こうてこいていこうこうこうと

*BL/R-18

 燭台に灯された橙の光が、石壁にゆらゆらと影を描いている。
 ん、と微かな音が響く。声ですらない、喉を鳴らす音。跪く男はちらと目線だけを上げた。きゅうと眉根を寄せて俯く姿。その後ろにゆら、ゆらと、影が波打っている。実物よりも過剰に、けれどずっと素直に応える印。気づかれないように頬を綻ばせる。万一見られた場合にはきっと常よりもきつく目を細めて見下ろしてくるのだろう。しかし今の主には、反応こそさやかなものだが到底そんな余裕はない。
 肘掛けを掴む手の甲に筋が浮いている。細く夜に罅を入れる、きしりという音を確かに耳に捉える。主が堪えているのだと確かに悟り、改めて男は顔を伏せた。目前で濁りのない涙をこぼす屹立に、宥めるように舌を這わせて拭い取る。
「――は、」
 ぴくり、と震えるのは手をかけた腿の内側。日に当たることのない白いそこと、ついに声を漏らして反る喉元。見上げる位置では主の表情を窺い知ることができないのが残念だ。代わりにつるりとした剥き出しの先端に敬愛を込めて口づける。耳に心地よい喘ぎが声を伴って落ちてくる。
 捧げ持つ幹も恭しく触れる指先に震えを伝える。頭上の喘ぎがだんだんと浅く、速くなっていく様を的確に聞き分けながら放埒を導いて吸い上げた。びくんと、一段と激しく主の体が跳ね上がる。
「ぁ――、ぅ、さ……っ!」
 達した瞬間、俯いて丸くなる背。咄嗟に口元を覆った指先から零れる音をひとつひとつ、確かに拾い上げながら、男は口内に放たれた白濁を飲み下した。湿った夜に、殊更にごくりと喉の鳴る音が響く。ゆるゆると背を伸ばす主がこちらに向ける険しい視線は微笑で受け流した。
 口の端に伝う白を指先で拭い取る。ぬるりと滑るそれを脱力した主の奥へと伸ばしても、長い足が男の顎を蹴り上げることはない。眼差しのわりに明確な拒絶がない代わりに受け入れることもなく、濡れた指が閉ざされた場所に触れた瞬間だけ、反射のように尊い身が跳ねた。
「今日、は」
 細い声が落ちる。ほんのわずか頬に朱を差し、主は愁眉を寄せて整いきらぬ呼吸に音を混ぜて吐く。落ちた前髪がふらりと左右に振れた。
「……いい」
「左様ですか」
 主が否と言うのであれば否。ただし男は極めて忠実な臣下である。主が己が意に反するのであればこれを糾し、過ちであると見れば諫めもする。
 はて今宵はどちらかと、不敬は承知で不要と断じられた指を少し進めた。纏うぬめりを借りて、ほんの爪の先が肉の裡に触れる。そこはちゅうと吸うかのごとく、赤子の甘えつくに似て男を許しながら、しかし喘ぐ唇は意思を曲げない。
「や、ヨハ、んっ!」
「……物足りないようですが、今宵はこのままお休みに? それとも、若君お一人で慰められるので?」
「ぁ、う」
 ばさばさと、揺れる髪が男の声を拒む。まだ少し奥へ進めても、白い足はもどかしく揺れるだけ。何より主は「若君」と呼ぶ声を拒まない。
 主君たる姿であれば、この呼び方を拒絶する。秘め事の間のみ若君と呼ばれることを許容していると、この若き主とて気づいているだろう。その滑稽も、弱さも。
 だからこう呼んで差し支えないうちは、主の肉体は快楽を享受する構えがある。されど濡れておぼつかない声も、艶かしく歪む表情も、震える仕草もこれ以上の行為を拒んでいる。
 全てを混ぜ込んで天秤にかけ、やがて男は結論を出した。まだと吸いつく蕾からそっと指を引き抜く。掠れた声を上げる主にこうべを垂れる。
「失礼いたしました、若君」
「ん……」
 恐らく無理に進めれば、肉体は受け入れたとしても精神が明確な拒絶を示しただろう――長くしなやかな足で男の顎か鼻先を蹴り飛ばすなどして。自身が痛手を受けるのはもちろんだが、水際で静けさを保つ主の心をそのようなかたちで乱すのは男とて本心ではない。
 皮膚の薄い内腿と、膝頭、最後に上等の彫刻のように筋を浮かび上がらせる足の甲へ口づけ、額ずける。着衣を整える衣擦れの音をしっかりと拾い上げて後に見上げれば、未だに色を残しながらも主としての姿に戻りつつある青年が疲れた様子で椅子に沈んでいた。
 このまま送り出せば、主は一人の冷えた寝台に身を収めて眠り、偉大なる血族の当主として昼の姿へと戻るのだろう。
 だがしかし、体はまだ満たされていない。男に踏み込ませない心を隠している。隠している、と見せている。そして堪えきれず放埒の刹那に零した音。名前。
 膝をついたまま、男は主の夜の裾をそっと踏む。
「先ほど、」
 潤みを湛えた目が胡乱に細められる。そこに映り込む燭台の赤い灯がゆらりと、揺れた。
「お呼びになった『ちちぎみ』は、どちらです?」
 肉体の望むまま、無理に行為を進めて主の心を乱すような真似はしない。
 けれど主が、いかにも触れて欲しげにさらけ出す傷口には、謹んで爪を立て、抉り、痛みを呼び覚まして差し上げたいと思う。
 消極的な被虐に、男は恭しく加虐を捧げる。ちくり、ちくりと刺して刺されて、痛み揺れて、踏みとどまって、そうして若き主は己のかたちと己の場所を確かめている。
 若き鷹の城の王がまだ羽ばたき方の知らない雛のうちから、穏やかでありながら強かな不具の鷲に守られている姿から見守ってきたのだ。例え歪だとしても、誰よりもしなやかに見えるように。尊き身がそう在るように。曖昧な誰かと、誰よりも主自身が望む在り方で在れるように。そのために男は陰に日向に、夜に、傍らにいる。
 己の歪みを当然理解しているであろう賢い主は、果たしてどこまで自覚しているだろうか。酷く疲れた様子で、うっすらと微笑んで臣下を労った。
「……お前はほんとうに、良い性格をしている」
「お褒めにあずかり光栄です」
 ゆるく着衣を整えた主は下衣こそ引き上げているものの靴は放り投げたまま、未だに白い素足を晒している。それがゆるりと持ち上げられて緩慢に弧を描き、やがて男の俯く胸元をついと突き上げる。促されるがままに見上げる。
 主にはいくつもの二面性がある。例えば冷静と苛烈。例えば壮烈と細心。そして今、夜の淵で主が見せる二面は――さながら幼童と寡婦だった。
「我が敬愛の『ちちぎみ』が誰かなど言うまでもない。そうだろう?」
 誰もが知る答えをもったいぶって問う悪戯小僧の口ぶりで、ゆるく持ち上げた口の端を誘う欲情の唾液で濡れ光らせて。主はそう嘯いた。
 燭台の灯が揺れる。石壁に映る主の影は揺るがない。黒は夢見る少女のような慕情を夜の奥底に押し込めて隠す。男は瞼を閉じてじっとして踊る影を視界から追い出し、ついでにそっと、目前で浮く主の御足を押しのけた。
「そういうことにしておきましょうか」
「それがいい。……全てを詳らかにすることが正しいとは限らないからな」
「まったくです」
 最後にそれらしく頷きながら落とされる繰り言を咎める意味も含めて、捧げ持つくるぶしに口づけた。ぴくりと跳ね上がる様は童のそれで、燻る色は既に消えてしまったように見える。先ほど男自らが口にしたとおり、そういうことにしておく。近くに転がる主の靴を拾い上げながら、男は頭上からは見えない角度で嘆息した。
 本当は、どちらか、など問うことに意味はない。主が求める『ちちぎみ』は――実父であれ義父であれ、突き詰めれば同じものを請い、乞い、そして恋いている相手だ。異なるのは初めに与えた者と代わりうる者、求められない相手と求められる相手、ということ。
 それでも敢えてどちらかと定めるならば――これは主が理解していて自覚していないところかも知れないが――どろりとして濁って粘ついて、そういうものを遠慮なく投げぶつけられる、という点で自然と決められる。
 そして主は一人きりの冷えた寝台に収まり、一人で我が身を慰めて眠るのだろう。敬愛する『ちちぎみ』を想いながら、けれど可愛げのない剣呑たる鷲の王として目覚めるために。
 靴を履かせながら、男は最後に主を見上げた。煌々として揺らめく灯火は主の背に影を生み、光の中に夜を浮かび上がらせていた。
18/1/25