さようなら、は言えない
誰かの呼ぶ声が聞こえる。
漠然と、曖昧に、けれど泣きたいぐらいに優しい顔が思い浮かんだ。ルドルフ、と慈しむばかりの声で呼ぶ声。いつもあの人を見上げていた。椅子や寝台に座すばかりのあの人を、体躯だけはしっかと育ち二本の足で石床を踏みしめ見下ろすかたちに変わっても――ずっとあの人を見上げていた。見上げて、いたかったのだ。
開いた瞼の向こうには、当然あの人はいない。
代わりに、随分とくたびれた、見慣れた顔の男がいる。
「お前と父上を間違えるとは、私もいよいよ最後の審判が近いかな」
「……お戯れを」
返す声に『当代一の教養人』とまで呼ばれる冴えは見えない。この男もこんな顔ができるのかと、あるいは下手な冗談を口にするのかと、今更の発見に少しだけ楽しくなった。けれど声を上げて笑うには体が重く、ほんのわずか口の端を持ち上げるに留まる。
額に浮いた汗を拭われるがまま深く息を吐く。見上げた先にあの人の、父の姿はない。数年前に先立ってしまったのだから当たり前だ。代わりに父ほどに年の離れた――自分は遅くに生まれた子ゆえこの男より父はもうひと回りほども年上だったが――忠臣、そしてその向こうに見慣れぬ天井。ここは自分の領地には程遠く、ウィンナーブルクの私室が少しだけ恋しい。
あるいは、生まれ育った場所に遺してきたものたちが。らしからぬ感傷が勝手に言葉を紡ぎ始める。
「ヨハン」
呼べばするりと汗を拭う手が離れていく。はい、と続く声は発した男の喉から掠れていたのだろうか、それとも己の耳が役割を失いつつあるのだろうか。
「弟たちを、任せる」
返事は聞こえない。傍に控える姿を探そうとして、やめた。頭を、眼球を動かすのも億劫で、白み霞む視界にもうんざりする。
曖昧な世界に思い描く。ヨハンはよく弟たちを支えてくれるだろうが、老いたものから世を去るのが理だ。自分の伯母などは随分と長く生きたがあれは例外である。いずれにせよ、いつまでも誰かに支えられて生きてゆくことはできない。
まだ幼い弟たち。自分はあの子たちに何を遺せただろう。手中に収めたばかりのチロル、それに伴って蠢動するヴィッテルスバッハ、ひとまず手を結んだルクセンブルク、静観を続けるスイス、領内の諸貴族聖職者、そもそも今、自分がここにいる理由たるアクイレイア大司教。心配事ならいくらでも思いつくのに、あの子たちにとって確かなものが思い出せない。苦笑したが表情になったかどうかはわからなかった。
もっと、話をしておきたかった。俯きがちな弟と、前ばかり見がちな末の弟。まだもうしばらく、否、最後まで自分があの子たちを守ってやるつもりだったのだ。争いも政も全て、自分だけが請け負って。不意に逝ってしまったすぐ下の弟と儚く去っていった義理の弟を思えば、自分の気負いなど傲慢と油断でしかないと気付くべきだったのに。
ルドルフ様。わずかに焦りの滲む声がする。沈黙に耐えかねたヨハンを笑う気力はもうない。
現実感の失せていく視界の中、最期にひとりの面影が浮かぶ。誰よりも美しく微笑むひと。
自分は彼女にこそ、何も遺せなかった。
「カタリーナを、」
頼む、と続けることさえできない。
まだことばも覚束ない時分に、互いを担保に結ばれた結婚という契約。自分が失われれば当然白紙に戻るだろう。彼女はプラハの父の告げるまま皇帝の街へ戻り――あるいは次の誰かのもとへ。家と家を結ぶ鎹として、大きな流れに呑まれるがまま。
せめて。もしも。そんな不確かを思い描くことはしたくない。けれどこんな時ぐらい、人並みに夢を見ても許されるだろう。彼女の柔らかな胸に抱きとめられる存在が自分だけでなく、あるいはいとけない赤子があればなどと――
夢の不在こそ、最期まで己が、ルドルフ・フォン・ハプスブルクが、父アルブレヒトの子である証明である。父母のもとに自分が生まれるまで十五年も待たせたのだから。
「ルドルフ様」
悔恨と、寂しい誇りばかりを供にする手に触れる熱。
「私は貴方の臣下で、幸せでしたよ」
そんなことを言いながら、父のように友のように手を握るヨハンを笑った。ああやはり、お前はそういう冗談を口にしている方が似合いだと。
忠義の臣下への労いは最期の笑みと主君を看取るに代えて、ルドルフは大鷲を背に旅立つ。
よく戻ったな。
頬への口づけと共に労るように抱擁されても、特にことばを返すことはできなかった。ふわふわと、まるで夢見心地のように頷いて、それだけ。気遣わしげに頭を撫でられても、幼い頃のように喜ぶことはできなかった。
たくさんのものが変わってしまった。
例えば目に見える景色。久々に戻ったプラハは随分と活気づいている。現実感のない心が慰められることはなかったけれど、それぐらいは感じ取れた。迎えられた城も随分と手を加えられているし、城から見下ろすヴルタヴァには大きな橋を架けようとたくさんの人びとが働いている。皇帝の街に相応しい景色。
けれど、カタリーナの心に浮かぶ景色は黄金の街ではなく。
「かえりたい」
「……帰ってきただろう」
首を振った。
確かに自分の生まれた街はここだ。けれど幼い頃に嫁ぎ、身を尽くし、あの人と肩を並べて見つめた街がどうしようもなく心に焼き付いている。
稚気と野心に満ちたあの人が鍬を入れた聖堂、幾度火事に襲われても立ち上がる人びと、黒く広がる森。あの人と守り育んだ街。そのはずだった場所。
私が帰る場所はもう、ここじゃない。
なのに並んで震える肩を抱くのは父で、隣にはもう、あの人がいない。輝ける町並みは慰めにはならず、心は黒い森へとかえりたがっている。