日記

30dayうちの子語りchallenge 30日目/氷雨/トウジンカグラ逍遥編-咆吼編



 帰ったぞ、と部屋に踏み入れば、がささっ! だか、しゅば! だか、とにかく妙に忙しない音がする。不審の目を向ければ開け放たれた窓と文机を背に氷雨を振り返る男が一人。一緒に残していたはずのシロの姿はない。代わりに墨の匂いが薄くわだかまっている。
「……どうした」
「……別に」
 うろうろと視線が彷徨う。後ろ手をもそもそと動かして男は酷く落ち着きがない。シロの姿が見えないことも含めて問い質したいところだが、氷雨は何を言うでもなく腰を落ち着けた。男の向かいでも隣でもなく、随分と間を空けたところに。荷を下ろして買い集めてきたものを検分する体で密かに男を窺う。
 シロがいなければ今の氷雨はこの男と会話すらままならない。顔を合わせれば激昂するか立ち去るかされていた頃の方がまだましだと思うほどには身の置き所がなかった。図らずも男の在り方を暴いてしまって以降、彼が自身と自身に纏わる全てに対して何を思っているのか確かめてもいないし、そもそも氷雨はずっと、今の彼の名を呼んですらいないのだ。呼んだのは一度きり、紅蓮に囚われていた彼の手を掴んで、引きずり戻した時だけ。あとは、未だ。
 胸裡の躊躇を撫でるように、開かれた窓から風が入り込む。墨の匂いが濃く鼻先を掠めた、と思った瞬間、ごわついた感覚と共に視界が遮られる。
「あっ」
 焦燥の声が聞こえた。
「ぶっ! 何、」
 氷雨は反射的に顔を覆うものを掴む。くしゃりと皺の寄るそれは料紙だった。半端な長さで千切られたと思しきそれは瑞々しい墨の匂いを纏って、白い紙面に文字を躍らせている。文字通り、躍るような、震えるような、文字。
 また、がささっ! だか、しゅば! だか、焦燥の滲む音がする。紙面から顔を上げれば影が差す。煤色の袖が横切って、咄嗟に氷雨は仰け反った。ぐしゃりと料紙が皺を増やした。
「それ、返せ」
 氷雨が不自然に空けていた空間が埋まっている。自ら躙り寄ってきた男はぎゅうと眉間を寄せて身を乗り出していた。男の伸ばした手は氷雨の手にした紙に伸びている。黄金の、稲穂色の瞳には目を丸くする氷雨が映っている。――それだけで。
 氷雨は胸の奥にこみ上げてくる何かを、浅く唇を噛んで抑え込んだ。男が掴もうとしたものを逆に遠ざけたのは思うところがあったわけではなく重ねて咄嗟のことで、しかし男からすれば嫌がらせだと思ったのかも知れない。氷雨を閉じ込める稲穂の海がぎゅっと眇められた。覆い隠すように料紙の裾が閃いて、横切る。随分皺が寄ってしまった紙面に、細い字が躍っている。
 それは震えて縮こまって、けれど紙面の端に進むほどに怖々とその身を伸ばしていた。まるで歩き始めの幼子のような、頼りなくて、けれどやわらかな字だった。それらしい形で最後に立ち上がるその三つの文字を、氷雨は意図せず読み上げた。
「ほ、む、ら」
「ッ!」
 穂波がさざめく。
 黄金に映った氷雨が瞬いた。男は眇めていた瞳を見開いて、怒ったような、迷ったような、泣き始めるような笑い始めるような、奇妙な顔をしていた。
 ぱたりと、文字を乗せた紙が身を横たえる。生きた墨の匂いを纏ってくたりと氷雨の膝の上で、ゆるく皺だらけになりながら。
「お前が、書いたのか」
「……下手だって言いてェんだろ」
 ゆらゆらと黄金が揺蕩って、そっと氷雨を追い出した。伏し目がちに氷雨から顔を背ける男が、文字と同じように震えて見えた。
 ちいさく氷雨の指が跳ねる。けれど望むところになど進めず、代わりに膝の上の紙に触れる。乾きかけの墨を乗せてやわらかい、氷雨の無遠慮で皺を刻んでしまったそれ。線と形にならない塊から徐々に文字へと整ってゆく、墨の軌跡。
 随分と昔に氷雨が与えて、呼んだ、音。名前。大切な、命の輪郭。すべての始まり。
「いや、」
 男へと未だ伸ばすことのできない指を滑らせた。乾きかけの墨がどこか温かく触れ、甘く匂い立つ。そっと撫でて、辿る。
「……いいと、思う」
 好きだとか、愛おしいとか。
 言いたいような、けれど違う気もする。こみ上げるこの想いを何と言葉にすればいいのか、氷雨にはわからない。
 戸惑いごと吐き出せば、結局曖昧なものにしかならない。氷雨は男の文字よりも巧みに筆を滑らせる自信はあるが、今は何の役にも立たなかった。
 不自由な言葉の代わりにせめてと、紙面から男へ氷雨は視線を注ぐ。そこに茜さす君の、穏やかな穂の群れを見るまであと少し。
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