優しいほどにひどい人

 しく、しくと、ほとんど音のような声が響く。人の気配のないここではやたらよく響いて、それがまた悲しい。
 どこにも届かない声は高い天井にこだまして、跳ね返って、大きな窓から差し込む太陽の光といっしょになって降ってくる。自分が漏らしたはずのそれに肩を打たれて、痛くて、何が悲しくてこうなっていたのかも思い出せない。
 もうずっと、自分はここで一人泣き続けて、涙も涸れて干からびて、ひっそりと死んでしまうのではないか。そんな考えがふわりと湧いて、泣きっぱなしの喉が切れそうなほどに引きつった。しゃくり上げる腹の底がひっくり返ったみたいに震えて、震えて、このまま心臓まで暴れ出しそうだと思った。口から飛び出して床の上を跳ねて、そしてそのままぴたりと動きを止める。
 死ぬ、というのはそういうことだ。つい先ごろの夏に見送ったように、静かに別れるということ。
 もう微笑んでくれることも頭を撫でてくれることも名前を呼んでくれることもない。父上、と袖を引いても、どうしたんだい、と答える声は――
「アルブレヒト」
 ない、のに。
 頭の上に影が差した。刺すように降っていた泣き声がやわく遮られて顔を上げる。水を通してぼやけた世界に、午後の濁った逆光に浮かび上がる人。ないはずの声。ない、のだから、違う声。
「どうした、アルブレヒト」
「……にい、さん」
 違うはずなのに、全然違うはずなのに。どうしてだろう、似ている、と思ったのだ。
 ひくり、としゃくり上げる隙間に呼んだ声は、掠れていてとても聞けたものではない。けれど今はそれを恥じることすらできなかった。ぽろりと水が落ちるに任せて目を丸くする。既に当主と呼ばれ臣下に傅かれる立場にある兄が、外套の裾が汚れることも厭わず身を屈め片膝をつく。
 あ、と声が漏れた。何か兄にとんでもないことをさせている、そう思った。瞬間、また腹の底が震え始める。
「に、ぃさ、ごめっ、なさ、」
「何故謝る?」
「ぅ、だって」
 なぜ、と訊かれてもわからない。ただ兄が服を汚して、自分の隣に膝をついて、そして目線を合わせている。そのことにどうしてだか涙が出て止まらない。どうして――わからない――それでも問われたことには答えなければならない。父に代わり臣下たちと言葉を交わす兄の、あまりにも高くて遠い背中が頭の中に浮かび上がる。今は手を伸ばせばきっと届く場所にいて、目線を合わせてくれているから見えない背中。
 ひっくひっくとみっともなく鳴る喉を抑えつけようと息を吸って吐いて、繰り返す。まだ大きくならない体が跳ねるように震えるだけでひとつもよくはならないし、だんだん頭がくらくらしてくる。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、濁る午後の日差しがちかちかと瞬きまで始める。水に潜ったように音が遠くなって、耳が痛む。目の前にいるはずの兄の姿が霞み始めて、代わりにぼんやりと、とうに別れたはずの父の姿が浮かび上がる。
「アルブレヒト、構わないから」
「ふ、あ?」
 痛む耳に柔らかく入り込んでくる音。
 声がずっと近くなった。目の前が真っ暗になった。
 目を刺す光が瞬き弾けたのではなく、閉ざされている。そう気づいたときには顔がぺったりと何かに押しつけられていて、すぐ耳の近くからとくん、とくんと律動が響く。背中からすっぽりと包まれて、苦しくはないけれど身動きができない。
「目を瞑って。……ゆっくり、息を吐け」
「ふ……」
 言われるまま、覆い隠されている目をそれでも閉じる。震える喉を宥めながら長く、ゆっくりと息を吐く。ざあっと、耳の奥で水が引く音がする。変わらず刻まれ続けるとくんとくんという音と同じ間隔で、とん、とんと背中を優しく叩かれる。喉と、腹の底の震えが律動に同化していく。
 どれほどの時間が経ったのか。ほとんどいつもの呼吸を取り戻した頃になって、そっと体を離された。自分は変わらず片膝を突いた兄の、腕の中にいたのだと知る。その姿を見てももう、腹の底が震えることはない。けれどこれでおしまいとばかりにぽろりと頬を滑り落ちる、涙だけは止められなかった。
「落ち着いたな」
「はい……に、兄さ、あのっ」
 急き込んで口を開くが、また目の前をよぎる影に遮られる。影は目元でわだかまって、それから頬に硬い感触。温かくはないけれど冷たくもない人肌。ペンや剣を握る兄の硬い指先が頬から目尻をゆっくりとなぞり、こぼれる涙をすっかり拭い取ってしまった。
 どうしても言いたいことが言葉にならない。戸惑ううちに兄は全てを制し、やわく声で遮ってしまう。見なくていい、言わなくていいとでもいうように。
「皆が探していた。謝るなら私ではなく後ほど皆に、心配をかけたことを謝りなさい」
「はい……」
 こんなふうに。兄は全てを知っていて、間違いなくそして簡単な道をすぐに示して背中を押すのだ。
 それはとても楽に息ができる、兄なりの慮りのはずなのに。
 どうしてか、どうしても居心地が悪くて、そして悲しかった。
 悲しいままに俯けば、咎められて落ち込んだとでも思ったのだろうか。兄の指は額まで伸び、そのままくしゃりと前髪を掻き回された。するりと耳に入り込んでくる声は泣き喚く弟を見つけたときに口にした問いと同じもの。
「……どうした?」
 どうして泣いていたのか。そっと落とされた問い。一人きりで泣き喚いた痛みは既になく、思い出せなかった悲しみの理由をゆっくりと辿っていく。兄はじっと待っている。指先だけが羽でくすぐるように頭を撫でてくれていた。
 少しだけ滲みの残る視界。午後の濁った光。輪郭を少しだけぼかす兄の姿に、寝台の上で微笑んでいた父の姿が重なった。兄と父は似ていない、そう思っていたはずなのに。
 とはいえ――もっと似ていないのは、自分なのだけれど。たぐり寄せた涙の理由を、恥じ入りながら口にする。
「レオ、に」
「うん」
 末弟の名前が出ても、兄は頷いて先を促すだけである。あるいは既に予想していたのだろう。
 けれどここから先、肝心の理由が情けない。またじわりと目端に涙が浮かぶが、兄の眼差しと触れる手のひらが俯くことを阻んだ。引きつりそうになる喉で、どうしようもなく恥ずかしくて単純で、馬鹿みたいな顛末を絞り出す。
「……レオに。『どうしてそんなに兄上は駄目なのですか』と。『父上にも兄上たちにも似ていない』と」
 二つ下の弟にきつく責められて――有り体にいえばいじめられて、投げられたことばが反論の余地もなく全くその通りで、どうしようもなくて泣きながら逃げ出した。そうして誰にも見咎められないように、人気のない城の片隅でさめざめと泣いていたのだと。あまりにも情けない。こんなだから弟に、レオポルトに詰られるのだ。
 だって本当に、どうしたって弟の言うとおりだ。民衆から慕われ惜しまれながら逝去した同じ名前の父のように穏やかな性分ではないし、賢くなれるとも思わない。今頭を撫でてくれる十も離れた兄のように強くもない。二つ上の兄・フリードリヒのように長兄の助けになろうと努めているわけでもないし、弟のように勇敢でもない。この先も父や兄や、あるいは弟のようになれるとは思えない。自分はどうやったって、レオポルトの言うとおり『駄目』なのだ。
 またぽろぽろとこぼれてくる涙を兄は咎めなかった。情けないことを言うなと怒ることもなく、そんなことで泣くなと呆れることもしなかった。
 ただ――ふっと、笑った。
「お前はそう思うのか。自分でも、レオポルトの言うとおりだと――アルブレヒト?」
 その微笑は侮蔑を含んだそれでなく、心の底から慈しんでいるように見えた。
 兄が何を思って問うたのか。わからない。兄の心がわからないなんていつものことだ。弟はそんな兄の強くしなやかなことばを間違いも迷いもないものと尊敬していたし、次兄も弟ほど盲目的でないまでも兄の声には間を置かず頷いている。戸惑って立ち止まって、考え込んでしまうのは自分だけだった。
 こんなことはいつものこと。だから弟に責められるのも当然。
 いつもで、当然だと思っている。思って受け入れているけれど――なぜかこのときは、兄の見えない心が酷く恐ろしく、そして弟の兄への、言ってしまえば信仰みたいなものは間違っているのではないかと。そう思った。
 されど兄のことばに沈黙を貫くことなどできようはずもなく、さりとてこの不安を別のことばで返せるわけもない。たいそうな間を置いて、結局肯定を示して頷いた。
「私は兄上たちのように賢くもないし、レオみたいに勇敢でもない。弱くて、臆病で……」
 そんな自分を言い訳という盾にして、このままであろうとしている。
 とてもそこまでは続けられない。曖昧にことばを濁したままちらりと上目で見上げれば、兄はゆっくりと頷いた。
「アルブレヒト」
 名前を呼ぶ声はとても優しい。まるで父みたいに。
 けれど――続くことばは、たぶん父ならば言わない。
「お前は弱く臆病でいろ、アルブレヒト」
 また目尻を辿る指。温かくも冷たくもない少し硬いそれ。
 けれど今は、じっとりとした熱を宿してやわく解けている。拭った涙を広げるように、兄はひたりと片頬を手のひらで包んだ。
 理解しかねた。真意が読めないから、ではなく、たぶん拒絶したくて。問うように見つめても兄の瞳は静かなまま、ほのかな微笑を湛えている。
 例えば父ならば、駄目なところを打ち消すぐらいの良いところを教えてくれただろう。次兄ならばそんなことはないよと否定してくれると思う。弟はもっとちゃんとしてくださいと変わることを促す。
 けれどこの兄だけは、そのままでいろと言う。弱く臆病なアルブレヒトのままでいろと。
 それはもしかすると、とても優しいことなのかも知れない。無理に変わる必要はないのだという、待つ優しさ。確かに父も同じものを持っていた。
 でも――兄のことばは本当に優しいのだろうか?
 弱くて、臆病で、恐がりで疑り深い自分が問う。心を読んだわけでもないだろうが、兄は問いで答えた。
「ハプスブルクが帝位から遠のいているのは何故か、わかるか?」
「……選帝侯に選ばれなかったから、ですか」
「そうだ。では、何故我々が選ばれなかったかは?」
 少し考え、それでも思いつかず首を横に振る。兄はやはり咎めることもせず、静かに正答を明かした。
「我らが強大だと恐れられたからだ、アルブレヒト。お祖父様――そう、お前と同じ名のアルブレヒトお祖父様も一度はそうして帝位から遠ざけられている。強く賢いということは生きるために絶対に必要だが、弱い者たちから敬遠される」
 選帝侯を弱い者と断じた兄は、若きハプスブルクの当主はふっと笑う。
 考える。強く賢いということは生きるために必要なのに、帝位を得るためには障害になる、らしい。そして自分には弱く臆病でいろと言う。
「曾お祖父様が、神君ルドルフがローマ王に選ばれたのもそれだ。ほんの弱小貴族だと、御しやすいと見なされたからこそ曾お祖父様は選ばれた。無論、曾お祖父様は選帝侯どもが侮るような器ではなかったが」
 だから、と続く。兄の瞳は底の底まで見透かそうとでもするようにじっと、こちらを見つめている。兄の瞳に映る自分はやはり情けない表情で、そして強い視線から逃れることすらできないのだ。
 兄の言うことは、わかった。わかったつもりだ。
「我らは選択肢を持たねばならない、アルブレヒト。強い者、賢い者、勇敢な者。それだけでは得られないものがあるのだと、弱いからこそ辿り着ける場所があると知っているのだから」
 だから弱く臆病なままでいろ、と。
 それはきっととても優しくて、とても酷い。自分は求められていないのだと思う。いつか強くなることも賢くなることも勇敢になることも望まれていないし、許されていない。詰られて、呆れられて、震えて一人片隅でうずくまって泣く。そんな自分のままでいる。とても楽で、とても悲しい。
 それに、自分がこのままでいて、もしも弱いからと選ばれることがあってもだ。自分は到底、偉大なる神君のようにはなれないと知っている。兄とて語っているではないか。曾お祖父様は弱いと見なされただけで、鋭い爪を隠し持つ大鷲だったからこそこの家をここまで大きく育て上げ繋いだのだ。例え弱く見られても、真に才がなければ結局何の意味もない。
 そっと、兄の手が離れる。思わず視線で追えば離れたはずのそれが戻ってきて、今度は目を覆った。さんざん泣いて引き攣る目尻ごと隠されて、指の隙間からわずかに光が見える程度だ。
「……お前が案じることは何もない」
 声が近い。耳に直接吹き込まれるような近さで、くすぐる吐息に首を竦める。
 兄の声の、優しくて甘い響きに安堵を覚えそうになる。
「仮にお前が盲いていても、どうしようもなく愚かでも、手足の自由ままならぬ不具の身だとしても。お前が玉座にいて何の支障もないまでに俺が道を敷いてやる」
 覚えそうになる、のであって、決して安堵などできない。
 すいと、兄の手が離れた。隠されていた間の表情を窺おうと即座に顔を上げるが兄は既に背筋を伸ばし、裾の汚れた外套をなびかせて立ち上がっている。十も離れた兄に背を向けられてしまえばもう盗み見ることも叶わない。
 戻るぞ、と呼ぶ声には既に優しさも甘さもない。臣下を恐れさせる若き当主、遠い背中の兄だ。
 弱く臆病な弟が声をかけることなどとてもできやしない。けれどもしも、二つ下の弟ほどの勇気があったなら。あるいはもっと、真実愚かであったなら、その背に問うていただろう。
 兄は言った。俺が道を敷いてやると。仮に時が来たなら、何不自由なく皇帝という椅子に登らせ座らせてやると。
 では、兄自身は?
 何故兄自身がそこにゆこうとしないのか。あるいはゆけると思わないのか。
 兄の心はやはりわからない。わからないけれど――それはとても優しくて、酷くて、何よりも悲しいことのように思えて目元を擦った。少しだけ滲んだ涙はやはり、午後の濁った光に兄の輪郭を溶かしてしまう。
 理解できなくても、届かなくても、そして恐ろしくても。それでもその背が消えるところは見たくない。兄を見失いたくはなくて、アルブレヒトはちいさく駆け出した。
18/1/28 1358年 賢公の死んだ年の秋あたり