朝未き
母の日/刻と瑠璃と火群/トウジンカグラ前日譚
不意に目が覚めた。見上げた天井は仄青く暗い。橙が照り返していないことからして燈台の灯ももう燃え尽きて消えているようだった。
まだ起床には早い。しかし妙に意識が冴え始めている。目を閉じてしまえば直に眠りに落ちるだろうが、水でも飲むかとひとまず寝台で身を捩った。
ひっそりと湿った熱の倦んでいる右側。まるく弧を描く背中。風呂上がりには学んだようだが、何度言っても事後調えることなく眠りに落ちる身体は裸身を晒している。闇にも染まらぬ枯れ野の髪は汗濡れていつもよりもくたりとしていた。その向こうには常の通り、きつく抱き込まれた刀の柄が覗いている。それから、小柄な影も。董女の誰かか、火急の用か。急速に覚醒するがままに瞬いて、
「……――しゅッ、」
一気に目が覚めた。渇いた喉に言葉が貼りついて引き攣る。その隙間をちょんと突くように、ちいさな指がそっと、ちいさな唇の前に立てられる。しいという音は清かに、湿り気の僅かに澱む閨に解けた。
思わず口元を押さえながら、刻は密かに、しかしながら迅速に身を起こす。刻の隣でまるくなる男――火群は身動ぎすらせず眠り続けていて、そしてその傍らの影はじっと刻を見上げている。多少床の高さがあるとはいえ、互いに座っていても彼女は見上げる格好になる。このヒノモトで誰もが傅き額ずく存在は、しかしながらどこまでもちいさな少女の姿をしていた。
「起こしてしまったか。すまんな」
「いえ、大事ございません、が……」
昼には朗々と響いて大広間を満たすべき声は、今は静かに夜の底を撫でている。半端に開かれた障子から零れる星影を背負い、少女――瑠璃は淡く笑みを浮かべているようだった。床の上で居住まいを正そうとすれば、大儀そうにちいさな手が振られた。
「よい。夜這いをかけたのは妾ゆえな」
「よ、ば……主上っ」
お戯れを、などと続けようとして、刻は口を噤んだ。寝乱れた寝衣で畏まっても意味はないし、尊い御身の鈴を転がすような声音で紡がれた言葉は大概体裁が悪いし、傍らに事後そのままの火群を転がしている時点でその言葉に反駁する余地もない。正しくは夜這いではないのだが、行為の行き着く先は同じだ。
一体どんな顔になっているのか、自ら確かめる術もないが刻を瑠璃はちいさく声を漏らして笑っている。そのまま機嫌良さそうに眼下へと視線を注いだ。伏せられた少女の睫毛は夜目にも長い。ちいさな指が湿った枯れ野の髪へと伸びる。
「いつも面倒をかけるな」
「……いえ」
昼であれば伸びた時点で叩き落とすか退くかされる尊い指は、野放図に伸びた髪を静かに撫でている。その所作は慈愛を湛えていて、刻には苦い。
あの指が、手つきが、誰のものであるのか。幼子のように撫でられる相手が誰なのか。面倒、と労わられる行為の正しさは、道義は、それは誰が始めたことなのか。
流れた沈黙は暫し、あるいは瞬きの程度に。少なくとも少女の背の向こうに広がる星辰は変わっていないように見える程度の間。存分に火群を撫で愛でた瑠璃の視線がつうと横に滑る。
「隣の房は今宵も空か」
「……そのようです」
相変わらずの慈愛と、そして今度は憂いを滲ませた声。それでも少女は淡く微笑んでいる。
刻の隣の房は、刻と同じ地位の、あるいは刻よりも上位の者に充てられている。祭玖衆筆頭、飾。刻にとっては年若い頃から肩を並べてきた親友とも呼べる相手――呼べた相手だが、今は随分と遠い。立場が、あるいは距離が、何よりもその思想が。
少女を見つめる。隣の房の男のことも、そして刻の隣で眠る男とのことも、本当はどう考えているのか、刻には知る由もない。彼女は常にただ微笑み、堂々と振る舞い、為すべきを為している。己の役割と望まれる立場に忠実に。
果たして、彼女の意思はどこにあるのか。自分たちは彼女に、どれほどのものを背負わせているのだろうか。
「刻」
「は」
凛と鈴音が転がる。聞こえた瞬間に背筋が伸びるのは随分昔からの癖だ。少女はちいさな手で刻を招いている。
火群は起こさぬよう静かに、寝乱れた床の上を迂回していざり寄る。傍寄る無礼に頭を垂れれば、図ったように微かな重みが乗せられた。
「主上、」
「案ずるな。わたしは幸せだよ」
お前たちがいて。付け足された言葉は甘やかに、舌足らずに解けていた。
立場もない、ただ見た目通りの幼子であれば。今、刻の頭をゆるく撫でる掌を受けるに相応しい年頃の、無垢な少女でしかないはずだろうに。
けれど刻は、ああ、この慰撫を求めていたのだと。幼い少女の所作に、遠い昔の敬愛を見つけて安堵してしまう。それは酷く残酷なことだと自覚しているのに、どうしようもなく。
視界がぼやけている。暗がりで頭を垂れたまま、輪郭を溶かす視界には先の位置からでは見えなかった火群の寝顔が映り込む。業を集めて鍛え上げられた呪わしい刀刃を抱き込み、赤子のように身をまるめて眠る姿。晒した裸身に行為の名残を纏いながら、猥雑な狂乱など知らぬげに無垢に、幼子然として横たわり黄金の瞳を閉ざしている。その姿が更に、淡く滲んで夜に沈んでいく。脳裏にはまともに言葉を交すこともなくなった、隣の房の男の背が閃いて消える。
俺は、俺たちは、何を。その嘆きすら受け止める少女のちいさくやわらかな掌に頭を預け、刻は微かに震える息を吐く。
ああ。誰か。俺たちの罪を、暴いて、止めて、救ってくれ、どうか。
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