君が花待つ春の日の

 部屋に入る前に足を止めて、少しだけ息を整える。小走りで来たとは気づかれたくないし、はしたない女だとも思われたくはない。
 すう、はあ、を数回繰り返して、それからやっとカタリーナは主の部屋に踏み入った。
「失礼いたします。お呼びですか、ルドルフさま」
 スカートの裾を摘まんで、少しだけ膝を折る。それから顔を上げれば机上の書面から顔を上げる旦那さまの姿があった。ルドルフに淡く微笑まれて、同じように微笑み返す。けれど内心では少しだけ不安がちりちりと音を立てていた。細められるルドルフの目元には薄く疲労の色が浮かんでいる。
 とはいえ問い質すことはできず、こちらへ、と誘われるがままに歩み寄る。机を挟んで夫に向かい合えば、すっと羽ペンを差し出された。
「お呼び立てしてすみません、カタリーナ。貴女のサインを頂きたくて」
「まあ、今度はどんな悪戯をなさるのかしら」
「悪戯だなんて、人聞きの悪い」
 そう言いながら立ち上がったルドルフは手ずから椅子を引いた。交わす言葉は軽妙だが、腰を据えてしっかり確認して欲しいということなのだろう。
 署名が大切なのだとルドルフはことあるごとに話している。間違いなく権利を有する、確かに正式なものだと目に見えるかたちで残せるのだと。口約束では消えてしまうが、書面にしたためることで見えない義務や、権利や、誓いは効力を発揮するのだという。カタリーナにはぴんとこないが、確かにかたちを持って存在するものは力を持つのだろう。何せ昨年の晩秋、いやと言うほど実感したばかりだ。ある案件について、夫ルドルフがカタリーナの父親にして皇帝であるカールに提出したいくつかの権利書と過去の署名は、未だに解決しないまま溝になって引き摺られている。
 ペンを手に傍に寄り、主の椅子にそっと腰かける。カタリーナの目の前に示された書状は一枚。他の書類は少しばかり乱雑に机の端に積まれている。
 その様を視界の端に、カタリーナは件の一枚を手に取る。しばし黙読すれば、傍らのルドルフが読み終わりを図ったかのように補足してくれた。
「今年は火事が多いでしょう。ブドウもあまり育ちがよくないと聞いています」
「……そうですね。先ほど少し、町の様子を見てきました。皆疲弊しているようです」
 ルドルフの話はカタリーナも耳にしていた。この春先に相次ぐ火事は城にいても届く喧騒になることもあり、また上階の窓から遠く見えるブドウ畑も例年より緑が薄い。場所によっては炎の裾に舐められて、茶色い野原になっている畑もある。
 カタリーナは他所から嫁いできた身ではあるが、ここウィーンを自分の故郷と同じように愛している。遠くから見つめるだけでは飽き足らず、今日は庭の散策ついでに少しだけ市内まで足を伸ばさせてもらった。おかげで夫からの呼び出しに小走りで戻ることになったのだが、それは内緒の話である。
 城下では行き交う人たちも復旧作業に勤しむ者たちも皆、表情に陰りを落としていた。それも当然だろう、カタリーナの目から見ても町の立て直しは追いついていない。人足も資材も不足しているし、そうして作業が滞る間に次の火災に見舞われている場所もあるようだった。そして不足しているものを補うのにまず必要なのは、間違いなく資金である。
「ではこの書面は――各所の立て直しには元手が要る、ということですね」
「ええ。貯め込まれた使わない財産はこんな時にこそ吐き出してもらわないと。以前父上が定めたものを、少しだけ、拡大したものです」
 少しだけ、のところで、ちょっとばかり夫の声が強くなった。つまり言うほど『少しだけ』ではないのだろう。どう『少しだけ』引き算をしてみても、亡き義父――ルドルフの父にして賢公と呼び慕われた人が、こんなに有無を言わせない条例を定めるとは思えない。
 心の中でそっと溜め息をつく。またぞろ、カタリーナの父を怒らせたように宰相殿と共謀したのだろう。文面はカタリーナにも領内の聖職者や貴族たちの反発を招くと容易に予想できるものだったが、これもまた父の件のように一歩も譲らず、あるいは平然として押し通すに違いない。
 ならばカタリーナに否はない。強引ではあるが市井に急務の立て直しは必要なのは事実でもある。カタリーナにできるのは夫がよりよき道へ進めるよう支えるだけ、私も確かにこの人の政策を認めますとかたちにするだけだ。羽ペンの先にインクをつけて、夫の名の傍らに自分の名前を添えた。
「これでよろしいかしら、悪戯っ子さん?」
「ええ。感謝します、カタリーナ」
「もう……お忙しいのはわかりますけど、きちんとお身体も休めてくださいね?」
 身を屈めて頬に口づける夫がカタリーナよりも今したためたばかりの署名の方に熱い視線を注いでいると、気づいていないとでも思っているのだろうか。
 去り際の夫の頬をむにりと掴んで引き留める。間延びした顔で困ったように微笑むルドルフの、うっすらと青黒い目元を指でなぞった。そっと、けれどすぐさま解かれ逃げられる。何でもないみたいに笑って軽やかに言葉を紡ぐ姿は、あまり好きではない。
「冬ももう過ぎましたが、ベッドの冷たさが堪えますか? そのことについては毎夜申し訳なく思ってますよ」
「……そうですね。倒れるなら机の上でも床の上でも馬上でもなく、ちゃんと私の胸の中にしてくださいな」
 精一杯の軽やかさで返してみても、零れる溜め息は止められない。
 ちらりと机の端に目を配る。積み上げられた書類は何についてのものだろうか、その全てをカタリーナが知ることはできない。そもそもルドルフはあの宰相を始め、ごく限られた者以外に己の知見を知らしめる気はないのだ。
 積み上がる羊皮紙の山の、一番上の一枚に踊る不思議な模様。これがその証左で、カタリーナがそろりと手を伸ばしても咎められないことが明確な隔たりである。
「……それこそ、ただの悪戯ですよ。カタリーナ」
 苦笑するが遠ざけはしない。夫にとって大切な、あるいは秘匿しておきたいはずのものなのに。それも当然で、紙面は見慣れない模様ばかりで埋め尽くされている。文字によく似た様々な形は、まさしくルドルフと彼の許した者だけが読みうる秘密の文字だ。
 子どもの悪戯みたいに、けれど決して伝えるべきではない者に知られないように慎重に綴られる何か。仕方ないけれど少しだけ悔しく思う。触れることは許すけれど、何をしたためているかは教えない。大胆で狡猾な夫なりの信頼と拒絶だ。だってもっと徹底的にカタリーナに触れさせまいとするならば、そもそも机上に広げたままにはしないだろうし、そもそもこんな文字を用いていることすら悟らせない。カタリーナには見せてもいいという優しい信頼で、それからきっとカタリーナには読み解けないだろう、という寂しい信頼でもある。
 蔦のようにくるりと端が丸まる文字を指でなぞる。触れているのに理解できない、ルドルフそのもののよう。
 いつかここに綴られた言葉を知ることができるのだろうか。そのいつかの時には先ほど連ねた二つのサインのように、寄り添う夫婦の姿になっているだろうか。あるいは今がこの人に寄り添う距離の限界なのだろうか?
「カタリーナ」
 降る声にはっと顔を上げる。ルドルフの指が静かに髪に触れ、するりと梳いて離れていく。その指先には小さな花があった。深いピンクのそれは見覚えがある。火を逃れ健気に咲き続け、見る者の心を慰めようとする花もあるのだと町で見上げた一本の木。
 小さな花弁に口づけてルドルフがまた微笑む。
「……ユダの木ですね」
 深い赤紫の花は、救世主を裏切ったユダが首を吊り命を絶ったと言われる木に咲く花だ。
 手のひらを取られ、そっと花を落とされる。そのままルドルフの手は再びカタリーナの髪に触れて、ここにも、と何度か手櫛を通していった。はらはらといくつも花が落ちて、カタリーナは花弁よりも鮮やかに頬を染めた。息を整えてそっとスカートの裾を摘まんでみせたって、頭に花を乗せていたのでは台無しだ。
 手のひらにちいさな花の山を作ったまま、羞恥に黙り込むカタリーナの額に「取れましたよ」の言葉と唇が落とされた。
「貴女は俺を裏切りますか?」
 時間が止まったような気がする。
 視界の中、手のひらの赤紫と、机上の書面に踊る読めない文字がいやに鮮烈に存在感を放っている。
 わかっている。真に賢い者はきっと、どれほど優しく語りかけていても一本の線を引いている。父だってそうだったし、ただひたすらに愛と信頼だけで事を成せると思うのは愚かでしかないとカタリーナだって思う。天を睨む夫は賢らしく、どれほど聞き触りのいい言葉にも何かしらの打算があるのだと知っている。夫がそんな人でも、いいやそんな人だからこそカタリーナは愛おしく、妻として誇らしいのだ。
 今のサインだってそう。自分にできるのはこの人を支えることだけだと、心の底から思っているのに。
 こうして言葉で、声で、直截に問われてしまうと――ルクセンブルクのカタリーナは、ハプスブルクのルドルフに寄り添うことなんて、結局できないのではないかと。
 ほろりと眦から何かが落ちる代わりに、鮮烈な花の色が手のひらから零れた。
「カタリーナ」
 視界と身体がぶれて傾く。裏切りの花も信頼の文字も隠れて、カタリーナは夫に抱き締められていた。
「すみません、傷つけました。……花びらにも気づかないほど急いで来てくれた貴女が、そんなことするはずないのに」
 耳元で囁いて、花の落ちた髪に頬を寄せられる。
 肩に回るルドルフの腕に、緩く身体の力を抜く。少しだけ身を預ければ腕に力が込められた。
 カタリーナだってわかっている。ルドルフだってわかっている。そんなことをするはずがないと、迷いなく口にしてくれた。そして今こうして、彼が悪戯だと呼ぶ文字を隠すこともしないのはルドルフにとって最大の信頼だと確かに知っている。
 それでも子どものように試したくなるのだと思う。声による言葉は曖昧で口約束では足りなくて、署名こそが大切だと言う賢い夫でも――もしかすると賢いからこそ、幼い衝動に抗えない。
「……本当に仕方のない人」
 皇帝たる父を怒らせたり、聖職者や貴族たちの反発もどこ吹く風と施策の舵取りをする癖に、たった一人、ただのカタリーナを相手にするとこんなにも幼い。
 空っぽの手のひらを広げて、夫の背に腕を回す。カタリーナの父よりもルドルフの父よりもまだ幾分小さくて薄い背中が、どうしようもないこの人が、カタリーナは愛しくて堪らないのだ。
 ぎゅっと力を込めれば、許された子どもみたいにほうと吐かれた息が耳朶を擽った。
「私はずっと、貴方の傍にいますよ。貴方とこの町を愛していますから」
 口約束では足りないと、ルドルフはペンを走らせる。
 けれどカタリーナは声にすることをやめない。足りないと、自分でも気づかないままに不安がる愛しい人をいつでも身ひとつで慰められるのは言葉なのだから。
 署名もなく消えてしまうこの言葉が、いつかこの人に刻まれて永遠の誓いになればいい。そう願いながら――カタリーナは温かい腕の中、そっと目を閉じた。
18/4/26 1361年 大火事の続く日々の最中に

1.
この年火事や凶作が相次ぎ、市経済を直撃する。ルドルフは父アルブレヒト2世賢公が1340年に発した聖職者への財産寄贈を規制した条例を拡大し、免税特権を廃止。一般市民同様税金を払うべしという条例発布する。
2.
ルドルフは文書に定期的に署名し、カタリーナも特別な機会に署名した。
3.
またルドルフは機密事項に関して暗号Alphabetum Kaldeorumを用いることを好んだ。これは後に彼が「建設公」と呼ばれる由縁となった墓碑にも刻まれているものである。
4.
ユダの木はセイヨウハナズオウの俗称である。イスカリオテのユダがイエス・キリストを裏切った後この木で首を吊り命を絶ったためと言われる。
5.
なお1361年はルドルフが「大公」を詐称し、その根拠として宰相ヨハン・リビと共謀した大特許状を皇帝カール4世に提出した後である。