第1話 1



 夢を見ている。自覚はある。
 だが自覚があっても動けるわけではなく、本郷大和は自身を取り巻く光景を受け入れるだけだった。
 いつものことだ。今夜も同じ。発想が貧困なのか実体験が不足しているのか、はたまた他の要因か、大和の夢はだいたいいつも似たような光景で始まり、同様に終わっていた。
 花見をしている。場所は昔住んでいた家の近く、小学校に入る前まではよく母と遊びに行っていた公園だ。花見の名所というわけでもない、ただ桜が植わっていて、ブランコとか滑り台とかジャングルジムとか、そういう定番の遊具があるだけの公園。住宅地の隙間に無理矢理作られた、子どもたちの楽園にして奥様たちの情報交換の場だ。
 とはいえ大和が見ているものは夢だった。大和がこの公園を訪れていたのは先に述べた通りで、よくても小学生までのことだ。中学校に上がる前に大和は引っ越してしまったから、だから今見ているように「今の大和」が母と、そして父とこの公園で花見をするなどあり得ないのだ。
 大和は主観と同時に、自分の後ろ姿というかたちで大和自身を見ている。いかにも夢だ。動かそうと思っても自分の体は自由にならず、ゆいいつ視点だけが大和の意志に従って動いてゆく。
 だから手を伸ばしても届かない。動かない。
 すぐ目の前、淡い桜色の花びらの向こうで、今は亡き母が、父が笑っていても。
 大和にはどうすることもできない。悲しさや切なさに泣くことだってできやしない。
 胸が張り裂けそうで、どうせ夢ならばせめてもっと優しいものであればいいのに、などと恨んでみてもだいたいいつも似たような光景の繰り返し。
 だから大和は慣れてしまった。視点を上に動かす。見上げる桜は大和の夢のすべてを丸ごと包み込みそうな大きさで、見事な枝ぶりを晒している。樹齢何十年、といった趣の堂々たる様だ。記憶の中の公園にあるほっそりした桜とはまったく違う。
 いつもこうだ。いつの間にかこうだ。この桜は――そう、あの桜だ。
 不意に夢の中に風が吹き荒れた。視界が淡い桜色でいっぱいになり、夢の中の大和は腕で顔をかばう。大和も目を瞑る、という感覚に身を委ねる。
 そして次に目を開いたとき、桜に浚われたかのように母と父の姿はかき消えていた。
 いつものこと。いつもの夢だ。大和はこんな夢をずっと繰り返している。
 だが、今日の夢は少し違った。
 消えた両親の代わりに、誰かの姿があった。誰なのかはわからない。未だに舞い散る桜の花弁が、大和の前に立つ誰かの姿を覆い隠している。
 誰なのかはわからない。だが大和はこの姿を、この人を――知っている?
 誰かが口を開いた。こちらに手を伸ばしている。大和も手を伸ばそうとする。体は動かない。だって夢だから。胸が痛い。何もできない自分がもどかしくて悔しくて、この心のめいっぱい、たくさんの気持ちが、ことばが渦巻いているのに何も伝えられない。変わらない。
 せめてこのことばだけでも届けばいい。大和は叫ぶように口を開く。やはり声は出なかったが、桜吹雪の向こうの誰かが何かを答えた、ような気がした。
 雪崩のような桜がすべてを覆い隠してゆく――


「ピロリロリ〜ン! グッド、モーッニング! おはようございます大和くん!」
「……うあ」
 起床早々、呻いた。
 ゆっくりと開いた視界には白い光。暗いまどろみの世界から引き上げられてすぐでは眩しすぎる。奇声の主によるものか、既にカーテンは開け放たれていた。
 目を瞬く。少しずつ現実の光に目を慣らしていけば、大和の頭上で影が動いた。逆光の中、徐々に像を結んでいく。大和の横たわるベッドの傍、輝かんばかりの満面の笑みで、大仰に両腕を広げる男性が一人佇んでいた。
 例えば町中ですれ違ったら。十人のうち七人は二度見するか振り返るだろう。それが女性ならなおさら。そういう、人目を惹く容姿の男性である。甘い茶髪にすっきりした目鼻立ち。いわゆる「イケメン」に分類されるだろう。
「ようよう少年よう、今日はまた一段と門出に相応しい日だぞ! 天気は快晴、鳩はぐるっぽ! 見ろあの雲一つない青空を、燦々と輝く! 黄色い! 太陽を!」
 ただし言動と行動が非常におかしい。顔の良さなど台無しである。
「いや太陽は、黄色じゃ、いてっ、起きます起きますって!」
 例えば町中ですれ違ったら。十人のうち九人は二度見するか振り返るだろう。老若男女問わず。その奇行に驚いて。ついでに言うと、理解しがたい個性的なセンスのイラストが光るTシャツにくたくたのスウェットパンツも顔の良さで霞んでいるがなかなかのものだ。
 朝から異様なテンションの台詞に、ついでのようにばしばしと掛け布団を叩かれ、大和は慌てて体を起こした。伸びてくる手を避けながら掛け布団を畳み、ベッドの上に正座する。改めて見上げる相手は相変わらず輝く笑顔を浮かべていたが、その実妙にふらついているようだった。
 ああ、これは今日も午前様だったんだなあ。この人のせいで覚えてしまった年齢にそぐわぬ形容を脳内で用い、大和は礼儀正しいお辞儀でため息を隠した。
「……おはようございます、アツヤさん」
「ちょーッス! おはよう大和!」
 敬礼のようなよくわからない仕草で、異様なテンションの男ことアツヤ――小池敦矢は改めて朝の挨拶らしい何かを返してきた。そのままびしりと腕を伸ばし、カーテンどころかガラス戸も網戸も全開にされた窓の向こうを指さす。
「さあ、改めて見るがいい少年よ! 本日は晴天なり、見事に――入学式日和だぞ!」
 やたら朗々と響く声に呼び込まれでもしたのだろうか、見計らったようなタイミングで一陣の風が入り込んでくる。目を眇めて見上げれば敦矢の言うとおり、雲一つない抜けるような青が広がっていた。
 ふと、雪のように舞いよぎるものがある。風に運ばれてきたらしい花びらが青の中ひらひらと舞っていて、そのひとひらが部屋の中に入り込んでくる。行方を目で追えば、滑るようにフローリングの上に落ちた。淡い色をした、桜の花弁だ。
 一瞬、大和は夢を思い出した。いつもの夢。けれどいつもとは少し違った、夢。
 しかし今の大和には、どこがどういつもと違っていたのかはもう思い出せなかった。夢とはそういうものだ。掴もうとしても掴めない。現実ではない、幻。
 敦矢はまだ意図の不明瞭な台詞をうつろな目で吐き続けていたが、大和は取り合わずベッドから足を下ろした。桜の花びらを拾い上げようと手を伸ばし、ふと手を止める。
 花びらが寄り添うように落ちた傍に、膨れ上がった黒いドラムバッグが置いてある。そこから視線を上へとやれば真新しい学ランが吊されていて、更に部屋全体を見渡せばさっぱりと片付けられた大和の部屋が広がっていた。
 敦矢の言うとおり、今日は入学式日和だった。
 大和は今日から高校生で、そして今日から、寮生活を始めるためにこの部屋を出て行く。
「ツヤ、大和起きたか……っと、起きてるか」
 吊した制服の横、開かれたままのドアからひょいと覗き込む男性が一人。
「おはよう、ノリ叔父さん」
 短く切りそろえた黒髪に、敦矢ほど派手ではないが端整な顔立ちの男性。ワイシャツの袖を捲り、スラックスを穿く姿はすっかり見慣れたものだ。家主にして大和の叔父、友部正則である。
 そして正則は敦矢の、正しくは敦矢が正則の旧知の友人であった。正則は大股に部屋に踏み込んで、歪に開いた唇からそろそろ冒涜的な呪文めいた何事かを吐き出し続けている敦矢の頭をばしばしと叩く。
「おはよう。式は午後からだしまだ寝ててもいいんだが、ツヤが起こしてくるって聞かなくてな」
 ごめんな、と付け足す正則は眉尻を下げて苦笑しているが、未だ止まらぬ手の動きは存外とえげつない。敦矢も忘我の呟きではなく「あたっ、いてっ!」と意味と感情を伴った悲鳴を上げ始めている。
 確かに、制服の掛かる壁から更に横へと視線を移せば、朝の七時前を指している。
 とはいえ、入学式が午後からだからといって、春休み最後の惰眠を貪ろうとは端から思っていない。だいたいの荷物は既に寮に送り、細やかな荷物も既にドラムバッグに詰めて憂いのない今日だからこそ、式に赴く前にやっておきたいことがある。大和は正則の言葉に首を振った。
「ううん。午前のうちに行きたいとこあったし、これぐらいに起きれて助かった」
「そうか。……そうだな」
 正則の目が細められて、大和は思わず視線を逸らした。羞恥心のような、あるいは罪悪感のような、どちらにも当てはまらないような。そんな感情に駆られて。駆られる必要も意味もないはずなのに。
 大和の仕草を正則が追求することはなかった。代わりに視線を手元の親友に向け、最後にべしんと甘い茶色の頭頂部を叩く。
「おら、大和起きたんだからお前は寝ろ寝ろ」
「ちょ、待て待てノリ首根っこ掴むな! ここでこのまま俺が寝たら大和起こした意味なくね? 俺が馬鹿みたいに騒いだだけで終わるだろうが!」
「おーすごいぞツヤ。馬鹿だって自覚はあったんだな」
「馬鹿にすんな、そんぐらいとっくにあるわ! ……ん!?」
 猫の子のように襟を掴んで引きずられる敦矢が慌てた様子でもがき始める。大和は素知らぬ顔で――何せいつものことなので――寝間着にしていたジャージを脱ぎ、随分中身の片付いたチェストから適当なパーカーとスキニーを引っ張り出して着替え始める。
 大和がのそのそと着替える間にも叔父とその友人の攻防は続いている。無理矢理引きずってゆく正則は明らかに寝不足な敦矢を心配しているのだと大和は知っているが、さて敦矢はどうだろうか。戸口になんとか組み付いていた敦也の指が無常に引きはがされリビングへ消える様を、大和は合掌して見送った。それからゆっくりと二人の後に続き、大騒ぎをする大人たちを横目に洗面所で顔を洗ってからリビング兼ダイニングへ戻る。
 そこではいい大人がソファによしよしと寝かしつけられていた。否。いい大人がソファにどうどうと、まるで暴れ馬のごとく押さえつけられ押し込められていた。
「いやだ〜〜まだ寝ない〜〜! ボク大和くんに言いたいことあるの〜〜!」
「何歳児だお前は。どっちにしろそんな顔して行けないだろ、さっさと寝とけ。ほれ、羊が一匹、羊が二匹、三匹四匹五六七八匹〜」
「うわーんノリが雑だよー!」
 三四歳児たちの戯れを聞き流し、冷蔵庫から取り出した牛乳をグラスに注ぐ。寮に牛乳って常備されてるのかな、などとぼんやり考えながら、大和はグラスを手に食卓に着いた。
 テーブルの上にはトーストとインスタントのポタージュに、レタスとプチトマトが飾られたベーコンエッグが一人分。それから不揃いに切られたリンゴ入りのヨーグルト。ごく稀に敦矢が用意すると意外にも手の込んだ純和風の朝食になるため、今日はいつも通り正則が用意してくれたのだろう。これぐらい自分でできるから、と言っても、元々やってたついでだから、俺がやりたいからと言って正則にはやんわりと断られてしまう。
 そして一人分。敦矢は恐らくこれから就寝の朝帰りなので、恐らく正則だけ先に食べてしまったのだろう。朝でも夜でもできるだけ一緒に食事をしよう、とは、大和が正則の家で暮らし初めて最初に言われたことだが、今日はよほど急ぎの用事があるらしい。
 そこで大和は首を傾げた。今日は大和の入学式だからと、叔父はわざわざ一日休みを取っていたはずだ。しかしよく考えればワイシャツにスラックスの時点で出勤前の格好である。
「叔父さんも出かけるの?」
 九一億二三四五万の羊を数える叔父に尋ねる。正則は少しばかり眉尻を下げた。
「ああ、どうしても出てきて確認して欲しいことがあるって電話があってな。すぐ終わらせて帰ってくるし、入学式には間に合うから」
「ううん、気にしなくていいよ」
 大和とて午前中にやろうと思っていることがあるのは同じだし、叔父が忙しいことは知っている。細かな仕事内容までは聞き及んでいないが、正則の職場は結婚式場だ。それなりに責任ある立場らしいし、急遽休日返上で出勤するのも今回が初めてではない。
 そもそも正則は大和の叔父であって親ではない。本来ならば誰に気兼ねすることもなく仕事をしていていいはずだし、仮に実の親だとしても子の入学式に絶対に参加しなければならないということもないだろう。小学校ならともかく大和はもう高校生になるわけだし。
 いただきます、と手を合わせてから、きれいなきつね色に焼けたトーストを手に取る。ふと、視線を感じた。正則がもの言いたげな、複雑な表情を浮かべている――その顎に、飛び起きた敦矢の頭突きが決まった。
「任せろ大和、ノリがダメでも俺がいる! 俺と一緒に輝かしい、ラッキー! ハッピー! ハイ! スクールッ、ライフ! を始めようぜ! そう、ノリの分まで、そして俺の分までお前は生きろ! 薔薇色キラキラシャランラ〜な感じで! いいか大和青春は儚く短い! 俺がお前の歳の頃なんて――」
「おっ……まえなあ!」
「へぶっ」
 果たして敦矢には本当に、馬鹿みたいに騒いでいる自覚があるのだろうか?
 つい先ほどの発言が心底不安になる、明らかにまともな思考など通していない言動は頭突きから復活した正則のアイアンクローと共に再びソファに沈んだ。
 ソファの背もたれの向こうで浮き沈みする敦矢の足と青筋を立てる正則の横顔を眺めながら、大和はトーストの端にかじりついた。
「言動がいつもの倍増しでおかしいんだよ! お前が入学する流れみたいになってるだろうが、ボケるなら設定の統一ぐらいしておけ!」
「設定言うな! 違いますぅー俺が入学するんじゃないですぅー! 俺も入学式ついてくから置いてかないでね! 起こしてねって! ねっ大和!」
「えっ初耳だけど」
 トーストから顔を上げると同時に、ソファと正則の向こうで敦矢の頭が跳ね上がった。心持ち顎を上げ何故か誇らしげな表情を浮かべる叔父の悪友は、堂々と言い放った。
「おう、今初めて言った!」
「……別にツヤが行くこともないだろって言ったんだがな」
 聞かなくて、とため息をつく正則はつまり事前に聞かされていたのだろう。
 まず、大和の保護者とはいえ、叔父である正則が必ずしも入学式に参加する必要はないはずである。先にも述べたとおり。更にここで叔父の友人、となればもう、実情はともかく字面だけ見れば部外者だ。保護者席に座っていい立場なのだろうか?
 大和は思わずトーストを置き、しかし勢いのままに答えることもできず口ごもる。
「……別に、アツヤさんは」
「えぇ〜俺は仲間はずれなの? 俺、大和をそんな風に育てた覚えないんだけどぉ」
「そうじゃないけど! あと育てられた覚えもないけど!? ……今日も夕方から出勤だろ? せっかくゆっくりできる昼の時間なのに、無理に来なくても……」
「無理なんてしないし、夜の仕事だからって日中ずっと寝てるわけじゃないの知ってるだろ?」
 敦矢の声のトーンが変わった、ように思った。
 大和は知らず落としていた視線を食べかけのトーストからソファへと移す。そこにはすっかり起き上がり、じっと大和を見つめる敦矢が、そして同じような表情で黙っている正則がいる。ぐっと、何かが喉に詰まった気がした。
 しかしそのつっかえも瞬き一つの間もなく消えていく。今見たものは幻かと言わんばかりの勢いで、両手両足をばたつかせる三四歳児がそこにいた。
「ヤダ〜〜絶対行く〜〜! 俺もう決めてるから! 大和の晴れ姿見るまで夜しか眠れないから〜〜!」
「それ普通だろ!? いやアツヤさんの生活を考えるとそれは困るのか……!」
 思わずこめかみを押さえる大和の頭上に、ぺしりと軽い衝撃があった。
 見上げる。否、見上げるまでもなく、向こうから下りてくる。いつの間にかソファから大和の傍らに場所を移していた正則が、膝を折って佇んでいた。若干の咎めを含んだ手のひらがうりうりと大和の髪をかき混ぜる。
「迷惑だろうけど付き合ってやってくれ、大和。ツヤの奴、お前の入学式見に行くの本気で楽しみにしてたから」
「全然、迷惑とかじゃない!」
 はっとしたのは目前の正則が穏やかに笑っていたからだ。思わず声を荒げてしまった口元を手の甲で隠しながら視線を背けるが、頭の上の手のひらはずっと温かいままだし、正則の向こうに見える敦矢もふにゃりと相好を崩している。
 大和の考えなど、この大人たちには筒抜けだろう。筒抜けのはずなのだ。だからこのやり取りだって、大和が変に意地を張っているだけに過ぎない。結果はたぶん変わらないし、大和だって正則と敦矢に来て欲しくないわけではない。ただ本当に、申し訳ないだけで。
「……でもアツヤさん、来ていいのかな、とか」
 最後の最後、せめて形だけでもと無駄な意地を張りながら、大和はちらりと正則を見上げた。
「最近の入学式は両親二人どころか祖父母兄弟ご近所さんまで駆けつける家庭もあるらしいぞ。ツヤが一人増えたところで席が足りないなんてこともないさ。言動と行動は怪しいが、式の間ぐらい俺が黙らせておくし」
「酷くね?」
「それとも、それでもお前は嫌なのか?」
 果たして正則の話が本当なのかどうか、大和には判断できない。けれど今重要なのは真偽や正誤ではないと、大和もきちんと理解している。
 正則の問いかけに、大和はゆっくりと首を振った。
「嫌じゃない。……二人とも来てくれるのは、嬉しい」
「ああ」
「いつもありがとう、マサノリさん」
 答えも声もなかった。正則はただ破顔した。
 その表情を最後にぐしゃぐしゃと頭を撫でられたから視界から隠れてしまう。
 そのまま立ち上がる気配があって、声は大和ではなく向こうへと飛んでいく。大和は正則の視界に入っていないことを期待しながら、なんとなく目元を擦った。手の甲が少しだけひんやりした。
「ってことで。ツヤ、言いたいことは?」
「……ツヤの奴ってさ、逆から読んでも、つやのヤ」
「よくわかったさっさと寝ろ」
 次に大和が顔を上げたときには、再び敦矢をソファに沈める正則の姿に戻っている。
 今度は敦矢も子どもめいた抵抗をすることなく、ぼすりと大人しくソファに寝転がった。ただし、最後まで縋りつく声はまるきり拗ねた子どものものである。大和の位置からは見えないはずの敦矢の唇が、アヒルのように尖っている様が手に取るようにわかった。
「じゃあ俺は後顧の憂いなく寝るけど? 絶対起こせよ? 起こせよ!? フリじゃないからな!!」
「わかってるわかってる。また昼にな。おやすみ」
「おう! おやすみ!」
 呆れたような正則の声に、これから就寝するとは思えない威勢のいい返事。
 それから、一、二、三秒。
 ――スヤァ。
「……こいつのコレは、ほんっとにうらやましい特技だよな」
「……わかる」
 おやすみ三秒、という言葉を、大和は小池敦矢という人物で以て覚えた。
 大和は自分のことをあまり寝付きのよくないタイプだと思っている。今日見た夢も――あまり覚えてはいないが、いつもの夢だったという記憶だけは残っている。今は届かない人たちに手を伸ばす、淡い花びらに埋もれてゆく夢。
 正則の脱力しきった呟きに同意して、大和は一悶着あってもまだほんのりと温かいトーストに改めてかじりついた。ちらりとソファの向こうの窓を、春の淡い青空を見上げて。
 またひとひら、淡い花弁が青を横切ったような気がした。
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