4話



 それは悲鳴に相違なかった。
 誰のものかは定かではない。気がついたら眼前に蒼が迫っている。床を蹴り抜刀したのだと火群は遅れて知覚する。
 手中の紅蓮が常よりも重く、熱く、奔る。そのまま脳天から叩き斬る勢いで、けれど散ったのは鮮血ではなく閃光だった。天が砕けたように蒼が散り、光が零れる。何より、音が。
 火花が散るほどの衝撃に、酷く澄んだ悲鳴が上がる。鋼が震える。空気が震える。
 震えて、広がる、触れる、交わる。還ってくる。火群の鼓膜を叩いて脳髄を揺らす。裡に入り込んでくる。
 ――まるで、凪いだ水面に雫をひとつ落とすような。
 ――あるいは、童が転がす鈴のような。
 ――もしくは、比翼の鳥が囁くような。
 ――それは間違いなく、鋼と鋼の交歓だった。
 跪く男の眼前にひと振り。上段から渾身の力で以て振り下ろされた紅蓮の赫赤たるを照り返す鋼。それは抜けるほどに高く遠い、空の色を封じている。
 そして空の向こうには、深い藍を湛えた瞳が瞠られていた。
 一対の鋼が互いの身に食らいつく。あるいは犯し、あるいは呑み込み、けれどぎりぎりとせめぎ合って、天の欠片をほろほろと零していく。剣戟の閃光を散らす濃藍には、ただ一人、紅蓮を振り下ろして拮抗する火群が、男と同じく瞠られた瞳の黄金色が映っている。
「お、前ッ!」
 焦燥か、怒りか。歯噛みの音と共に男の唇から掠れた低音が零れる。同時に、火群の視界が急速に揺らぐ。
 跪く姿勢から、ほとんど無理矢理押し上げるようにして男が刀を払い、立ち上がる。噛み合っていた鋼が解けて閃光と共に刀刃が滑る。振り払われるまにまに火群の身体がぐるりと宙を舞った。刀を構えて火群を見据える男から精緻に飾られ編まれた天井の木目、朱塗りの庇から空へと、視界が移り変わっていく。逆さになった七宝の町並みが遠く霞んで見える。浮遊感。落下する感覚。
 ぞっと、腹の底が急速に冷えていく。
 耳の奥に甘く残響する鋼の音が掻き消えた。代わりに火群を呑み下すがごとく唸る風音に包まれて、轟轟と響くそれに火群の身体中の血も逆さに流れて引いていく。氷を呑んだように冷えた腹の底に反して、目の奥が燃えるように熱く、赤く染まっていく。
 眉間に力を込めて身体を捩る。足裏が縁台の欄干に触れた、認識するよりも早く七宝の町並みに、広がる空に背を向けて欄干を蹴る。腹の底の冷感と目の奥の熱感が混ざり合い均される、火群は未だに重く熱く逸る紅蓮を構え勢いのまにまに男に迫った。即座に鋼の交歓が始まる。高く低く澄んでは悲鳴が響く。
 打ち込むのは火群の紅蓮だった。鋼と鋼が触れ合う度に雫が弾け、鈴が揺れ、鳥が囀る。音が謳う。火花が生まれては散っていく。空を閉じ込めた刀刃が紅蓮を受け流す度に火群は打ち込む角度を、位置を、高さを変え、時に宙を舞うほどに跳躍し時に地を這うがごとく身を沈めては絶え間なく澄んだ音を響かせる。
 悲鳴は最早嬌声めいて輪唱している。手数を重ねるほどに加速する身体に反して、火群の思考は冷たく熱を帯びていく。
 紅蓮であれば並大抵の刀を砕くことができる。火群自身、あわよくばそのつもりで紅蓮を振るっている。だというのに、熱く重く逸っては熾る紅蓮を受けても男の刀は軋みもしない。ただ受けては流し、捌いていく。男の立ち位置も真っ直ぐに火群を見据える背筋も、何合斬り結ぼうと揺るぎない。死角すら狙って繰り出される紅蓮をも男は過たず受け止めていた。
 攻め込んでいるのは火群のはずなのに、ただ受け流す男に追い詰められているような錯覚すらあった。
 澄んだ悲鳴の向こうに、その男の顔がある。
 短羽織に袴姿の、籠手と脛当てをつけた男。腰には鞘が差されている。短い黒髪を結い上げて、そして何よりも深い藍の瞳が強い。どう跳躍し回り込もうとも白皙は確実に火群を追い、その瞳に真っ直ぐに映し込んで捕らえる。その鏡像も交差する鋼に、閃く火花に阻まれて散る。消える。
 深い藍の中の火群が、消える。
 一際高く、紅蓮が悲鳴を上げた。
「っああああ――!!」
 赫赤の鋼が震える。刀身に閉じ込められた炎の赤がうねり、荒れ狂う。手にした紅蓮の熱は火群の身体を灼いて、紅蓮のいかりに押し出された声は掠れていた。目の奥まで犯す熱に視界が赤く染まっていく。
 只管に火群を捕らえ続けていた男の濃藍の瞳が瞠られ、須臾の間に細められた。
「! お前、――」
 男が何事かを小さく叫んだ。受け流すばかりだった刀刃が上段に構えられ、同時に紅蓮の放つ熱がちりりと、端から冷えていく。空を閉じ込めた鋼は冴え冴えと光を湛えて、そんな男の刀刃に呼応するように紅蓮が熱気を増していく。冷気と熱波は絡み合い縺れ合い、生々しくもまぐわっているようだった。手中の柄を強く握れば焔で舐め尽くすように紅蓮が熱を吐く。同じだけ空の高きに呑み込まれ、犯される。今の紅蓮の放つ熱量では、空を封じる刀刃の蹂躙にはまだ足りない。
 嗚呼、もしも紅蓮が本当の姿であったなら!
 頭の片隅を焦がすもどかしさと苛立ちをも振り切り置き去りにして、火群も上段に振りかぶった姿勢で一際強く床を蹴った。
 刹那、
「――そこまで!」
 だぁんと、あまりに重い打音と声が典承殿に響き渡った。
 重ねてぎしり、みしりと、軋む音がする。
 それは天から落ちる見えない巨大な手のひらが火群を押し潰す、あるいは無様に床に伏せた火群が抗う音だった。
 腕も肩も足も首も、指の先すら動かすことが叶わない。火群が起き上がろうと力を込めれば込めるだけ骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。握り締めたままの紅蓮はただの鉄塊に還ったかのように、先までの苛烈を冷やされ鈍い重みで火群の掌を押し潰すばかりだった。
 かは、と、首をもたげようとすれば圧迫された肺から息が漏れ、追い打ちのように更なる力が頭頂部を押さえつけてくる。それでも火群は抗うことを止めない。現状の元凶へと唯一自由になる眼球を動かす。狭められた気道から怒りを絞り出す。
「クッ……ソ、ババアッ……!!」
 視線の先では、女が火群を見下ろしていた。
 瑠璃は指先の一つも動かすことなく、御簾の向こうで静かに座し続けている。制止を吼え見えない何かで押し潰す女は床に伏す火群に冷たい視線を注ぎ、続く声もまた火群を煽る熱を奪うがごとく冴えていた。
「言うたとて無駄、とは言うたばかりだが、いきなり噛みつくほどの駄犬とまでは思うておらんかったな」
「ッるっせェ……!! 犬じゃ、ね――ッが!」
「しばらく黙っておれ。犬の不始末に片を付けるのも飼い主の務めゆえな」
 かひゅ、と喉が鳴る。首の根元から押さえつけるように更なる力が加わり、火群は頬を床に擦りつけるような格好で見えない何かに押し潰された。横倒しになった視界には『飼い主』などと嘯く女と、変わりなく居並び続ける面布を纏う少女と男たち、そして――片膝を突き、重々しく抜き身の刃先を下げる男が映っている。
 男は眉間に深く皺を刻んでいる。濃藍の瞳を眇め、視線は火群へ、あるいは男の背後の瑠璃へ、そして手中の刀刃へと巡っていく。そのこめかみにはひと筋の汗が伝い落ち、刀を握る腕は微かに震えていた。
「妾の駄犬がすまぬなあ、氷雨殿」
 火群へ向ける冷徹とは打って変わって、女は淡く眉を下げた。苦笑すら浮かべている。
 対して名を呼ばれた男は物々しい空気もそのままに、肩だけでぎこちなく女を振り返った。刀刃は抜き身のまま、切っ先を重く下げて。
 恐らくこの男、否、あの刀は――床に押しつけられたままの火群と同じだ。
 瑠璃の見えない何かに押さえつけられ、身動きが取れない空色の刀刃。床に伏した火群からは未だに震え続ける男の両の手が、刀の柄がよく見えている。
「こちらの手落ちではあるが、妾の顔に免じて今は納めてくれんか」
 慮外の力を以て制圧する女は、いっそ朗らかなまでの声でそう告げた。
 口調は頼みにするものだが、他の答えなど許すまい。そもそも空を封じ込めたあの得体の知れないひと振りを抑えている以上、男にも選択肢はないだろう。
 氷雨なる男は目端で瑠璃と切っ先の落ちた刀を見比べ、やがて緩やかに息を吐いた。
「……元より、御前で抜刀する無礼を働いたのは私です。今上様にお許しとお収めを頂けるのであれば異論などございません」
「うむ。そう言うてもらえると助かる」
 氷雨の返答に、瑠璃は微笑を湛えてちいさく頷いた。
 途端、がくりと男の腕が下がる。そう見えたのも刹那のことで、失態などなかったかのように男はゆっくりと立ち上がった。紅蓮の全てを捌ききった軽やかさを見せつけるように空色の煌めきを曳き、瞬きの間に腰の鞘へと刀刃を納める。
 ちん、という澄んだ音と同時、男は再度座して顔を伏せた。硨磲と真珠に連れられ現れたときと全く同じ、拝謁の姿勢である。
 ――まるでつい先ほどの、火群との斬り合いなどなかったかのように。
 ちりりと。
 男の刀刃、あるいは瑠璃によって冷まされた熱が再び火群の中に熾る。
 腹の底に、喉に、目の奥に、またちりりちりりと熱が熾る。臓腑を突き上げて口から零れる息が熱い。
 座して尚真っ直ぐに伸び、そして火群を一顧だにしない男の背に視線は吸い寄せられていく。みしみしと、無様に床に押さえつけられたままの身体が、どこかが、軋みを上げる。
 声にならない悲鳴。掻き消すように、穏やかな女の声。
「面を上げよ、氷雨殿。どうか楽に」
 男の後ろ頭がすっと、静かにもたげられる。
 背後で無様に伏す男など、初めからいなかったかのように。その背はどうしたって床に這う火群を顧みない。凛と真っ直ぐに伸びて、正しさの塊のように。
「遠路遥々の末にまだかと思われるであろうが、少々時間を貰えぬか」
 好漢そのものの男の居住まいに、瑠璃は撫でるようなやわい口調で問う。男は応えるべくちいさく息を吸い、
「――その場で即躾けんと犬にはわからぬゆえな」
 しかしながら男の吐息が言葉を象るよりも先に、女の声が硬質に急速に遠ざかった。
 ぎゅうと、火群の喉が獣めいた音を漏らす。
 見えない何かに喉を掴まれ、微かの浮遊を知覚する間もなく叩きつけられる。火群の身体は出来の悪い人形のようにめちゃくちゃに床を滑り打ち付けられ、出鱈目な打音を散々に上げてから何かに当たって止まった。押し潰される格好のまにまに喉が反る。視界には黒と赤で組み上げられた典承殿の庇の端っこと、そして呑気に鰯雲の泳ぐ高い空が広がっている。天から麗らかに注ぐ陽光に刺し貫かれ、狭められた気道を抜ける吸気が、ひゅうっとか細く喉を裂いた。
 見えない何かに押し出された火群の身体は縁台に、先ほど男に斬りかかる最中に足裏で蹴った欄干に押しつけられている。
「お゛げ、ッ――」
 随分と遠くなった女へと、火群は辛うじて視線を向けた。更に押し潰される喉は潰れた蛙のような音を漏らし嘔吐を誘っている。
 これほど遠く離れても、瑠璃の視線は過つことなく冷たく火群に刺さっている。その手前では面を上げることを許された男が目を大きく目を瞠り、動揺を滲ませた顔で火群を振り返っていた。
 その瞳が何色をしているのか、今の火群にはよく見えない。
 ぴんと真っ直ぐ、正しさの塊みたいに伸びていた背筋が少しばかり歪んでいるような気がする、それに微かに溜飲が下がる、ような気がする。思考も呼吸も腹の底から背筋へ這い上がり喉でわだかまる得体の知れない何かに遮られていて曖昧だった。
 薄れ、散逸する思考の中、それでも唯一鮮明に視界に佇むものが見える。無造作に叩きつけられる最中、手中を離れ置き去りになった紅蓮が静かな熾りを宿して抜き身を晒していた。
 頭上には届きもしない空が、背後には端が霞むほど遠い町並みが広がっている。掌は空っぽで、熾りが、熱が、重みが、紅蓮があまりにも離れている。
 身体の内側のどこかにある虚ろが広がって、背中からずるりずるりと火群を引きずり込もうとしている。塞がれる気道に視界すら暗く狭まって、かたかたとちいさく身体が震えていることに火群は気づいていない。
 瑠璃が少しでも翻意すれば。
 欄干で引っかかっているだけの火群の身体など容易くこの空へ、遠い地上へ落とされる。
「火群」
 ひゅう、ひゅうと風が抜ける。火群の細い喉を空気が辛うじて渡っていく。
 胃の底が震える。腹に、胸に、身体の中に収まる臓腑の全てが浮き上がる。薄く開いたままの火群の唇からは粘ついた涎と、げぇ、おぇえと、汚く濁った声が漏れていた。
「火群。わかるな」
 凛と鮮明に。瑠璃の声が響いた。
 秋風の吹き抜ける、あるいは鼓膜の奥で血潮が流れ落ちていく音。急速に奈落へ向かうその音を退けて、瑠璃の声は火群の思考を静かに揺さぶる。距離をも厭わぬ女の低い声はまるで脳みそに手を差し入れて掻き回すようで、それでも火群の背を苛む不快感よりは遥かにましだった。
 火群は喉を押さえ込まれた姿勢のまま、それでも不格好に頷いた。
 実際は前髪が揺れたか否か程度の所作だっただろう。そもそも女が何を念押しているのかもわからない。ただ現状から脱するにはこうするしかないのだという、本能的な動きでしかなかった。
 暗がる視界には蒼も藍も濃淡もない、平坦で虚ろな空だけが映っている。空っぽの手はすうすうしている。
 ――嗚呼、自分は何も持ってはいないのだ。
 虚ろに苛まれ、ひとり身体を震わせながら。
 火群はただ、そんな場違いなことばかり考えていた。
「――ならばよい」
 冷徹から温情へ。ひらりと、瑠璃の声が翻る。
 同時に、急速に空気がなだれ込んでくる。見えない圧から解かれた火群は喉と肺で暴れ狂う新鮮な空気にただただ喘いだ。自由を許された身体が自然と丸まり、げぇと呼気だか涎だかを吐き散らかす。びくんびくんと腹の底が震えて、唾液を吐き出す舌の根が痺れていく。手足が酷く冷たい。急速に明るむ視界では床の木目が濡れて霞んでいた。
 やがて吐き出すものがなくなり、火群はようよう目を瞬いた。げほ、と空咳を漏らしながら、冷えた手足を床に突いて身を起こす。背筋を舐る虚ろから逃げ出すようにべたり、べたり、這うようにして縁台を進む。蛞蝓なめくじのような鈍重で無様な進みだったが、ひとつ進むごとに空が、遠い地上が遠ざかる。はっと、犬のように息を吐く。何の慰めにもならない安堵が僅かに腹の底を撫でた。
 あとは、あと少しで。空っぽの手が、艶やかな飴色の木目に爪を立てる。
 置き去りのまま床に伏すひと振り。火群の、火群だけの刀刃。唯一の紅蓮。
 紅蓮さえ、紅蓮さえ掴めば。紅蓮がこの手にあれば構わない。紅蓮があればいい。紅蓮がないと。紅蓮、紅蓮。早く。紅蓮を。
 ――そうでないと、オレは。
 刺すような陽が注ぐ外から淡い影に包まれた大広間へと這い進めば、水が張ったように視界が滲んだ。
 その滲む視界に、藍色が揺れる。
 のろりと、顔を上げれば男がそこにいた。
 片膝を突いて、あのぴんと揺るがぬ背筋を僅かに丸めて火群を見下ろしている。影になった藍の瞳は酷く揺れていた。引き結ばれた唇を僅かに解き、荒く息を吐いてはまた呑み込む。やがて散々に震えた吐息が、ちいさく微かに曖昧に、言葉になって落ちてくる。
「……大丈夫、か」
「――ッ!!」
 この男の、目は。藍は。
 ばちりと、暗く染まる。ばちりと藍が瞬く。急速に遠ざかる。ひゅうと腹の底が浮き上がって、身体が落ちていく。抜け出したはずの場所へ。悲鳴が聞こえる。血潮が流れて零れて溢れてバラバラになって全部全部全部、
 ぬっと、手が差し出された。手甲を纏った、皮の厚い男の手のひら。子どもよりもずっと逞しい、大人の手。これが欲しい、あのとき掴んで掴めなかったこの手が、欲しい。
「触ンな!!」
 酷く甲高い打音が典承殿に響く。
 グチャグチャになっている。頭が腹の中が胸が呼吸が記憶が、思考が。全部全部、身体の端々まで崩れて離れてしまったかのように。唯一確かなことは氷雨という男の手を打ち払った自分の手にまだ熱があって、腕と、肩と、身体と、火群の意思と繋がっているということだけ。
 早く、確かめなければ。その一心で火群は肘と膝に力を込める。よろめきながら立ち上がって、急速に下肢へ流れ落ちる血に頭が眩んだが構わない。揺れるような頼りない足取りで一歩を踏み出す。
 惹かれるように、ちらりと。気がつけば目端が男を捉えている。
 氷雨は振り払われた手もそのままに、片膝を突いたまま微動だにしていなかった。藍の視線は何もなくなった眼前に張りついているのか、火群を振り仰ぎはしない。
 息を吐く。熾りが火群の裡から外へ流れていく。男を振り返ることをやめ、火群はようやく辿り着いた紅蓮を拾い上げた。指先に触れる熱、腕を下げる重みに安堵する。硬く柄を握りながら、やっと芯を戻しつつある足を踏み締める。男を振り返ることもなく、次に踏み出した一歩は随分と軽かった。
 火群は遠く放り捨てられていた鞘をも拾い、大広間の端へと歩を進める。玫瑰と瑪瑙の横を擦り抜けたのが随分と前のことのようだ。雲開殿から続く入り口近くの柱に背を預け、そのままずるずると座り込む、腕に紅蓮を抱き込んで鞘に頬を寄せる。
 目を伏せる。熾りを潜めた紅蓮の熱が、少しずつ火群の輪郭を繋いでいく。ようよう平生を取り戻す己の心音に耳をそばだて、火群はゆるゆると息を吐き出した。
「重ね重ねすまんなぁ、氷雨殿」
 瑠璃の声にぴくりと肩が跳ねた。
 薄く目を開く。火群の位置からでは御簾に隠れて朧気にしか見えないが、瑠璃は火群のことなど一顧だにしていないようだった。大広間にいさえすれば位置を咎められることはないらしい。瑠璃の代わりのように、遠く布越しの刻の視線を感じたが、火群は目を伏せてそれを追い出した。また息を吐いて、紅蓮の鞘に爪を立てる。
「……いえ。勝手をしたのは私ですので」
 低く答えた男は立ち上がり、元通り瑠璃へと相対する位置で腰を据える。その背筋はもう正しさそのもののようにぴんと伸びて、提げた刀が微かに音を立てた。愚直にもまた頭を垂れようとして瑠璃の手の一振りで遮られる。
 女は呆れと笑いを含んで口を開いた。
「これは妾の飼い犬でな。名を火群と言う」
「……――ほむら」
 ゆっくりと噛み締めるように、男が呟く。
 低音が甘く空気を振るわせた、そんな気がした。
 鼓膜が、震える。頭の芯、胸の奥、どこか、火群の身体の深いところにそうっと触れて、撫でる。
 誘われるようにゆるりと瞼が持ち上がった。気付いたのは藍深い瞳が真っ直ぐに火群の視線を受け止めたからだ。
 男がじいっと、火群を見ている。
 火群もただ呼吸を止めて、男――氷雨を見つめる。
 視線が絡まったのは刹那だった。藍を振り切るように火群は横を向き、代わりのように瑠璃の声が二人の間を埋めた。
「躾が全くなっておらんで恥ずかしい限りだがな。しかしこの七宝において、紅蓮を手にする資格があるのはこれしかおらん」
「……紅蓮とは?」
 甘い残響が懐疑の声に変わる。その硬質な響きに、火群は微かに視線を男へと戻す。
「そこな刀刃の名よ」
 瑠璃の答えを受けながら男はやはり火群を、正しくは火群の抱く紅蓮を見ていた。
 その視線は先までの藍とは異なり、冴え冴えと刺すような鋭さがある。その棘を手折るように女は陽気に満ちた声で説いた。
「七宝に伝わる、人外の業のひと振り、とでも言おうか。そなたが先ほど抜き振るうた、フジが受け継ぐ神剣と同じものと思うてもらえば早かろう」
 風が抜けるように微かな音が閃く。
 火群は男の腰、今は鞘に納められたひと振りを見つめる。火群の紅蓮を受け止め、刃のひとかけも毀すことのなかった鋼。炎の赤を閉じ込めた紅蓮とは異なり、空を封じ込めたような澄んだ鋼。そこいらの無頼者はもちろん、近衛の連中の帯びるそれとも圧倒的に格が違うと知れる業物。
 ぎちりと鈍い音が鳴る。指先が白むほどに紅蓮の鞘を握り、火群は眇めて男を、そのひと振りへ視線を注ぐ。
 ――神剣、同じもの? そんな紅蓮に並ぶような、紅蓮と同じく語られるようなものを火群は知らない。
 この世において紅蓮だけが、唯一で絶対のはずだ。
 だがしかし、知らないのは火群だけではなかった。
 氷雨はすうっと背筋を伸ばし、真っ直ぐに瑠璃を見据えながら口を開く。相変わらず嫌になるぐらい正しさを込めた姿と声で。
「我らがフジは斯様な妖刀、存じておりませんが」
 ぴくりと火群の身体が震える。呼応して紅蓮がちりりと鋼を鳴らす。
「――無論、其方らが知るはずもない」
 氷雨に答えたのは瑠璃ではない。
 瑠璃の御前に控えたまま、火群が現れようが斬りかかろうが沈黙を守っていた飾である。顔を覆う面布は小揺るぎもせず表情を隠し、しかしながら朗々と響く声は多分に威圧を含んでいる。それは紅蓮を妖刀と呼ばわり瑠璃に意見した氷雨のみならず、あるいは主上たる瑠璃すらも圧する強さだった。
「紅蓮はこの七宝宮にて奥深く祀られ秘されてきた、現人神たる帝の守護であり神威の象徴である。宮中でも一部の者しか知らん。ましてや其方ら俗人に詳らかにしたことなどこれまでにない」
「飾。そこまででよい」
 制止された飾はほんの微か、面布の裾も揺れない程度に首肯した。
「不躾にすまぬな。これは飾というて、妾と共に政を執る祭玖衆さいくしゅうの首席になる。こちらは次席の刻」
 女に視線で示され、刻の方は明確に首肯した。説かれた氷雨も硬く目礼を返すが面布を纏う刻にどの程度見えたかは定かでない。
 瑠璃は淡い笑みで氷雨の硬質を溶かすように言葉を重ねていく。
「蘊蓄由来はともかくとしてな。世に秘されし宮中の剣であると、そして唯一のつかが火群であると覚えてくれればよい」
 少女の指がゆるりと持ち上がり、くるり、くるりと中空に円を描く。軌跡を追うように宙に浮いた水の粒が集まり、いくつかの水球を生み出した。
 大きいものから小さなものまで、様々な大きさのそれは瑠璃の周りを離れて漂う。最も大きな珠は氷雨の前でくるくると回りながら浮き上がり、やがてその水面に何かを映し出す。男の眉がちいさく跳ねた。
「人の世よりも遥かに昔、フジの御山みやま天降あもりしひと振り。その神剣――名を蒼天そうてん
 高く響く刃鳴りを、剣戟に散る空の欠片を見る。
 今や鞘に納まり、仕い手と同じく黙するひと振り。火群の視線を遮るように男の眼前の水球がついと宙を泳ぐ。それは真っ直ぐに火群の前まで漂い、静かに制止した。
 そこには木々に囲まれた集落が映っている。宮中を除けばどこまでも平坦で整然とした造りの七宝とは違い、土地の傾斜や凹凸に添えるように家々が並んでいる。といっても、家屋は密に並ぶところもあればまばらにぽつりぽつりと建つものもあり、簡素な造りをしたものがほとんどだ。
 七宝とは全く似つかぬ、火群の知らない景色。ゆらりとうねる水面の世界の向こうに、横目でこちらを見つめる男の姿がある。その視線の僅かな剣呑に、これがフジなる土地なのかと薄く思い至った。
「天意の象徴たるその刀刃はフジの隠れ里にて、代々アメの一族が受け継いでいる。――と、まことしやかに囁かれるとは違うてな。紅蓮を知る者などこのヒノモトには我ら以外におらん」
 瑠璃の声と共に水球は遥か頭上へと昇っていった。高みへ至るがままに天井へと触れ、弾かれたように霧雨めいた水へと還っていく。
 刹那、煙る視界に男を捉える。氷雨はもう火群の方を見てはおらず、真っ直ぐに典承殿の奥を見据えていた。
「近頃、七宝の門を開けと羅城に迫る者、あるいは不当に七宝に入り込み凶刃を振るうならず者が増えておる」
 溜め息のように吐き出し、瑠璃は肘置きに片身を預けた。身を退く主人に代わり水球たちがくるくると周り、氷雨の、あるいは火群の前を行き交う。そこには昨晩火群に迫った男たち、あるいは昼に門前払いを食らわせた戦行列、はたまたもっと以前に火群が切り捨ててきた武士無頼が映っていた。
「その度にこの火群が紅蓮と共に出向いておるのだがな。何せ切りがない。あまつさえ宮中に、あるいは今上帝たる妾に天意なしなどと嘯く者までおる」
「宮中には精鋭の近衛府があるのでしょう。切りがないのであればそちらを頼みにしては?」
 冷めた氷雨の声。また答えるのは飾だった。
「数ではなく質の問題だ。天意を疑う者には天意で以て返さねばわからぬ。尤もそこな男では天意を語るにあまりに及ばぬが」
「飾」
 落ちた。
 瑠璃の制止と同時に、糸が切れたように全ての水球が床に落ちた。びしゃりと飛沫いたそれらは同時にただの水となり、磨き込まれた木目に染み入ることもなくじわりと広がっていく。その様を火群は無感動に見つめる。
 飾の物言いが火群を刺すのはいつものことである。そもそもテンイだのシンイだのシュゴだの、火群は一つも知らないし、何であれば今日初めて聞く言葉である。及ばぬなどと誹られたとて痛くも痒くもない。瑠璃が何を以て強く止めたのか、今度こそ明確に頭を垂れて黙る飾を眺めたところでわかるはずもなかった。
 恐らく瑠璃と相対する男も同じだろう。冷めた気を隠しもせず氷雨は瑠璃を見つめている。
「まあ、そういう訳でな。妾が直々にフジの里へ、アメの一族が当主殿へと遣いをやった本題だが、」
 取りなすように瑠璃は身を起こした。
「どうか我らに力を貸してはくれんか、氷雨殿」
 少女は両の手を合わせる。精緻な装飾の施されたゆったりとした袖に細い指は隠れるが、代わりに声が、視線が真摯を纏う。
「名高き蒼天が宮中に与するのであれば、妾らに天意なしと吠える連中も納得しよう。何、その神剣を振るうてくれと言うのではない。宮中に蒼天ありと知らしめてくれればそれでよい」
 少女の瞳はその名の通り、瑠璃のように深く静かに煌めきを湛えている。
 対する氷雨は静かに、藍の瞳を眇めていた。ぴんと伸びた背筋もそのままに、膝の上で握られた拳に微かな力が籠もる様を火群は黙して見つめる。
 ヒノモトで最も尊き女。それに答える男の声は低く、その背に途方もない重みを背負っているようだった。
「我らアメの一族、あるいはフジは、天より降りし神剣を受け継ぎ、守護する。これを任された唯一です。であれば例え今上帝の御言葉であろうとも、不用意に余所事に関わることは、」
「妾こそが七宝であり、七宝は妾である」
 男の身体が刹那強張る。重々しく続く声を遮る一声。
 それは最早少女の声ではない。取りなし、言い含め、棘を手折るようなやわらかさはどこにもなかった。
 氷雨が俄に目を細める。火群もじいと御簾の向こうを見据える。御前に控える飾と刻すら、居住まいを正しているように見えた。
 朗々と大広間を満たす声。決して重みのない少女の声でありながら、否を許さない強さに満ちている。これなるは七宝の国の頂きに坐し、ヒノモトを統べる今上帝。現人神たる少女――瑠璃の詔である。
「裏を返せば妾の力が直々に及ぶのは七宝まででしかない。であれば先のフジの景色は、妾のみが示したものではない。……氷雨殿であればわかるであろう?」
 徐々に圧を解いた女は、最後には少女の顔をして微笑んでみせた。対する男はぴくりと片眉を跳ねさせる。視線は刹那、腰に差した蒼天なる刀刃に絡んだようだった。
 この女は、七宝そのものである。
 火群ですらそれは理解している。この七宝において瑠璃に視えないものはなく、拾えない声はなく、森羅全て瑠璃の意のままであると。ならばこそ業腹にも火群は瑠璃に従うしかなく、刃向かうことは叶わない。
 先の一幕を思い出し、火群は紅蓮を抱える腕に力を込めた。腹の底が浮き上がるような不快を思い出し、ゆるく息を吐く。密やかな吐息の向こうで、氷雨はじっと瑠璃を見つめていた。
「そもそも其方とて、思惑があって七宝に赴いたのであろう。でなければ初めから妾の呼び立てに応じる必要がない。なれらフジは常に、今も昔もそうだ。なあ、氷雨よ?」
 沈黙があった。
 女は何かを含んで、天上から男を見つめている。
 男はただ真っ直ぐに背筋を伸ばし、藍深い目を眇めて女を見据えている。
 やがて空白の時間を崩したのは呼びかけられた男の方だった。
「……仰る通り、自分はこの七宝に果たすべきがあり御身の招聘に応じております。選ばれしのみが許されるこの七宝には能わぬと、早急に放逐されては困るのも事実です」
「うむ。正直で良い」
 女は鷹揚と頷いた。男は言葉を選んでいるのか、ゆるりと答えを紡いでいく。
「我らフジ、ひいてはアメの一族は、俗事に関与致しません。しかしながら蒼天を受け継ぐ俺という一人が、御身というただ一人に力を貸すというのであれば――多少の面目は立ちましょう」
「ならば妾の頼み、引き受けてくれるな」
 俗事との呼ばわりに触れることもなく、念を押す女の声。
 男はゆっくりと、殊更にゆっくりと――頷いた。
「神剣は宮中にあり、その意を示すのみ、と。その御言葉、相承知仕りました」
「うむ。其方の英断に感謝しよう」
 ちりりと。
 埋み火が熾る。火群はゆっくりと瞬いて、己の身体を見下ろした。
 蜘蛛の糸が絡むような、些細で、けれどもどうしても払えない不快。何を以て熾っているのか見当がつかない。ならば己ではなく紅蓮のものか。不思議に思って視線をやるが、腕の中の紅蓮は熱もなく沈黙している。
「七宝の滞在を許す。必要とあらば一時の宿として宮中の房を融通するが」
「いえ。城下に当てがあります」
「ならば所用の際は宮中へ赴くか、市中の近衛に頼むがよい。触れは出しておく。こちらからの用には董女を遣る」
 火群の違和感を置き去りに、女は居並ぶ少女たちを視線で示した。頷く男は俄に目を眇め、面布を纏う少女たちの一人ひとりを見つめている。
「其方がどこにおろうと、そこが七宝である限りはわかるゆえな。好きに過ごすとよい。尤も――当主殿は稀に、妾の視界から隠れてしまう・・・・・・・・・・・・ようだが」
「…………」
 含めるような瑠璃の物言いに、氷雨はただ黙っている。眺めるばかりの火群はしかし、飾が刹那ぴりりとした気配を発し、刻が微かに肩を揺らすのを見た。
 尤も、誰かがそれ以上の言及をするわけでもない。瑠璃は黙り込む氷雨に向けてただにこりと、まるで幼子を相手にするかのように微笑んだ。
「今日よりしばしの間、頼んだぞ。神剣の仕い手よ」
「――御意に」
 神剣の仕い手なる男は、折り目正しく平伏した。
 またちりりと、火群の中で何かが燻った。
 やがて壇上に控えていた金と銀が楚々と動く。丁寧に御簾を下げ、瑠璃の姿は見えなくなる。同時に大広間の外に控えていたのか、現れたときと同じように硨磲と真珠が氷雨に傍寄った。二人の少女に先導されるがまま男は立ち上がり、踵を返す。
 その瞬間、氷雨の視線は間違いなく火群にあった。
 紅蓮ではない。自分だ。火群はそう確信した。真っ直ぐに射貫いてくる藍深い瞳を見返し――それも刹那、火群は顔を逸らした。
 ――この男は、何だ。
 紅蓮に引きずられ斬りかかった衝動は、今は鳴りを潜めている。それでも胸の奥、あるいは腹の底、火群のどことも知れないうちがわで、ちりり、ちりりと微かな火が熾っている。視線を逸らしてもまだ、藍が火群の身体を絡め取っている。そんな気さえした。
 あの手が欲しい。そんなはずはない。火群はあんな男は知らない。
 男だけではない。神剣、同じもの、天意――蒼天。そんなものは知らない。紅蓮と並ぶものがあるなど知らない。紅蓮だけが唯一で、絶対だ。そのはずだ。火群には紅蓮さえあればいい。他には何もいらない。何も知らない。
 ――火群という男は、本当に、何も知らない。
「さて、火群」
 あまりにも近い声にはっとする。御簾の向こうに消えたはずの女が気付けば眼前に佇んでいた。
 距離を取ろうとするが背後は柱だった。身動ぐ程度しかできない。火群は座り込んだまま観念して、じとりと瑠璃を見据えた。心底おかしそうに女は笑う。
「そう睨むな。今更身構えたとて遅かろうに」
「るせェ、寄ンな」
「駄犬が人並みに考えごとに耽っていたようだが、さて。どう弁解してくれる気だ?」
「あァ?」
 火群が顔を背けた分、女が顔を寄せてくる。いっそ突き飛ばしてでも立ち去ってやろうかと火群が思い至ると同時の声に、思わず胡乱な視線を向けた。
「妾の客人に斬りかかるなどどういうつもりだ? と、訊いておる」
「っ……」
 僅かに身体が強張ったが、瑠璃は火群の顔を覗き込むだけだった。責めるに似た口調だが表情は常の通り、いけ好かない微笑を浮かべている。女の呼ばわる躾はあれだけで終わったらしい。
 短く息を吐き、火群は考える。どういうつもりだなどと詰問されたとて答えは決まっていた。
「知らねェ」
「ほう」
「身体が動いた。紅蓮がおこってた。そンだけだ」
「……ふむ」
 火群の答えに瑠璃は目を細める。しばしの間、瑠璃は透かすように火群の瞳を見つめ、やがてはあと息を吐いた。
「……語彙がないなあ、お前は」
「あ? ゴイって何だよ」
「よいよい、お前は知らぬともよい。ひとまずは聞いたとおりゆえな、今後はそのつもりで仲良う頼むぞ」
 瑠璃はゆるりと背筋を伸ばし、踵を返す。あまりにも遅々としたそれにしゃらりしゃなりと髪の飾りから幾重にも纏った薄衣の音が重なっていく。火群は瑠璃の言葉を図りかねたまま、ちいさなその姿を見つめていた。
「……そのつもりってなァどれだよ」
「うん? 次からお前を仕事に遣るときには氷雨殿もおるゆえな、という話だが?」
「は――」
 男の、藍深い視線が胸裡に蘇る。
 火群は息を止めて、吐いて、それから吸う。ここまで瞬き一つほどの間があって、しかし瑠璃は肩越しに火群を振り返った。
 貴石をはめ込んだような瞳が、ちかりと光を散らす。それはどうにも剣呑を孕み、そして続く声は決して否を許さない響きを曳いている。
わかるな・・・・、火群」
「――ッ、あ、あ」
 喉に絡む息苦しさと、腹の底を脅かす不快感。そして背筋を舐め上げる虚ろの怖気。
 刹那、乱れた呼吸に絡まる舌が、半ば火群の意思を離れて答える。その程度のことは見越しているだろうに、それでも女はにっこりと笑みを浮かべて口を開いた。
「ならばよい。今日は朝から大義であった。下がるがよいぞ」
「――」
 紅蓮を手に、火群は静かに立ち上がる。続いてぎちりと鳴ったのは手にした紅蓮か、鞘を掴む火群の指か、あるいは奥歯を噛む音か。
 気にくわない。何もかも。あの男も、あの刀も、この女も――何もかも!
 それでもこの身は女の言うがまま、為せと命じられたとおりに動くしかない。そんな己が何よりも腹立たしいのだ。
 枯れ野の髪を振り乱し、火群は足音も荒く飴色の床を踏む。笑みを湛えた瑠璃の視線を背に感じれば紅蓮を握る手が力を込めるあまりに震えた。大広間を背に、未だに同じ場所に留まる玫瑰と瑪瑙も無視して足音を響かせながら階段を下りていく。
 高いところは好かない。典承殿を辞した火群は過ぎる嘔気に歯噛みしながら、雲開殿へ、更にその下の階へと宮中を下っていった。


「――さて、其方らはどう見た」
 着重ねた単はあまりにも重い。
 瑠璃は自らの足で進むのを早々に諦め、瞬きの一つで壇上の御椅子へと戻った。ついと指を振ればしゃらりと御簾が上がる。董女の姿は既にない。開けた視界では先頃来客が座していた場所に、左右に控えていたはずの男たちが今は並んで座している。
 その片方、刻は気怠く言葉を吐いた。肩の荷を下ろしたように緩やかな声である。
「火群に関しては言葉通りかと。紅蓮が動いて火群がそれに従った。本人にもわかっていないんでしょう。おこった、が字義通りかも怪しいところです」
「うむ。当主殿の方は」
「相当疑っておる様子で」
 こちらに答えたのは飾である。呆れを滲ませ砕けた口調の刻とは対称に、淡々と冷ややかな声で続ける。
「ただし表立って追及するつもりは今のところないかと。七宝、ひいてはフジでの彼の立場を考えれば、まだしばらくは様子見といったところでしょう」
「其方の語りは雑味が多い。納得しかねる点が多すぎるであろうよ」
「如何にも。承知の上です」
 面布に覆われて、男の表情は見えやしない。しかしながら瑠璃には、いつも通りの無表情で開き直る飾の姿が手に取るようにわかった。隣の刻も同じらしく、呆れの色を隠しもしていない。
 尤も、飾という男は周囲を気にする男でもない。この場において一切の決定を握るのは最終的には飾であることを踏まえれば、そもそも何を気にする必要もないだろう。
 その飾は重ねて平然と瑠璃に水を向ける。
「人は今はよいでしょう。蒼天の方は如何様で」
「うむ。『七宝』に開いた……いや違うな、あちらから接触してきた、と言うべきだな」
「なら――完成は早いのでは」
 期待の言葉に反して、刻の口調は暗い。
 瑠璃は多少なりとも刻の胸中を知っている。この場において最も意志がなく、しかし心を持つ男。相反する心中を察しながら瑠璃は目を眇め、ゆるりとかぶりを振った。
「いや。それこそ様子見とでも言おうか、……あれは間違いなく『七宝』よりも上位のもの、何を思うておるのか、あるいは何も考えておらんのか計り知れぬ。間違いなく言えるのは、当主殿とは全く別個の意思があろうということぐらいだな」
「――その当主の、隠れてしまう、とは?」
 飾の声は鋭い。この男が聞き逃すはずもないと知ってはいるが、しかしながら瑠璃を責める空気すら隠さないのは頂けないところである。几帳面とはつまり余裕がないのだと、飾に限ってはそんな考えが頭を過ぎる。
 剣呑を宥めるように、瑠璃は殊更ゆっくりと答えてやる。
「七宝に入ってからここまで、まるで木立を抜けるように視えなくなる瞬間がある。そう長い時間ではない。蒼天によるものか、はたまた別の何かか。こればかりはまだわからんな」
 言葉尻は半ば溜め息へと変わり、三者の間に落ちていく。
 飾の相手は気を遣う。瑠璃が何を言おうとこの男に響かないことぐらいは理解しているが、それでも形ぐらいは勿体ぶってやる必要があるのだ。飾にとっても、瑠璃にとっても。
 肩から力を抜いたとて被さる衣の重さは変わらない。それでもできうる限り脱力し、瑠璃は背もたれに身を預ける。
「時間はまだある。蒼天とその仕い手――果たしてどう動くかは、これからよ」
 瑠璃は天を仰いで目を眇める。ここは七宝の国、ひいてはヒノモトを統べる七宝宮は最上階、典承殿だ。遍く全てを見下ろして、しかしそれは人の創り上げた場所である。高きに編まれた木目の精緻に、あるいは神威を示すように重厚な屋根に遮られ、天など見えようはずもない。
 果たしてその高みが何色をしているのか。あるいは何色へと移り変わるのか。
 蒼天と紅蓮はようやく邂逅を果した。何もかも、全てはこれからだ。瑠璃は刻と飾からは見えないよう、静かに笑みを浮かべる。
 その笑みに潜む感情が何なのか。二人の男はもちろん、少女自身すらまだ気づいていない。


 階を下るごとに火群の歩みは荒さを増していく。
 帝坐す最上階の典承殿、その直下の雲開殿。更に階下に奏行殿そうぎょうでん厨供殿ちゅうくうでん。ここまでならまだましだ。ここいらですれ違う連中は火群を見ても微かに動揺を示す程度で、後はないもののように扱ってくれる。そもそも彼らはこの宮中に住み込んで働く者たちであるからして、一応雲開殿に房を持つ火群が闊歩する程度慣れておけという話なのだが。
 しかし更に下となるとそうはいかない。宮中で最も広範な範宮殿はんくうでんに詰める連中は宮中の外、七宝市街の屋敷から登庁している者が大半であり、瑠璃の顔を見たこともないという。刻から聞かされた程度で話半分だが、だからみだりに近づくなよ、という薄ら記憶に残る口酸っぱい念押しと火群を見た連中の取り乱しようを見ればわかる。彼らは宮中にあれど、街中で火群を遠巻きに、あるいは門前払いにする連中と変わりない。
 だからこそ、気には食わないが都合はいい。
 火群は滅多に踏み入らない社を勝手知ったるとばかりに闊歩した。顔色を変えて身を退く者もあからさまに目を逸らす者も、はたまた几帳の向こうに隠れる者もいるが気にせず奥へ奥へと進む。
 本当は刻が捕まれば一番手っ取り早い。しかしあの男は火群が辞そうと瑠璃や飾と共に典承殿へ留まっていたし、そもそも昼日中の、しかも刻の房以外で事に及ぶのを頑として良しとしない。どう考えても今捕まる相手ではないことぐらい火群にもわかっている。
 それでも夜までは待てない。男に掻き乱され、女に揺さぶられた身体のどこかの虚が腹の中から胸の奥までを這いずっている。呼吸が乱れて、紅蓮と空を封じ込めた刀刃の剣戟が脳裏を灼き切ろうとする。我が身のままならないに対する憤りが背中を押して、火群は奥歯を噛む。行き場をなくした吐息の灼熱がまた身体の中をずるりと這いずって不快だった。
 刻を待てない。市街に下りる手間ももどかしい。それでも奏行殿の連中も駄目だ。あそこは飾が指揮する祭玖衆の管轄であるせいか、火群に一切取り合おうとしない。厨供殿の連中はこの宮中の衣食住を任されていて多忙である。いずれも靡く者もいないではないが、後で刻に、下手をすると瑠璃にまで咎められて五月蠅い。手間労力と釣り合わない。
 だがこの範宮殿はそうではない。皆が熱心に勤めているとは言えない節があり、隙もあれば弱みのある奴もいる。
 火群は右へ左へと几帳や廊下で隔たれ区切られた社の中を進んでいく。やがて七宝市街を横手に見る回廊へと辿り着き、火群は更なる奥へと進んだ。ここまで端に来ると先は宮中の背にする御山へと繋がるのみで、用のある奴などほとんどいない――本来は。
 ついぞ木々の緑が回廊に入り込むあたり、火群は最後の角を曲がる。宮中よりも最早山と呼んだ方が近いそこに、果たして目当ての姿はあった。
 袍と奴袴を纏う男である。立ち姿は文官たる刻や飾と似ているだろうが、纏う布の質は遥かに劣る。何より、面布を身につけていない。つまり祭玖衆ではない。まだ若い顔には妙に気力を漲らせているが、場所が山野のほど近くである以上一切格好がつかなかった。そして男が対するのは短く裾を上げた着流し一枚の男である。火群自身の格好はさておくとして、とても宮中に踏み入るような居住まいではない。
 男二人は何やら言葉を交している。そのうち文官の男から着流しの男へ書簡とちいさな包みが渡る。着流しの男は包みの口を開いて中を検めた様子で、それからすぐ書簡と共に懐に仕舞い入れた。そのまま踵を返し、振り返ることなく回廊の先へ、山の木々の向こうへと消えていった。
 火群は静かに、回廊の真ん中で足を止めた。書簡を持ち去った男を悠々と見送った文官姿の男はまるで何事もなかったかのように踵を返し、そこでようやく火群に気付いて目を見開いた。あれだけ漲っていた気力はどこへやったのか、げえ、という声と共にあからさまに青ざめるその顔に火群は一歩、二歩と間を詰める。一歩、二歩と、男は後退る。
 その顔は火群の見知ったものではない。しかしながら今の、明らかに宮中の外の男とのやり取りが何なのか知っている。
 じりじりと火群が迫るうちに、男の腰はついに回廊の柱へと阻まれた。外から伸びる枝葉を気にした様子もなく、男は顔を引き攣らせている。
 火群は男を覗き込むように首を傾げてみせた。あは、と零れる吐息は焦燥よりも冷静で、しかしながら糸を引くような欲望を滴らせている。
「なァ、昼間っから花街に文出すぐらいだ、有り余ってンだろ?」
「ヒッ……!?」
 男はついに悲鳴を上げる。火群が迫ったためか、それとも事実を突かれたがゆえなのかはわからない。
 男が昼間から手紙を出していようと職務を放棄していようと、火群にとってはどうでもよい。花街の若い衆やら、先の着流しのような文使いやら楼主やら、はたまた男のような客の立場の人間から、とにかく以前身体を合わせた相手から宮中にも昼日中に気に入りの女へ文を出す輩がいるのだと聞いたことがあるだけである。
 ただし男の心中は穏やかではないらしい。小さく膝を笑わせながら追い詰められる一方で言葉らしい言葉も続かず、火群はその姿にただ薄く笑みを浮かべる。紅蓮を片腕に抱いたまま男の足下に膝を突き、ひと息に袴の後紐と前紐を解いた。重い音を立てて袴が床に落ちるが、火群は気にせず上衣の裾を捲り上げ男の褌を解いてやった。
 晒された萎えた魔羅を片手で掴み、ゆるゆると扱きながら見上げる。一切水気のない摩擦がむず痒いのか、男は下半身を曝け出した格好でただ身を捩っている。
「あっは……ほらっ……んぅ」
「ぅあ、や、めっ」
 男が火群のことを何だと思っているのかは知らないが、抵抗が口だけなのは好都合である。尤も、仮に暴れようと逃がすつもりもないのだが。
 首を傾けて肉茎を口内へと招き入れる。乾いた表面を濡らすように満遍なく舌を擦りつければじゅわりと唾液が溢れてくる。火群は目を細め、ゆるく息を吐いた。ん、と上擦った声になって鼻から漏れ、男の内腿が陸に上がった魚のように跳ねた。ゆる、ゆると、頭を前後させながら口の中全体を使って扱いていく。
 安堵がある。自分以外の人間の熱を身体のうちがわに入れることに満たされる。それは大きな盥に葉から滴る朝露を溜める程度のもどかしさではあったが、自分の中に入っていく、うそれだけでないよりはいい。もっと奥まで、どこか知らない深くまで、虚を埋めるほどに呑み込んでしまいたい。
 苛立ちに似た空虚への不快が薄らいでいくのを感じながら、火群はじゅるりと音を立てて雄芯を吸った。唇に、擦りつける舌に肉の弾力を感じる。雁首の溝を舌先で抉り、べろりと亀頭を舐め回してから一度口から出してやれば溢れた唾液は口の端を伝い落ち、ぶるんと反り返る先端から散った淫水が火群の頬に跳ねる。鼻先では赤く染まった魔羅が天を向いていた。男の袍の裾にそそり立つ幹が触れ、じわりと水気を吸って布地が濃く色を変えていく。
「や、やめ、ろ、俺はそんなんじゃ――」
「あ゛ァ? 勃たせといて何言ってんだ? 挿入れてェンだろォが」
 やっと言葉らしい言葉を発した男は、しかし火群の返答でまたヒィと息を呑んで黙り込んだ。
 何を言おうと萎れていた魔羅を勃たせているのは男の方なのだ。火群には理解しがたい感覚だが、勃起させているということは中に入れて吐き出したいということだろうに。
 鼻を鳴らして紅蓮を抱え直し、火群は黙り込んだ男の肉棒に顔を寄せる。
 天を向くに引きずられてきゅうと上がる双珠を唇で食む。薄い皮を舌先でピタピタと叩き、擽るようにして舌の上で転がす。時折ぢゅうと吸えば男は素直に悲鳴を上げた。
 散々珠を擽って、二つを割るように反り返る裏の筋へと舌先を伸ばす。ちろちろと脈の隆起を辿り、また根元に戻っては平べったく伸ばした舌を幹にぺとりと貼りつけて舐め上げる。時折横から食んでは吸い、また先端を咥え込む。ねろりと舌で舐め回しながら奥まで招いてやれば、喉のやわらかいところが掠めて震えた。ずぞと吸う音に男の腰が突き出すように跳ねる。更に奥まで入り込もうとするそれを口全体で吸い上げてから吐き出した。
 火群が触れずとも勃ち上がるそれは、たっぷりと絡んだ唾液と鈴口から溢れる先走りによってぬるぬると粘りを滴らせている。根元から先端まで手のひらで包むように撫で上げればべっとりと粘りが絡んだ。
 ちゃり、と紅蓮がちいさく音を立てる。火群は片腕に紅蓮を抱き、汚れた手のひらを眼前にかざしながらゆらりと立ち上がる。
 弾かれたように男が動いた。
「ヒ――ぎゃっ」
 火群の横を擦り抜けるように男は一歩を踏み出し、しかし足下でわだかまる袴に躓いて回廊の床に伏した。宮中の袍だけは隙なく纏い、しかし下半身は裸身を晒しびんと魔羅を勃起させている姿は哀れを誘うが火群は決して笑うことはしない。代わりに伏した身を跨ぎ、男の逃げ場を塞いでいた柱に紅蓮を抱えた手を突く。
 朱塗りの柱は太く、火群が身を預けてもなお余裕がある。外から伸びて入り込む枝葉が頬を擽るが、火群は不快に思うでもなくただ笑った。ぺとりと柱に胸を預けて両足を軽く開き、開けた着流しの裾を捲り上げて適当に帯に挟み込む。ついでに褌も落として、それからゆるりと背後を振り返った。
 鼻っ面を赤く染め、相変わらず袴に足先を埋めたまま男は尻餅をついている。見せつけるように火群は淫らに粘ついた指を後ろに回した。尻たぶを割り開き、後孔を晒して指先を埋めていく。抵抗なくぬるんと入り込む指先は細く、裡を満たすには程遠い。更なる疼きをもたらすばかりで、火群ははっと息を吐いた。
「なァ、そんなおっ勃てたまま戻るつもりか?」
「ぅ……」
 根元まで指を突き込んで、くちゅりと音を立てながら抜く。もう一本の指も添えて中に挿し入れちいさく揺すればくちくちと籠もった音が響く。引き抜くついでに二本の指を開いて見せれば、確かに男の喉が隆起した。座り込んだままの男からは、緩んで解ける肉の蕾がよく見えているだろう。
 二本から三本、四本と指を増やし、ずぽずぽと出し入れを繰り返す。じんわりと胎の奥が濡れてくるが、擦るだけでは直に指が乾いて引き攣れるだろう。ん、ふっと、鼻にかかった声を漏らしながら肩越しに背後を窺う。
 薄目に見下ろせば、男がのろのろと立ち上がった。俯きがちに、しかし股間でそびえ立つものは決して萎えてはいない。それどころか先よりも角度を増し、びたびたと揺れては袍の裾の汚れを広げていた。
 あは、と息を漏らすのと、腰を掴まれ広げた肉壺に猛りが突き込まれたのは同時だった。
「あ゛――! あ、はッ、んっあ、は、ッあ」
「くそっ……くそ!」
 がつがつと揺さぶられ、両手で柱に縋りつく。背後から聞こえる悪態はやがて俺は悪くない、こいつが、こいつがと、火群を呪う言葉に変わって荒さを増していく。火群は頬を柱に擦りつけ、薄く笑みながら手中の紅蓮を見下ろした。
 赫赤を鞘に隠した刀刃は、火群が揺さぶられる度にちいさく声を漏らしている。かちかちと何かが噛み合っていく音に目を閉じれば、胎の奥へ奥へと捻込まれる男の熱杭をまざまざと感じられた。堪らず低く笑えば男が呻いて動きを止め、そうかと思えば苛立たしげに更に奥を硬く荒ぶる亀頭で攻め立ててくる。
「あ゛っ、お゛♡ っと、ぉく、おくっ――う゛ぅ~~ッ♡♡」
「クソが! 黙ってろ!」
「お゛ほっ♡♡♡♡」
 ばちりと尻を叩かれて思わず顎が天を向く。ばちばちと脳裏に瞬く光を逃がすように目を瞠った。
 ぐちゅぐちゅと肉の輪を抜けては入り込む男の魔羅を、火群は食い締めては緩め、男が呻く度に笑う。すると更に中が締まって、男はその立場からは考えられないような雑言を吐き続けては腰を揺すぶった。尻たぶには男の陰毛と恥骨がぶつかり、ばちんばちんと水気を含んだ音が長い長い回廊に響いている。ここに誰か来たら、などという理性はもうないのだろう男を笑い、火群は紅蓮を抱き締めてまた目を閉じた。
 何も持たず何も知らない、火群という男の虚ろが、見も知らぬ男の暴虐と魔羅で埋め尽くされて霧散していく。奥へ、もっと奥へ、火群のどこにあるとも知れない虚を埋めて、あとは紅蓮の望むまま。紅蓮だけがあればいい。それで自分はいい。
「あ゛は、はッ、んっあ、あ! あ、あ゛ァ♡」
 なのに。そのはずなのに。
 馬鹿みたいな自分の喘ぎの向こうに、悲鳴が聞こえる。
 凪いだ水面に雫をひとつ落とすような、童が転がす鈴のような、比翼の鳥が囁くような。静かで懐かしくて愛おしい、胸を締めつける悲鳴。
 そんなものは知らない。そんな感情、火群には関係ない。感じたこともない。なのに、なのになのになのに!
「お、ッら!」
「ヒッ――♡♡」
 ほとんど抜け落ちるほどに魔羅を引き抜いた男は、ひと息に根元まで叩き込む。ばちんと濡れた肌が大袈裟な打音を上げて、火群の背が弓なりに撓る。思わず見開いた視界に光が散る。
 それは空の欠片を零すような。瞬いて蒼から藍へと流れる光。
 藍深い瞳が。ぎゅうと目を閉じて紅蓮を掻き抱く。かりりと、傷ひとつつかない柱に爪を立てる。びくびくと胎の奥が痙攣して雄を食み、子種を絞ろうとしている。身体全部がまるごと震えて、火群は喉を反らせて喘ぐ。
「ァ……っひ、あ゛♡♡ ぉぐ、ほ、し――んんッ♡♡♡♡」
「っるせぇ! 黙って腰振ってろ!」
 またばちんと尻を叩かれて火群の身体が跳ねる。ぁは、と喉から息が漏れる。
 欲しい。奥に。欲しい。もっともっと、もっと奥。まだ誰も触れたことのないところ、火群自身も知らない、底なしの虚まで、埋めて、満たして、欲しい、どうか。
 火群の脳裏に過ぎるのは剣戟の煌めきと、そして――藍の男だった。
「――ぅあ゛ッ……あ゛――!!♡♡♡♡」
「お゛ッ……出るッ……!」
 腕の中で紅蓮がないている。胎のうちがわはビクビクと震えて、ちかちかと光で埋め尽くされる火群の頭は紅蓮の声を聞き取れない。背後では男が呻き、そして胎の中にどぷりと子種が吐き出された。
 かくりと、仰け反る火群の頭が下がる。は、と荒く呼吸を繰り返して、口の端からはとろりと涎が落ちた。背後の男は何度か腰を突き上げ、種を奥に塗り込めるようにしてからようやくずるりと抜けていく。肉襞が勝手にむしゃぶりついて、魔羅を、溢れる子種を余さず呑み込もうとする。肉のふちは最後まで肉棒に吸いつき、やがてにゅぽんと先端が抜けていった。
 長く、長く息を吐く。髪の生え際に浮いていたのか汗が滑り、そして火群の目端を掠めて弾ける。緩慢に背後を振り向いて、火群はぎゅうと紅蓮を握り締めた。
 残像が、胸の奥をざわつかせている。静かに掻き乱された胸中が掻き回された胎の奥をまだ凌いでいる。藍が、刃鳴りの残響が消えない。
「ぁ……ハ、ははっ♡♡ なーあ、」
 火群の腰を掴んだまま、奥歯を噛んで俯く音に投げかける。火群は幾度か叩かれ熱を持った尻たぶを自らの手で撫で、そして掴んで割り開く。ぽってりと腫れて熱を持った後孔に空気が触れて、思わずひくんと震えてはどろりと白濁を滴らせた。
 男は獣のように息を荒げながら、火群の肉びらを見つめている。涎でぬめる唇を火群は己の舌先でなぞった。
「な、まだ……イケんだろ? なァ……♡♡」
 荒く舌を打つ男がのしかかるのと、火群が笑うように嬌声を上げたのは同時だった。
 腕の中ではまだ、紅蓮がちりちりと燻る声を上げている。
 火群の遠く背後では、回廊の柱と欄干を透かして蒼の空が。
 ただ静かに、高きを見せつけながら佇んでいた。


 フジのそれに比べると随分とこぢんまりとした御山は、それでも見渡す限り平らなこの七宝においては稀少なものなのだろう。
 高い秋空の下、若い緑から熟した黄へと移ろうその山の一面を覆うようにそびえ立つ朱と黒の大神殿。一体どれほどの時と、財と、人と、そして――他の何か・・・・を費やしたのか。果たして遠く隠れ里から赴いた身では想像もつかない。
 面布で顔を隠した少女たちに導かれるまま、外からも仰ぎ見える大階段ではなく螺旋を描く階段を只管に下って辞したそこを、氷雨はじいと見上げ続ける。今上帝との面会を果たした最上階の典承殿など最早霞んで見えるほどだ。氷雨は目を眇め、やがて短い嘆息と共にかぶりを振った。腰に提げた蒼天がきんとちいさく声を上げる。
 ここに来ていよいよ沈黙を続けるそれを刹那見下ろし、氷雨は大神殿を背にゆっくりと歩き出す。
 それだけでフジの里の半分は埋めてしまうのではないかと思うほど広大な大南庭には、しかし氷雨以外の人影はない。楚々とした白い玉砂利の道が黙って南へ、市街と宮中を別つ鎮守の森へと吸い込まれるように伸びるのみだ。平生からこれほど人がいないのか、それとも今氷雨がこの場にいることに意味があるのか、そこまでは図りかねた。
 遠く左右には厩舎のような建造物や、植木に囲われた大池などもあるようだがどこまで見渡しても人気はない。無論、誰かとすれ違うこともない。ただ氷雨と、腰の神剣だけが言葉もなく進んでいく。
 やがて濃い常緑の木々が茂る森と共に、朱塗りの門が見えてきた。現人神の居所から市街という俗界を隔てるそれは大きな柱で組まれている。形だけは簡素だが、二本の大柱も天辺を渡す二本の横木も朱漆で塗り染められ、宮中の意を示していた。
 氷雨は息を呑んだ。その大門の威容に圧されて、ではない。
 朱塗りの大柱の向こうに、ちいさな影が見え隠れしている。淡い色の衣は大門の朱と、その向こうに広がる濃い緑にはあまりに目立ち、浮いている。氷雨は俄に歩調を速め、抑えた声量で、しかしはっきりと名を呼んだ。
「――シロ!」
「氷雨。お待ちしていました」
 しゃらりと、笠から垂れる薄衣が靡く。
 淡い色の旅装束に肌も髪も抜けるように白い少女は、まるで従僕のように頭を垂れた。しかし続けて氷雨を見上げる瞳は血を透かしたように赤く、諾々として従うではない意思の強さを宿している。
 いやそもそも、少女がここで氷雨を待っていること自体が誰の意にも染まぬ態度の最たるものである。氷雨は声を潜め、遠く背後の宮中を目端で窺うようにしながら少女に身を寄せた。
「待っていろと言っただろう」
「ええ、聞きました。聞き入れるとは言いませんでしたが」
 こくりと頷く少女を、氷雨は眉根を寄せて見下ろした。苦い虫でも口に入りましたか、などという長閑な問いかけには答えず、少女を隠すように立ち位置を取りながらそのちいさな背を押す。
 大人しく歩みを進めながら、少女はちらりと氷雨を仰いだ。
「そこまでせずとも大丈夫です。宮中でもシロの話など出なかったでしょう」
「……当て擦るような節はあったがな」
「ならば問題ありません。確信がないということですから」
 少女らしからぬ鷹揚さでシロは頷いた。
 大門を超えた玉砂利の道は木立の隙間を縫うものに変わっている。奥に清水でも流れているのか、葉擦れの音と川のせせらぎと、そして鳥の声が時折混ざる清かな場所を、氷雨は黙って進んでいく。
「シロも、」
 同じく沈黙を守っていたシロが不意に口を開いた。氷雨の足裏で擦れた砂利がちいさく濁った音を上げた。
「見ておきたいと思ったんです。この七宝の全てを、シロも見ておきたい」
「…………」
 少女の視線は森を抜ける道の向こうにある。背後から寄り添う氷雨には彼女が何を、どこを見ているのかは見えていない。
 ただ薄らと感じる淡い予感だけが、氷雨が知る少女の心だ。それとて全てではないだろう。氷雨は自分自身の心すら、行く末すら見えていないのだから。
「氷雨は」
 内心を読んだように少女が氷雨を振り仰ぐ。その瞳は優しく、けれど有無を許さない強さを宿している。
「あの天上の神楽殿で、何を見てきましたか?」
「……――俺は、……」
 目を伏せる。きぃんと、天を貫くような涼やかな音が響いている。
 それは今、蒼天が上げる喝采なのか。それとも先頃交えた刃の交歓の嬌声か。
 炎を閉じ込めた刀刃。宮中が嘯く人外の業。その仕い手。
 彼らにあったのは確かな怒りだった。妖刀に選ばれたなどと言われる男は明らかに刀刃に仕える者である。相対した眦を思い出す。
 黄金の瞳。どこまでも遠く広がる尊い色。紅蓮なる刀刃に振り回され、炎の赤に舐められ灼き尽くされ蹂躙されてゆく――ほむら。
 あれを氷雨は知っている。何故なら、あれは、
「……わからない」
 それでも、差し伸べた手は拒絶された。
 何も掴めなかった己の掌を見下ろす。かつて望んだものの何もかも取りこぼしたこの手。
 今度は掴めるだろうか。そもそも何を執るべきだろうか。誰かの熱を、あるいはこの神剣を。
 見極めなければならない。必要であれば、この手は――彼を、
「氷雨」
 空の掌に、白魚のような少女の手が触れている。
 シロがじいと氷雨を見上げている。薄衣越しにも強い瞳は、けれどどこまでも慈愛しかない。乏しい表情ながら彼女が微笑んでいることを氷雨は察した。
「氷雨が望むことを為す、シロはそのためにいます」
「……ああ」
 ちいさな手を握り締める。祈るようにその手に額を預け、氷雨は一度強く目を瞑った。
 その脳裏には――火群、と呼ばれた男が、強く強く灼きついている。
22.7.7up 
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