こいてこうていこうてこう
燭台に灯された橙の光が、石壁にゆらゆらと影を描いている。
影はふたつ。ついて、離れて、またついて。妖しく艶めいた軌跡を描いては消してゆく。重ねて微かな音。はあ、と熱を孕む吐息に、ぁ、と思わずといった風情で上がる秘めやかながら確かな嬌声。そしてはっと短く切れる余裕のない呼気。
女のもの、あるいは男のものがぽつぽつと落ちて混じりあう。燭台を傍らにした寝台の、白いシーツの上でふたつの肢体が絡み合っていた。
否、絡み合う、というには似つかわしくないかもしれない。影が映し取る姿は睦み合うと呼ぶには少々ぎこちなく、甘やかさに遠かった。ちぐはぐでどこか、どちらかが空回る。男から漏れる短く浅い息は追い詰められたように己を見失いつつあり、次第に女の声は喘ぎからちいさな悲鳴へと変わっていく。
やがて跳ねるように、痛、という声が女から上がる。それでも男の動きは変わらず、形良い乳房に顔を伏せている。ほのかな橙にも目映い白い丘陵は、剣呑に浮かび上がる歯に赤い果実を齧られて震えていた。もう、と急いた声を女が漏らしても男は飢えた赤子のように乳房にむしゃぶりついて離れず――やがて女はゆるりと、力なく腕を持ち上げた。
「もう、やめてくださいっ」
「……っ」
力づくで、といっても微々たる力ではあったが、それでも頭を押しのけられて男はぱっと顔を跳ね上げた。あるいは鋭い女の声がほんのわずかでも刺さったか。いずれにせよ自由を取り戻した女はシーツを手繰り寄せ、胸を庇うようにして緩く体を縮こまらせた。
対して引き剥がされた男は呆けた表情で女を見つめている。まるで夢から覚めたばかりといった体で、この男にしては珍しく遅鈍に状況を理解したらしい。シーツの上で居心地悪そうに居住まいを正す。上半身の夜着のみはだけ下肢はまだ着衣を乱していなかったのは不幸中の幸いと言おうか。辛うじて彼が仰々しく称する名を台無しにするほどの威容ではない。
とはいえ、続けて呟いた声は市井の、ことに彼に追い込まれている貴族や聖職者たちが聞けば耳を疑うような、弱々しいものであった。
「すまない、カタリーナ。……少し、我を見失っていた」
「……もう」
女――カタリーナはゆるゆると息を吐き、肩を落とした。シーツを纏い、項垂れる男に膝でにじり寄る。そろりと手を伸ばして男の頬に触れる。カタリーナは男より少しばかり年下であったが、その仕草はしょぼくれる子どもを宥める母のそれであった。
「少しお疲れなのではないですか、ルドルフさま」
カタリーナの指先に触れる男――ルドルフの頬はひやりとして、暖色の灯りにも白く見える。カタリーナの肌のような美しさのそれでなく、どちらかというと青に近い不健康な色だ。かもしれない、と答える声は少しばかり掠れていて昼間の苛烈さは鳴りを潜めている。領内の諸侯たちが聞けば泣いて喜ぶかもしれない。
尤もカタリーナは、ルドルフが彼の片腕と共に矢継ぎ早に施策を打ち出していることと、領内の権威と富ある者たちがそれによって悲鳴を上げているらしい、ということしか知らない。彼女の務めは政を支えることではなく、彼の子を生み鷹の城から続く血を次へ残すこと。そして何よりもこの剣呑な――今はしょぼくれているが――若き当主を、彼女の父、つまり神聖ローマ帝国皇帝に繋ぎ留めること、ハプスブルクとルクセンブルクの両家を結びつけることである。それはカタリーナがまだことばも覚束ないうちに決まっていたことで、生まれたときから定められていたといって差し支えない。
彼女のこれまでの一生は彼の傍らにあった。けれどこの夫のことを、カタリーナはほとんど理解できていない、とも気づいている。
彼女の歩み寄りなど彼が求めていないことも、あるいはもしかすると遠ざけたいと思っていることも。
それでも手を伸ばすことしかできないから、カタリーナは胸元にルドルフを抱き寄せる。拒まれないことを悲しいと思うのはずいぶん前にやめていた。
「今宵はもう、おやすみになったら?」
やわらかい髪を撫で、諭すように促す。しかし胸に抱いた頭は逡巡を含んで横に振れた。
カタリーナはこの夫のことを炎のようだと思う。黒死に覆われた街で毎日のように焚かれていた、魂を天へ昇らせる弔いの火。あるいは春頃ウィーンの街を舐め、人々を疲弊させた大火。一気に燃え上がりすべてを蹴散らして、いずれふつりと消える。恐怖の象徴でありながら物悲しく儚い感情を孕むもの。
似ている、と思う。追い立てられるように激しく燃える様。刹那の輝き。生き急いでいるのだと、カタリーナにすらわかる。どこを目指しているのか、それは見えないけれど。
だからきっと、彼は早く次への約束が欲しいのだ。もちろんそれはカタリーナではなく、まだ幼い彼の弟――カタリーナの義弟たちでもない。己の裡から噴き上がる衝動に突き動かされてか、彼の伯母や、宰相たちから世継ぎをと急き立てられているのかはわからない。
わからない。彼女は後を残し、諾々とルドルフの進む道に従うだけ。彼の考えていることも、取り巻く状況も、その指が下す号も、目指す先もわからない。
けれど知っていることがある。彼の家臣たちよりも伯母よりも、確かに知っている。誰よりもはっきりと。カタリーナだからこそ。
やわくルドルフを押し返す。拒絶ではない程度の力で、夫も大人しくされるがまま。ぺたりと両頬を手のひらで挟んで、どこか疲れた色を隠せていない顔を覗き込む。瞳を見る。ゆらゆらと、燭台の灯が映り込んでたゆたっている。重なる影は向き合い覗き込むカタリーナのもの。
けれど――ちらりと、影が閃いた。カタリーナの背後に居もしない姿を映して、そしてそれはルドルフの瞳を、視界を覆い尽くす。
なんて正直なのだろう。
カタリーナはふうと息を吐いた。片頬から手を離し、人差し指で夫の額をつんと突く。いた、と全く痛そうにない声が上がる。
「わたし、」
瞬く夫をそっと突き放して、カタリーナは告げた。
「妻よりも義父に夢中になっているようなひとに、抱かれたくはありません」
「…………は、」
疑問。不理解。嘲笑。吃驚。ため息。嘆息。
カタリーナは夫が漏らした声を表す言葉を探した。どれでもあってどれでもない。唯一言えることは、どうやらこの朴念仁には自覚がなかったらしい、ということだけ。自覚とはつまり、閨でまで義父を想っている、ということのだ。
膨れた頬を隠しもせず、カタリーナはシーツを引っ張り上げた。寒々しい姿のルドルフはその流れに乗ることができず、白い浜に取り残されている。ちょっとぐらいの意趣返しを許して欲しくて、拗ねた声音で言い募った。
「お気づきになりませんでした?」
「気づく……いえ……」
歯切れの悪い言葉は逆接で淀む。カタリーナはますますむくれる。
そしてそのまま、脳裏によぎった考えを口にした。
「そんなにお父さまが恋しいのなら、わたしではなくお父さまと結婚すればよろしかったんだわ」
「それは――既に」
不意に、声がはっきりと形を持った。今度はカタリーナが瞬く番だった。
ルドルフのかんばせに影が落ちている。燭台の炎がゆらゆら揺れて、照らされた表情も不規則に揺れる。すっと上がった面は静かで、そしてつい先ほどまでの夫の顔とは一線を画している。
鷹の城の若き当主はにこりと、うつくしく微笑んでいた。
「我ら貴族諸侯は帝国と――皇帝陛下と契りを交わし番っているも同然です。議会は愛を囁き睦み合うに等しい。だから既に、そう、結婚しているようなものでしょう」
幼子のようにカタリーナに触れていた唇が細く月の背を描いている。男が手を伸ばす、獲れぬものの象徴。
カタリーナにまっすぐに向かう瞳は赤い熾火を封じ込め、ちりちりと焦がす音さえ響かせる。燃え上がるのは恋にも似た苛烈な忠誠。君主としての矜持。
けれど――ルドルフが恋するのはカタリーナではなく。もちろん耳に心地よい言葉のままの相手ではなく。
「――うそつき」
ぽろりと、思わず声がこぼれた。
カタリーナの夫は呆れるぐらいうそつきで、嫌になるほど正直だった。だってここで自分が神に愛を誓ったのは貴女ですと、仮に心がここになくたって閨に相応しい睦言でも囁いてくれればそれでよかったのだ。なのにこの人ときたら正直に、夫婦の夜でだって君主としての己をやめることはできないと言う。そのことばだって夢を見るようなものだ。
カタリーナにはわからない、皇帝を敬愛していると嘘をついているのか、それとも本心から、敬愛ということばの刃を向けているのか。知っているのは――本当にカタリーナの慕う旦那さまは、根っから、心底、妻よりも義父のことばかり考えている、ということだけ!
堪らなくなって、手近に掴んだ枕をぼすりとルドルフに投げつけた。今度はちっとも痛くなさそうな空々しい声は上がらず、ぼすり、と重く受け止める音だけが返ってくる。枕だけでなく、果たしてカタリーナのことばも重く受け止めているのか。それは一切定かでない。
「出て行ってくださいな」
声を荒げることはなく、しかしきっぱりと告げる。カタリーナが何に憤っているのか、この聡い君主は理解しているだろうか。いやそもそも、カタリーナが憤っていることに気づいているかも疑わしい。
虚脱感と胸がつかえる苦しさにカタリーナは寝台へ顔を伏せた。夫を振り返ることはしない。今は熱のないシーツだけが彼女を慰めるよすがだった。
ぎしりと寝台が軋む。目を瞑って音を聞く。そのままルドルフの気配が遠ざかる――ことはなく、妻の傍で留まった。ゆら、ゆらと、燭台の灯のように躊躇いに揺れて、やがてそっと、壊れものにするようにカタリーナの髪のひと房を手に取った。それを拒むことはしないが、静かに顔を上げて受け入れることもしない。
「……愛しています、ほんとうに」
優しい声音で囁いて、ルドルフは静かに部屋を出る。
一人残った寝台の上、カタリーナは深く深く息を吐いた。最後の最後まで、誰を、とも、何を、とも言わなかった夫の、どうしようもない正直さに呆れてしまって。
「失礼致します」
一人きりの執務室に聞き慣れた声が混ざり込む。ルドルフが顔を上げれば年嵩の男が一人、部屋の入り口で佇んでいた。尤も、こんな夜更けにたった一人でいる主を訪ねる家臣などこの男ぐらいのものなのだが。
視線だけで促せば、男は恭しく頭を下げて入ってくる。その手にはいくつかの書状が見える。
「本日はお休みになられたと思っておりましたが、灯りが見えましたので。折角ですからいくつか書面を確認していただいても?」
「……いいだろう」
是を返せばするすると机上に羊皮紙が広げられる。まず一枚目、内容はまだ歩みを始めたばかりで形らしい形も定まらない、ある施設の建設計画書である。
煌々と照らされたそれに目を通しながら、ルドルフは全く別の――とはいえ今目の前で広げる書面を始め万事すべてがそこに収束するのだが――案件について呟いた。
「プラハの方は?」
「特には。ですが大公位の件もハンガリーの件も耳には届いているかと」
「だろうな。ハンガリーに関してはわざわざ漏らしてやっている。届いていなければ困るが……まだ動きがないというなら、それはそれで構わない」
どちらの件もプラハの御仁を相当に煩わせるはずだが、目立って動きがないのであれば僥倖である。そもそも先方は立場ある者として多忙を極めているだろうし、ルドルフの打ち出す施策の大半は彼を煽っているようなものである。全てに逐一反応していたら身が持たないだろう。無論、ルドルフからすればそのまま破滅してもらって大いに結構なのだが。
あるいは昨年末に提出した特許状に毒気を抜かれたか、はたまたアクエイリアを押さえるために成した和解を疑っていないのか――いや、ない。彼は穏やかではあるが現実主義者である。人の善性を頭から信じるような人物であればどれほどやりやすかったことか。まだ冬に生まれたという待望の息子の養育に忙しい、とでもいう方が現実味がある。
ふと、視線を感じて顔を上げる。互いに片腕だと認め、また自負する男は好々爺の面持ちでルドルフを見つめていた。主の呼吸を読んだものか、何かと問う前に口を開く。
「今晩はどうされたので?」
この男以外に、主に正面から訊ねられる家臣はいないだろう。ルドルフは口の端に笑みを乗せた。己の宰相の豪気を好ましく思ってかここにいる経緯に自嘲してか、曖昧なところである。
「妻に追い出された」
「おや」
男は仰々しく目を瞠ってみせる。わかっていただろうに。
もはや苛立つこともせず、ルドルフは椅子の背もたれに身を預ける。天井を仰ぎ長く長く息を吐いた。
「自分ではなく義父上と結婚すればよかったのに、と」
「……おおかた予想はつきますが、何とお答えに?」
「既に結婚しているようなものだと」
今度は主ではなく臣下が、長く長く息を吐く番だった。ただし主のそれとは違い、多分に苦笑を含んでのものである。
年寄りはこういう話が好きだなとつくづく思いながら、ルドルフは差し向かいに立つ男を見上げた。
「朝に昼に晩に、片時もなく物思う様は確かに恋に似ていますか。しかし貴方の愛は重たく鋭いですから」
「無論だ。そうでなければ勝てない」
「恋や愛は勝ち負けではありませんよ、若君」
妻のことを指しているのか、義父たる皇帝のことを指しているのか。上方から注がれる笑みからは判然とせず、ただやたら温い温度で男は蘊蓄を詳らかにしている。
しかし年長者の世話焼きは多かれ少なかれ眠れる獅子の尾を踏むものである。こればかりは切れ者と名高いこの男でも同じらしい。続けて彼の口をついて出た名前に、ルドルフはピクリと片眉を跳ね上げた。
「アグネス様の下では政を充足に学ぶことはできても、色恋や閨事は学べませんでしたから」
「――ヨハネス・フォン・リビ・プラッツハイム」
名前を呼ぶ。それ以上はやめておけと、言外に含めて。
「『当代一の大教養人』は夫婦仲にまで助言するのか、ヨハン? それに俺はもう『若君』じゃない」
「……失礼致しました、ルドルフ様」
聡い臣下は――ヨハン・リビは食えない笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
どこまで本気なのか、いつでも本気なのか。小さく、聞こえよがしに舌を打ってもヨハンの笑みは揺らがない。こういう肝の据わった男だからこそ自分の急進において要石足りうるのだが、それでも癇に障ることもある。
既に持ち込まれた書面を検める気も起きず、ルドルフは行儀悪くかけた椅子の前足を浮かせた。ぎしぎしと、職人作りの精緻な椅子を揺らしながらまた天井を見上げる。ルドルフの未だ短い人生の中、それでも遠く懐かしい過去と苦々しさの走る記憶を思い返して。
「愛の囁きの一つ二つを覚える間もなかったことは確かだな。ただでさえ俺の周りには甘い言葉を囁きたくなるようなご婦人はいなかった」
思えばカタリーナのような女性は初めてかも知れない。結婚して七、八年。婚約からはそれ以上経っているがルドルフは未だにそう思う。新鮮と言おうか、不可思議と言おうか。
慈しみと労りを大切に、愛を求めて与えようとして、穏やかに微笑んで。政には口を挟まず、つかず離れず夫に従う。皇帝位を手にした父親が余さず惜しまず愛を注ぎ育てた娘からは、勝者の余裕に似た甘さを覚えるのだ。ルドルフの見てきた、家を残し、守り、育て上げようと立ち回る女性たちとはあまりにも異なる。
「アグネス様もヨハンナ様も、お強い女性でしたからね」
主が既に気を散じたのを察したのだろう、忠実な臣下は書状を元通り丸めている。この息をするよりも楽に通じ合える男とて鷹の城の強き女性がもたらしたひとつだ。ルドルフはアグネス――齢七十を超えてまだ健在の、伯母との縁で巡り会った。
ハプスブルクの重鎮として座す彼女にルドルフは感謝しているし、敬愛もしている。ヨハンをもたらしてくれたことはもちろんだし、政の感覚は彼女に手ほどきされた部分も確かにある。
だが既にこの家は、曾祖父たる神君ルドルフより続くハプスブルクはルドルフの采配するものである。父アルブレヒトが兄弟を失い自らの体の自由も失い、それでも母ヨハンナと共に守り通したものだ。例えハプスブルクの矜持があったとて伯母のものではない。父から鷲の紋章を引き継いだのは、ルドルフだ。
伯母に対する主の複雑な胸中すらヨハンは心得ている。ルドルフの黙考の間を同じく黙して守り、そして静かに口を開いた。今度は押しつけがましい年寄りのお節介ではなく、妻と同じ慈しむ面持ちで。
「今から覚えればよいのです、ルドルフ様。カタリーナ様は貴方の不器用も仕方がないと待ってくださるでしょう。既に貴方は『若君』ではなく、ハプスブルクの当主ですが――まだお若い。愛を学んで、そして育む時間はあるのですから」
「時間はある、か」
詭弁だ。
ヨハンもわかっているだろうに。なのにこうして諭すのは優しさか、長く生きた者のせめてもの助言か。止まることのできない青二才の、死に物狂いで生き急ぐ様を心の片隅ででも哀れんでいるのだろうか。
いずれにせよルドルフは刹那の休息もできない。時間には限りがある。少し立ち止まる間に周囲は、国は、世界は複雑に様相を変えていく。戦争に次ぐ戦争の時代でなくても、明日何が起こるかはわからない。人々がまだ立ち向かう術も知らぬ病は潜んでいるし、すぐには消し止められない火事だって起こる。凶作に貧して喘ぐこともある。思いがけない死が襲ってくることだってある。ルドルフの父アルブレヒトがそうだった。
まだ父の世が続くと思っていた。ルドルフの出番はまだ先だと。
楽観だった。父はかつて毒を盛られ、一命こそ取り留めたものの歩くこともままならない身となった。ルドルフが生まれたときには既に不具の身で、外へ赴く政は母のヨハンナが務めていた。初めから丈夫な体ではなく、それでも父の世の続くことを疑わなかったのは彼が息子の前では――否、誰の前でも常に穏やかで強かだったからだ。無理をしていたわけではないかも知れないが、それが自然な振る舞いだったとも今となっては思えない。
だから、時間などない。例えば明日、この手足が動かなくなるかも知れない。目は何も映さなくなるかも知れない。耳には何も届かなくなるかも知れない。号を下すべき喉が潰れるかも知れない。
義父はもちろん、領内の諸侯たちから自分が反感を買っていることはよくよく知っている。明日の自由の保証など一つもないのだ。
妻には悪いが――きっと自分は最期まで、あの包み込むやわらかさに応えてはやれないだろう。
今更愛の言葉なんて覚えられない、そんな時間があるなら少しでも駒を進めたい。皇帝、という至上の座へ向かって。
今更恋なんてできない。ルドルフの恋い焦がれる想いはハプスブルク家当主の息子として生まれたときから既に、たった一つ、たった一人へ向かっている。妻が結婚すればよかったのにと嘯く存在へ。
ぎしりと、軋む音を聞く。それは自らの胸から響くに似ている。椅子の揺らぎを止めてルドルフは目を閉じた。
「……ワインでもお持ちしましょう」
ヨハンの声に、答えることなく頷いた。するりと遠ざかる気配を感じる。
きっとヨハンのもたらす、杯に注がれた聖人の血にもあの人を見てしまうのだろう。この恋を赤に沈めて止めてしまえればどんなに楽だろうか、などと。少し先の自分を笑い、目を開く。ルドルフの向かい合う先に、今は誰もいない。