心はここへ置いてゆく

 あまり、訃報を待ちたくはないな。
 呟いた声は雪の白に吸い込まれ、深として消えてゆく。六花がやわく降りしきる中、忙しなく馬や装備を調える兵たちの耳になど当然入るべくもなかった。
 ことばと共に流れた吐息もふわりと立ち上ったのは刹那のこと、今はもう見えない。あの子のようだと思い、また自分の心もこのまま消えてしまえば楽だろうにと思う。もしかしたらこの呟きと同時に、まさしくあの子の命の灯火も消えてしまっているのかも知れないのだから。
 知らせを聞くだけでも数日かかるのに、峻峰な山々はこの季節、特に厳しい顔を見せる。だからこそ遠く飽くなく焦がれる。一人の少年の命の行く末を、まるで遊戯の駒のように見つめることになっても。心も消えてしまえれば、などと、ほんの刹那願ってしまったとしても。
「貴方は置いていかれるばかりでしたか」
 目の前に杯が差し出される。見返すまでもなく、差出人は己の片腕だった。山越えのための装備をまとめてきた男を見つめ、笑う。
 ばかり。ばかりと来た。静かに微笑を湛える男が誰を指しているのか、理解できるが共感はし難い。男とてわかっているだろうに、わざわざ問うて口にさせるのは実に良い趣味をしていると思う。
「俺ばかりが不幸だとお前は思っているのか?」
「いいえ、全く。どれだけ賢くとも、愛情深くとも――そして哀れでも。先に生まれた者と弱い者が先に死ぬのは世の理ですから」
 鼻で笑って杯を受け取った。湯気の立ち上るそれは沸いた血のような赤。目の前を覆い、けれども消えていく白に目を眇めながら杯に口をつける。鼻腔に抜ける芳醇な香りが酔いをもたらし、そしてほのかな渋みが苛んでくる。
 賢くとも、愛情深くとも、哀れでも。先に生まれた者は先に死ぬ。体と心の弱い者も同様に。人の命は永遠でなく、名君と讃えられようと、まだ何をも成さぬ子どもでも、終わりの時だけは平等だ。幼い頃に見た黒い死が町を覆い、そして悼みの白煙が空に昇る光景はしっかりと覚えている。
 感傷は礎だ。踏み固めて更に最善へ辿り着くための。振り返ることはあっても囚われてはいけない。我々は未来を見据え、民衆を導くものである。黒の大鷲は高く舞い、鋭く空を裂いていけばよい。地上を歩く民が見上げるに迷うことのないように。
 けれど――だから、ほんのひととき、振り返ることだけは許して欲しい、と思う。
「それでも自分より幼い者が先に死ぬのは、あまり見たくはないな」
 初めは一番上の弟。そして今回。一年も経っていない。
 あの子とは同じ城で数年間育った。あまり体が強くなく自分を見ては一歩引くような大人しい子だったが、秋には後見人の目を盗み単独で動いたと聞いている。彼がそのとき成したことは必ず繋いでやるつもりだ。
 あるいは、弟にしろ彼にしろ、未来には刃を向け合う関係になったのかも知れない。それでも現実ではなく仮定である以上、彼らは己が護るべき民草のうちにある。うちに、あった。
「私もですよ、ルドルフ様」
 重ねて、失礼いたしますという声。頭に触れられて少しだけ首を傾ける。視界の端を白が舞い落ちた。
 主君の髪から雪を払い落とした臣下は、慈しみ深い老爺の面持ちで口を開く。
「この老いぼれより若い者が死ぬ様は見たくありませんので」
「――は」
 しなる唇に、残るワインを注ぎ込む。平らげる。
 酒精の混じる息を吐けば世界が白く曇り、そして直に開けていった。
 空の杯を男の胸に押し返す。小揺るぎもしない男は本当に、当たり前を口にさせるのが好きだ。まるでことばに、声にすれば、絶対の現実になるとでもいうように。
 無論だ。この唇が紡いだ言の葉で、繁り実りを結ばぬものがあっていい訳がない。
 そして己に――ルドルフ・フォン・ハプスブルクという主君が育てる木に捧げる水を、支える添え木を、入れる土を賄うのはこの男なのだ。
「ならば俺が死ぬことのないよう、念入りに調えろ」
「無論です」
「そしてお前もだ、ヨハン」
 空の杯を胸に、恭しくこうべを垂れる男に言い含める。
 冬のアルプスを越える。年も明けて早々、聞く者が聞けば愚かと呆れる所業を間違いなく恙なく成さなければならない。それも可能な限り早く、速く、疾く、誰よりも先にだ。三家が虎視眈々と狙っていたあの地を制するのは自分たちだ。そして自分が欲しいのはその先に繋がる道。誰にも奪わせはしない。
 ならば己の命はもちろん、この当代一と称される男も失うわけにはいかない。老いぼれなどと嘯いて先に退場するなど看過はできず、ならばむしろ一層励んでもらわなければなるまい。
「先に生まれた者が先に死ぬのが道理でも、お前にそれは許されない」
 亡き父の治世にあって、伯母の思惑の傍近くにいた。今やこの男の心の根がどこに伸びているかは知らないが、鷹の城の片隅にでも巣くう以上、最期まで見届けてもらわなければならない。ヨハン・リビは大公ルドルフの共犯者であると、既に世に周知されているのだから。
 道理に合わないと理解しているだろう。それでもヨハンはまるで待っていたと言わんばかりに微笑んで、殊更に深く首肯した。
「――御意に」
「……ならば報が届き次第発てるように」
 続くであろう返答は聞かず、踵を返す。羽織った外套がふわりと撓んで、冷たい空気が背中を押した。
 前へ、前へ。できる限り遠くへ。できる限り早く、速く、疾く。明日をも知れぬ浮き世の空を裂いて一条、しなる弓のように駆け抜ける大鷲となれ。父祖より受け継ぎ、百年を超える先まで繋ぐべく。
 ならばもうしばらくは、振り返ることはしない。白い空気は一歩、一歩と踏み出すごとに後ろへ流れてゆく。靴裏で鈍く悲鳴を上げ固まる白は礎に等しい。
 だから、せめて。あの子を――あの子たちを思う、心はここへ置いてゆく。
18/1/15 1363年 チロル獲得のための山越え前