まるみえかくれんぼ
アルブレヒトが隠れる場所を探して踏み込んでしまったのは兄ルドルフの執務室だった。己の後ろに軽鴨の子のごとく従いながら「ついてこないでください」と言い張る弟レオポルトの主張の矛盾に気を取られ、つい失念してしまったのだ。普段は決して近寄るまいと気をつけているのに。
部屋に踏み込んでからでは遅いのだが、とにかくアルブレヒトは気づいた瞬間、足を止めてぴゃっと悲鳴を上げた。しかしながら迎えるのは冷ややかなルドルフの視線ではなく、やんわりと咎めて追い出す兄の宰相の声でもない。アルブレヒトがこの部屋に抱く印象とは随分とかけ離れた、のんびりと穏やかな声だった。
「――あら?」
アルブレヒトが恐る恐る顔を上げれば、そこにはきょとんとしたカタリーナの顔がある。
執務室にあって滅多に使われることのない長椅子に腰かけるカタリーナ。彼女の存在に何故と思うと同時に、ルドルフの姿が目に入る。また悲鳴を上げそうになるがアルブレヒトはすんでのところで飲み込んだ。ルドルフはいつもの静かで威圧的な表情ではなく、目を閉ざし薄く唇を開いてカタリーナの、つまり自らの妻の膝を枕に頭を預けている。
いつもの執務机ではなく長椅子、しかも身を横たえる兄の姿にアルブレヒトはどぎまぎしながら声を低めた。何せこの、剣呑で油断ない兄の寝姿など初めて見たもので。
「ね、義姉さん、どうしてこちらに」
「どうして? ふふ、ルドルフ様ったらここしばらく働き詰めだから、少し休憩のお誘いに。……そしたらすっかり寝入ってしまわれて」
だから、しー、ね?
小首を傾げながら見下ろす義姉に、アルブレヒトはこくこくとただ頷く。すっかり失念していた背後からも黙り込んだまま勢いよく首肯する気配を感じた。アルブレヒトにやたらあたりのきつい二つ下の末弟は義姉には弱いのだと、アルブレヒトは随分前に気づいている。おおかた今も顔を真っ赤にしてカタリーナを見つめているのだろう。
義弟たちに微笑むカタリーナは、それで、と内緒話の体で囁いた。
「貴方たちこそ、どうしたの?」
「そ、その、フリッツ兄さんとかくれんぼを」
答えるアルブレヒトの背後には、引き続き激しく首を縦に振る気配。レオポルトの様子にか自分のしどろもどろにか、義姉はくすぐるような声で笑っている。
「じゃあ隠れるところを探しているのかしら」
「そうです。なので、あの、すぐ出て行きますから」
いくらルドルフが今は寝入っているからといって、ここは遊びに入っていい場所ではない。ルドルフが領地領民、あるいは他国まで動かすために数々の書き物を連ね、あるいは臣下たちとことばを交わす場所である。
いずれ兄や臣下たちと共に、同じようにここに足を踏み入れる日が来るのだろうか。ちらりとそんなことを考えながらアルブレヒトは後ずさる。下がり損ねた背後のレオポルトと背中がぶつかって、義姉に聞こえない程度の声量で唸っている。
後でレオポルトにぼこぼこにされようと義姉が優しく微笑もうと、アルブレヒトは早くここから立ち去りたい。刹那に掠めた未来の姿から遠ざかりたいのもあったし、何よりいつルドルフが目を覚ますかと考えるとどっと冷や汗が噴き出すような心地である。
しかしカタリーナはアルブレヒトの心境を知ってか知らずか、思いもしない方向に口火を切った。
「あら、ここに隠れればいいじゃない」
「え! い、いや、でもこちらは兄さんがお仕事をされる部屋ですから、普段から立ち入らないように」
「なら、なおさらいいんじゃない? まさかここにいるなんてフリッツも思わないでしょう?」
ふふと笑うカタリーナに、背後からは熱と風を感じるほど気合いの入った首肯。悪戯っぽい義姉の表情には子どもたちへの――つまりは自分たちのこと――慈しみしかない。このひと周り上の義姉もアルブレヒトがルドルフを苦手としていることには気づいているだろうに。いや、気づいていないのか?
善意で退路を断たれる気分。完全に義姉のことばに甘える気になったらしいレオポルトは煮え切らないアルブレヒトの背後をここに来て初めて脱し、執務室内のどこかに隠れようとしていた。ここなんかどうかしらと、ルドルフを膝に乗せたまま器用にカタリーナが前屈みになる。
レオポルトの目線に合わせる格好の義姉の、開いた襟ぐりからなだらかな起伏を描く白い肌が、柔い乳房の輪郭がちらりと覗くのを見るともなしに立ち尽くし――ぞわりと背筋が総毛立った。
強い。強い視線を感じる。
見たくない気づかないふりをしていたい。そう思いながら、柔な心は恐怖に従ってしまう。アルブレヒトはそろり、とカタリーナの胸元から少し下へ視線を転じる。
そこには鍛え上げたばかりの剣よりも鋭い眸子。細められた空色が、ルドルフの瞳が、何を言うでもなくじいとアルブレヒトを見ていた。
「――ッ!」
「ふぎゅ! あ、兄上!」
アルブレヒトは物も言わずにレオポルトの襟首を掴む。弟の非難の声も無視して部屋の外まで引き摺り、目を丸くする義姉にもつれる舌で告げた。
「や! や、やややっぱり、兄さんのお休みを邪魔してはいいいいいけないので! 失礼します!」
焦燥のあまり場を弁えない声量こそ兄の怒りに触れるのではないか。そんな配慮も取り落としたままアルブレヒトは弟を連れて駆け出した。ばたばたと足音もけたたましく、レオポルトの怒声とアルブレヒトの悲鳴を引き摺りながら二人は遠ざかっていく。
残されたカタリーナは突然どうしたのかと首を傾げるばかり。答えを得ることのない彼女は代わりに膝の上でもぞりと動く気配に気づく。カタリーナの腹に顔を埋めるように、件の兄が寝返りを打っていた。
「ごめんなさい、起こしました?」
「……いいえ、別に」
ルドルフの低い返答が腹に響く。表情は見えないながら妻には察するものがあった。
カタリーナは義弟たちへ向けるものとはまた異なる笑みを浮かべ、隙間なく身を寄せてくる夫の髪を指先で梳いてやった。
時を同じくして。半泣きで逃げ出したアルブレヒトはといえば、隠れに行ったはずの弟たちの帰還に驚く兄フリードリヒにありのままを伝え、そして苦笑を返されていた。
「それは――兄上は怒っていたんじゃなくて、なんというか……馬に蹴られたというのかな」
「馬! ルドルフ兄上は馬なんですか!? 確かに兄上は馬のようにしなやかで俊敏です。さすが兄上!」
「ううんとそういうことじゃないんだよレオ」
激しい捉え違いと思い込みを露呈するレオポルトを宥めるフリードリヒ。彼の「兄上も大人げないというか可愛げがあるというか」という独り言をアルブレヒトが理解するのは、もっともっと、ずっと先の話である。