シーツの海でふたり
*BL*転生現パロ
そういえばもう十年ほど使っているのだとたまたま気づいただけだし、確かに特にこだわりなく選んだそれは最近よく軋む音を立てるようになっていたし、ちょうど模様替えをしたいと思っていたところだし、思い切って広々と眠れる環境にしようかと思っただけだ。そう、だけなのだ。他意はなく、且つ自分の所有物のことなので仕事帰りや休日の一人の時間を使って念入りに検討した末購入したのだし、煩わせるのは悪いと思って珍しく彼が丸一日不在のタイミングで搬入した。
だから重ね重ね言うが他意はない。帰宅した彼が部屋に入り込んできたのもいつものことだが彼の意思によるもので、たった一日の間に完了した模様替えについてわざわざ口にする必要もない。全てはたまたま、なのだから。
「わあ」
そう思いながらルドルフを迎え入れたカールは至って平静にデスクに向き直った。仕事仕事と心の内で唱えつつ立ち上げたままのパソコンに指を伸ばす。背後では気の抜けた声が上がっているが、たまたま、カールが、自分の意思で、他意なく、買い換えたものについて感心するルドルフに話すことなど何もない――
「ヤリ部屋って感じですね」
「だからどうして君は! そういう!!」
――とはいかなかった。
耐えかねてデスクチェアごと振り向く。すると新品のベッドの前に佇むルドルフの非常に満足気な顔があって思わず呻く。
他意はない。ここに住まいを始めた時分、まだ幼い娘には天蓋付きとまでは言わないまでも立派でしっかりした、一生だって使えるぐらい上等なベッドを買った。結果として成長した娘は全寮制の女子校に進学し、今やベッドは静かに役目から退いているわけだがそれはそれとして、カールは自分の家具についてはあまり頓着しなかった。今腰掛け向かい合うデスクセットや重たい資料を詰め込む別室のシェルフこそ良いものを選んだものの、後は廉価で使えればいい程度の質でしかない。
当然、ちゃんとしたものを買えば高くつくベッドなどその筆頭で、今使っているものはスチール製のパイプベッドである。寝られればいいカールにとって不満はなかったが驚くほど廉価だったそれはさすがに徐々に軋むようになってきた。およそ十年、成人男性を受け止め続けてきたのだから価格から考えても妥当な替え時だろう。特にここ最近は、ちょっとばかり不安になるような音が頻繁に聞こえていたので――そこで不意に酷く納得した声が聞こえてくる。
「確かにセックスの度にギシギシ壊れそうな音がしてましたもんね」
「だから……そういう明け透けな言葉を……」
真新しいベッドに腰掛けて、スプリングの感触を楽しみながら、あまつさえ「ああいうのをギシアンって言うんでしょうね」などと呟くルドルフに顔を覆った。
他意はない。他意はないが、ルドルフの言う通りでもある。長年成人男性一人分の体重を受け止め続けてきた廉価なスチールパイプは突如としてもう一人分の重さを支えることになり、且つまた振動を与えられ末期の悲鳴を上げていた。さすがに自分とベッド氏、双方に危機感を覚えたカールは致命的な終焉を迎える前に――一番の危惧はセックス中に床板が破損することだった。想像するだに実に間抜けだ――買い替えに踏み切った次第である。
他意はない。他意はないが、ルドルフが買い替えの理由の一つではある。
さてその理由である青年はというと、可笑しそうに笑いながら上体をベッドに横たえた。身体を折り、じいっとカールを見上げている。
「だって本当のことでしょう。それにほら――このサイズ?」
まだ糊の効いたシーツに腕を広げる。白い波が細い腕に従って跡を引く様に呻く。
ベッド端に腰掛けて倒れこむ青年が腕を広げても尚、シーツの海は広がっている。先日まで毎夜を共にしたパイプベッドは横幅一メートル未満、完全なるシングルベッドだった。そして今日から夜を共にする新品のこのベッドは――キングサイズである。横幅は以前のベッドのほぼ倍。
確かに他の家具の配置を変える必要も多少あった。業者に搬入・設置してもらい改めて部屋を見渡してこれはと思ったのも事実だ。何せ今までの倍である。元々家具の少ない部屋ではあるが、やはり少しばかりは圧迫感があった。ベッドの存在感が強いというか、部屋がベッドでいっぱいに見えるというか。表現はどうかとは思うが、確かにルドルフの第一声に頷けないでもない。
「……キングはシングル二つ分だからと、家具店の店員が……ダブルでは君が狭いだろうし、クイーンにするならいっそキングでもいいんじゃないかと」
「つまり俺が一緒に寝る前提な訳ですね」
楽しげな声にぐっと喉が詰まった。
他意はない。他意はないが、ひと騒動の春からすっかり居着いたルドルフは確かに家具選びにおいて懸案事項ではあった。
何せカールの住まいするマンションは3LDKではあるが、一室はこの通りカールの寝室、もう一室は今は家を出ている娘の部屋、そして残る洋室はカールが仕事のための資料を置いており、あとはリビングダイニングである。住人が増えるなどもちろん考えていなかったし、これが来客程度ならリビングやそこに置いてあるソファの活用を検討するがルドルフは自称元いた家を出てきたと言う。彼と同居していた保護者を思うに多々疑惑があるが、とどのつまりここから離れるつもりはないという意思表示だろう。
ならばどこかの部屋をルドルフ用に空けようかと話もしてみたが、堂々と押しかけてきた割にそんな手間は取らせたくないと謙虚なことを言う。カールの寝室に住み込むつもりではあるだろうが、この謙虚も本心ではあるのだろう。恐らくカールが明確に拒絶すればこの子はベッドを共にしようとも、ましてやこの家に住まうことすらも退いてそっと出て行くのだろうという確信があるが、それはカールの本意ではない。
ならばいっそ、二人で使うつもりでベッドを買い替えたのは理に適ってはいる。おかしくはない。おかしくはないが、嬉しそうに微笑むルドルフにそうだと頷けるほどカールは割り切っていない。気恥ずかしい、という意味で。
呻きを喉奥で殺し、代わりに片手で顔を覆う。カール、と囁く声に指の隙間から窺えば、酷くやわらかくとけた顔がこちらを見上げていた。今度こそぐっと声が漏れるが、青年は気にせず両腕を広げて見せた。
「かぁる。ね、来てください」
「……本当に、君は」
ぎしりと軋む。それは立ち上がったデスクチェアの立てる音で、ほんの数歩で辿り着いてしまうベッドは片膝で乗り上げた程度は何も言わない。ルドルフも何も言わない。カールも黙ったまま、覆い被さって少し身を屈めればするりと背中に回る二本の腕。誘われるままゆるゆると身体の力を抜く。押し潰す前に肩を抱いて、向かい合うかたちで横向きに倒れれば胸元に顔が埋められた。
顔は見えないのに、嬉しいんだろうなとすぐにわかる。すぐ傍から響くすう、と深く息を吸い込む音を耳に、柔らかい赤毛に指を通した。
「あなたのにおい」
少しばかりうろたえる。匂い、とは何を差すのだろう。香水の類いは使っていない。煙草などは吸わないが、加齢による体臭の変化ばかりはどうしようもない。
狼狽を悟ったものか、ふふとさやかな笑いが胸をくすぐった。顔を上げたルドルフがおかしそうに囁く。
「落ち着くんです。……新しいシーツは匂いがなくて」
少しだけ合点がいった。狭いシングルベッドからダブルベッドに買い換えれば、当然布団もシーツも全て新しいものにする必要がある。頬に触れる生地はまだ糊が効いていて少しばかり硬く、確かに匂いがない。
それでも結局自分の匂いとは何なのか、不惑を超えた男が若人の発言に悩むを遮るかのように、ぎゅうとルドルフが身を寄せてきた。薄い身体のほのかな温もりが触れ合う場所からじわりじわりと染み込んでくる。そっと抱いてみればとくん、とくんと、やさしい鼓動まで重なってゆく。こんな静かな触れ合いを心地よく思う。
そうしてするりと、耳に入り込んでくる呟き。
「それにベッドが広いと、あなたが、遠いから……」
さびしい。
カールはそっと、目前のつむじを見下ろした。
そんなふうに、消え入るような声で、シャツの背をぎゅうと握りながら囁くのは――何というか、反則だと思う。
先ほどまで明け透けな言葉で揶揄するような台詞ばかり吐いていた青年は、カールの胸の中で、カールに擦り寄りながらちいさく縮こまっている。この相反する二面が厄介なのだと、カールはベッドの上で天を仰いだ。わざとやっているなら大したもので、けれどこの子はこんなときばかり何の打算もない。
「ルドルフ」
名前を呼ぶ。ぴくりと震えて応える身体をそっと撫で、丸まる背に腕を回す。少しずつ少しずつ、けれど隙間もないほどに触れ合って抱き締めれば、おずおずと同じだけの力で抱きついてくる。
この、時にこまっしゃくれた青年が、何よりも抱き締められることが好きだとカールはもう知っている。抱き締めれば表情と口調が幼く崩れて、何の飾り気もない喜びと好きだという気持ちを露わにする。ほぼセックスのときにしか見せない甘えだが、それはつまり肉体と精神が追い込まれて極まって、そこまでしてようやく見せられるものということ。普段は難儀な有り様と複雑な心持ちから覆い隠している本心に相違ない。
「……君が望むのならいつでも、こうするから」
広いシーツの海なのに、真ん中でちいさく抱き合っている。
もしかしたら滑稽かも知れない。後々冷静になって、キングサイズでなくてもよかったなどと思うのかも知れない。けれど今は広い世界の中、二人きりのように思えて、それが心地いい。
いっそこのまま二人で溶け合って、白い波に消えてしまえたら、などと思う。けれど。
胸に抱いた子どもが不器用に頷いた。ぎゅうと抱き締められるのは二人が別の存在だからだ。年齢も、生まれた場所も異なる。ゆいいつ共通している記憶も曖昧で、でこぼこと噛み合わないこともある。もしかするといつかは離れて、全くの他人として生きていくのかも知れない。
けれど今、こうして抱き合えるならばそれでもいい。そもそも永遠も運命も確かめようのないものだ。ならば今この瞬間を大切に生きるべきだと、少なくともカールはそう思う。
触れ合い重なる体温と鼓動が今は何よりも尊く、愛おしい。そんな思いを込めて赤毛に唇を落としながら名前を呼べば、くすぐったそうな声で応える。素直にぎゅうと抱きつく姿に苦笑しつつ、次に顔が上がって目が合ったらキスをしよう、カールはそう胸に決めそのときを待った。