールが苛んだそこは、カールが奥深くまで注いだ子種を零していた。持ち上げた指に絡まる白を娘婿の眼前に差し出せば、青年は目を眇めて頬をわずかばかり紅潮させる。またもぞりと、カールの膝頭に伝わる身を捩る気配。
 この赤い頬は決して羞恥からのものではない。予感に興奮しているのだと、そう理解できてしまう程度には身体を重ねてしまっている。現にもうほんの少し指を差し出すだけで、婿はそろりと口を開いた。薄く流れ出す夜の藍に、目が眩むような赤が射す。
 先ほどカールの絡め取っていた赤い舌を見せつけながら、青年は白を纏う舅の指を咥え込んだ。
「……っ」
「ん、ふ」
 ぬる、と舌先で白濁を絡め取る。己の後孔から漏れ零れたものだろうに躊躇いもなく、それだけでは終わらず、先ほどと同じように指の付け根まで飲み込まれた。温い口の中で少しだけ指を動かせば、んん、と鼻から抜ける声が漏れる。それでも指を吐き出すことはせず、試しに指先で口蓋を擽ってやれば薄く唇を開き眉根を寄せて喘ぐ。けれどカールの指を吐き出そうとはしない。指と唇の隙間から流れる唾液を顎から首筋まで伝わせて、裸の身体をもどかしげに震わせている。
 ゆっくりと指を引き抜く。甘えるように吸いつく舌を振りほどけばたらりと粘る唾液が溢れ、カールはまた指で掬い取った。再び指を婿の口に寄せれば緩慢ながらもまた舌で舐め取る。濡れた首筋がやわく隆起して、精液ごと唾液を飲み込んだのだと知れた。
 夜明け前の、薄い藍色の世界に白い身体が浮かび上がっている。汚れた口元と首筋は濡れて妖しく光り、常には険のある瞳もとろりと溶け落ちていた。薄く開いた唇からはこぼれ落ちそうな赤い舌が覗いていて、誘われるように手を伸ばす。顔を寄せる。
「……したいんですか?」
 引き寄せられるように押し倒せば重なった影の中で艶然と微笑む。覆い被さるカールの、剥き出しの左胸にぺたりと手のひらを重ね、あどけない子どものように。
 目が眩む。手慣れた娼婦のような表情と、幼子のような仕草。彼はいつもそうだ。どうしてこうなってしまったのか、寝台の上でもそうだがそれだけではなく。例えば彼が己の城で当主として振る舞うとき。あるいは議会の場で公爵として相対峙するとき。老獪で、悪童。相反する二面。
 両立するはずがない、と思える。その二面、二極。不安定な身体。手を伸ばせば呆気なく委ねられる。委ねられてしまう。
「朝が、きますよ」
 黙したまま動かない義父に、婿は微笑んで腕を伸ばす。確かめるように手のひら全体で顔を包まれる。
 ――朝がきて困るのは君だろう。
 カールは漠然とそう思う。思えばどれほど奥深くまで身体を重ねても、朝を共に迎えた記憶はない。始まりの、それでもどうしてこうなってしまったのか思い出せない夜明けには確かに気を失って眠る婿殿が傍らにいたが、それも彼の忠臣が起こさぬよう抱き上げて連れ戻してしまった。だから目的も意味も見えない夜の底について、光の中で言葉を交わしたことはない。交わさないものだと思っていた。
 自分でも腑に落ちない憤りを覚える。もう一度を求めれば、この子は同じように微笑んで頷くのだろうか。頷かないのであれば何故したいのか、などと問う。何故カールの差し出す指を飲み込む。何故、口づけを受け入れる?
 疑問は尽きず、けれどどれもこれも今更だと嘲笑する自分もいる。まだ薄く引き延ばされる夜明けの藍に手を伸ばす。答えないまま、カールは婿の身体を開いていく。肉付きが薄く引き締まった、そのくせ触れれば吸いつくような腿を割り、子種を薄く垂れ流すあわいを露わにする。夜明け前の暗さにも鮮やかに赤く染まり、ぽったりと少しだけ腫れて盛り上がる肉の縁。濡れ零れる白。
 おとうさん、と掠れた声が囁いた。夜の熱を残しながらあどけなく。一度呼んだきり、後はじっと息を詰めてこちらを見上げている。晒されたままの慎ましやかなはずの場所が静かな呼吸に合わせて、ひくり、くぱりと開閉を繰り返している。
 目の奥に熱が射す。それは深い藍色の底の劣情であり、あるいは昼日中の天高く注ぐ光でもあった。身動ぎもせず待つだけの婿の手首を寝台に縫い止め、額と額を合わせた。
 じっと、空色の瞳は見上げるだけ。底の底まで見透かすようにカールの翠瞳を覗き込んで、それだけ。
 次を選ぶのは貴方だと、自分は何も選ばせてはいないのだとでも言うように。
 その無責任で何の情もない無言の雄弁に、ほんの少し罅を入れてやりたい。そう思ったのは傲慢か、子ども染みた悋気か。娘婿と義父。形の上での皇帝と臣下。政の敵。自分たちの関係にそれ以外はないのだと、夜の水底を夢のように封じて昼の陽の下では対峙していたはずなのに。
 引いていく水際に、踏み込む。ばしゃりと悲鳴のように水面がうねる。対してカールの仕草は酷く静かで丁寧で、まるで死者を送る悼みに似ていた。
「君の初めては、誰だ?」
 睦言を囁く仕草で、形のよい婿の耳に吹き込んだ。
 ぴくりと、押さえた手首が震える。それだけで溜飲の下がるような思いがした。同時にじわじわと自己嫌悪が這い上る。
 今まで一度も問うたことはない。夜に舅と婿が身体を重ねる意味を。初めての晩、あどけなく腕を引いて話を乞うてきた少年が突如として口づけ押し倒してきた理由も。そう多くない機会のうち、顔を合わせる宵があるならば惜しむように幾度となく逢瀬を続ける目的も。
 問うてしまえばカールは己の責を受け止めることになる。いくら婿殿から始めたこととはいえ、受け入れてしまったのは自分なのだ。拒まなかったのも自分だ。被害者側でいられる卑怯な立場を崩したくなかったのだとすら思える。
 その保身すら、この夜明けの水際は超えた。
 けれどまだ踏ん切りをつけられないでいる。自嘲する。正しく口にするべきは、例えばこんなことはやめるべきだと拒絶すること。あるいはどうしてこんなことを続けるのかと今までを清算すること。
 なのにカールが口にしたのは、男を受け入れる青年の身体を暴く言葉だった。
 理由の見えない始まりの夜、始めたのはまだ少年と呼んで差し支えない頃の婿だった。カールにはその気がないどころかそんな発想もなく、だから全てを受け身でありながら進めたのは少年だった彼。今よりも随分細く頼りない身体で、彼は薄い腹の裡に雄を受け入れる術を知っていた。
 細い手首から片手を離し、己の顔を覆う。奥歯を噛む。どうしようもなく愚かな男に苛立って。
 するりと、その手を取られた。自由になったばかりの青年の手は離れていった男の手を掴み、己の頬にぺたりと添わせる。既に、まるでいつもの閨のように微笑を浮かべている。
「嫉妬ですか?」
「そうかも知れない」
 揶揄する響きに率直に返す。
 そうだ、こんなのは本当に悋気そのものだ。この期に及んで、まだ幼かったこの子の身体を初めて開いたのは誰なのか、そんな愚問を浮かべてあまつさえ本人にぶつけている。
 一瞬、婿は息を止めたようだった。次の瞬間、春に花が開くように笑い声を零す。
 婿殿、と呻くように呼べば、取られたままの手のひらに口づけられた。触れて離れるだけのそれに夜の温度はもうない。ただ純粋な敬愛をゆるく手のうちに握り締める。
「……朝がきますから」
 やわく押しのけられて、カールは大人しく身を引いた。夜の痕を存分に残す身体を見せつけて、それでも薄く引き摺る藍色を振り払って青年は身を起こし、寝台から下りる。吸い上げて残した鬱血もゆるく食らいついた歯形も、内腿に伝う白濁すら冗談に見える。獣の尾のように赤毛をたゆませ、寝台に残るカールを振り返る生の漲るしなやかな肢体。鷹の城の若き王。
 その瞳の端に少しだけ感傷が残っている様を、カールは確かに認めた。
「おとうさん」
「……?」
「俺の、初めてですよ」
 少し、意味を図りかねる。
 言葉の裏を読むのは得意な方だと自負している。詩的なものでも、悪意の潜むものでも同様に。相手が老獪な悪童たる婿であれそれは例外ではない。
 けれどこのときは、すぐには理解できなかった。
 思えば――理解できなかったのではない。理解を拒んだのだ。
 婿殿はまるで子を抱える母のような、ぞっとする仕草で己の薄い腹をつっと撫でた。
「……今は少しだけ、貴方ならよかったのに。そう思います」
 跳ねるように繋がらない言葉を、一つ一つ拾い上げる。何が、誰が、あるいは誰が誰なのか。
 上手く纏まらない内に、婿はそのあたりに落ちていた衣服を雑に身につけ始める。薄藍が引いて、朝の陸が見え始める。次に振り向いた青年は間違いなく若き当主であり、そしてカールの娘婿だった。
「義父上はもう少しお休みください。朝の支度にはヨハンをやります」
「……気遣いなく」
 夜の色の残る身体を服の中に押し込み、婿は微笑んで一礼する。踵を返せば肩に引っ掛けただけの外套の背に双頭の鷲を広げ、青白く光る石壁に朝の気配だけを残して婿は夜の熱の残る部屋を出た。
 後に残されたのは寝台の上のカールと、そして未だ蟠る蜜のような夜の藍。
 シーツの皺に残るそれを指先で辿りながら、義父たる男は言葉を振り返る。
 貴方ならよかった。初めて。おとうさん。――おとうさん?
 呼びかける言葉だと思った。お義父さん、と。彼だけが呼ぶ響き。彼の妻の父だからこそ呼ばれうる義理の関係。けれど彼にはもう一人、そう呼びうる相手がいる。即ち義理ではなく、本当に血を通わせる唯一の敬愛する相手。彼の父親。
 もしもカールを呼んだのではなく、彼の人を口にしていたのだとしたら。初めて、を指していたのだとしたら。
「――アルブレヒト賢公?」
 無意識に拒否した理解に辿り着いてしまう。
 始まりの夜、まだ取り戻せたはずの和やかな晩餐に、カールと息子を困ったように微笑んで見送っていた。穏やかで聡明なその人。
 今は亡き彼の人の微笑に、先ほど婿の見せた腹を撫でる仕草が重なる。まるで悪夢のようだと目が眩むが、少しずつ差し込む朝の光が確かな現実をカールに伝えていた。
18/2/12