1話



 ぴぃ――――……ひょろろ――――……
「おお、あれが」
 遠くこだまして広がる鳶の声に、どこか朴訥とした嘆息が重なった。
 青く高く抜ける空に、白い雲が鱗を成して並んでいる。その下では遠く鈍色の瓦屋根が波を作り、家並みを白壁の羅城が囲う。磨き上げられた黒曜の門は堂々と外へ開き、田畑山裾の黄色く色づき始めた緑を広く長く割る白砂の街道を悠々と招き入れていた。
 何よりも目を惹くのは都の最奥、霞を纏う朱の神殿だ。
 幾本もの柱が群れを成し、天辺には神楽殿を戴いている。地上から最上の神楽殿まで伸びる大階段など、一体どれほどの技と人と時を費やして作られたのかと嘆息するばかりだ。背後に引き連れた御山すら従える威容の前には市中にいくつか立ち上がる物々しい櫓すら玩具に見える。羅城の外からでもこれなのだから、きっと羅城の内で、あるいはあの神々しい柱の麓で見上げれば更に圧巻だろう。
 その風景は長い時をかけて精緻に積み上げられ、また日々細やかに手入れされてこそのものだ。天守閣を頂く雄々しい武家の町並みと違い、なんと気高く、雅で、楚々とした佇まいか。
 伊角耀灌は兜を押し上げた。どうどうと愛馬をいなして歩みを止める。雑雑と続いていた馬と人、車輪の音も、長く波を曳くように止まっていく。やがて街道を進む戦行列はゆるやかに歩みを止めた。
 伊角は全く以て武家育ちである。長男坊として生まれ、早くに父を亡くし、弟たちや彼らに与する家臣と権謀術数の末に家督を継いだ。領地を治め、周辺諸国と時に協調し時に裏を掻き、あるいは小競り合いいくさなど繰り広げ今の地位を保っている。詰まるところ伊角は、ヒノモトのどこにでもいる浮いては沈む大名の一人だった。
「若様、ついに御上洛ですな」
 幼い頃からの側仕えである虎八が馬を寄せてくる。
 伊角は三十も目前という歳だが、この男は未だに呼び方を改めない。いつもなら小言をくれてやるところだが、初老に差し掛かろうかという男の子ども染みた喜色に今ばかりは口を閉ざした。伊角とて同じ心持ちなのだ。
 代わりに、努めて厳かに答える。
「いいや、未だだ。あの羅城の内に伊角の威容を示し、何より――帝のお言葉を賜らねば」
 遠く霞む、朱塗りの神殿を伊角は見つめる。あの威容こそ、このヒノモトで最も尊い方が坐す場所だ。
 諸国を出し抜いて、領地領民を守るためにはどうすればいいのか。しのぎを削り合うばかりでは疲弊するだけだ。相手が変われば出方を変えるような流動ではなく、絶対的な力が欲しい。考えた末に伊角は協力的な周辺諸国を抱き込み、今上帝坐す七宝の国に渡りをつけ、此度の行軍を始めたのだ。
 帝。
 ヒノモトの統一を競う各国武家が、唯一畏れ敬う存在。あらゆる身分の上に立つ、古来より連綿と続く血の現人神。
 武家とは本来、帝の守護者である。帝の御側に侍るに相応しい最優の守護者を諸国が奪い合ううち、御所である都は争いから遠のき静謐と神聖の象徴として不可侵の地となっていた。
 下々の戦に、帝は何の言葉も発さない。今や一つの閉じた国である。
 ならばこそ、武士が言葉を賜るだけ、目通りが叶うだけでも、ヒノモト統一を図る各国諸氏にとっては大いなる意味が宿る。
「さすが若様、冷静であられる。この虎八、少々浮き足立っておりました」
「いや、無理もあるまい」
 恥じ入る側仕えに伊角は鷹揚に頷く。
 正直なところ、あの尊き羅城を眺めるまでに迫れるとは伊角自身思っていなかったのだ。
 周辺諸国を抱き込んだとはいえ、反発する何某かの横槍は大いに予想できていたし、そもそも先んじて送った書簡が無事に宮中に渡るとも、のみならず帝直々に返書が来るとも予想していなかった。
 即ち――『貴殿の来訪をお待ちしている』などと。
 押し上げていた兜を正し、伊角は今一度遠い羅城を見つめた。
 帝に通じる、あるいは帝を騙る武家などあろうはずもない。つまり帝本人――あるいは宮中かも知れないが――兎に角ヒノモトの頂きから伊角耀灌への、偽りなき詔なのだ。
 なればこそより一層、此度の平易な行軍が空恐ろしく思える。他家の腹の裡などはなく、宮中の思惑が、だ。
 上洛を考えた武家など、伊角の他にもいくらでもいただろう。実際、そのような噂も幾度か耳にしたことはある。
 しかし、上洛を果した、という話は一度も聞いたことがない。
 行軍を他家に阻まれたのかも知れない。伊角は周到な根回しで限りなくそれらを排除したが、断念せざるを得ない介入はもちろんありえた。でなくとも、領地外の行軍は時間も、金も、人も溶かすのだ。些細な過失で取りやめになる可能性は大いにある。
 だが。伊角の頭の片隅に、益体もない噂が過ぎる。
 曰く、七宝を守護する近衛府はあまりに強固で、戦慣れした兵たちすら寄せ付けない。
 曰く、招かれた者であっても帝に拝謁する値しないと判じられれば文字通り門前払いの憂き目に遭う。
 伊角は目を細める。先には感嘆の息を漏らした憧れの都が、今は空恐ろしさを以て佇んでいる。
「皆に今一度、伊角に相応しき威風を心がけよと伝えてくれるか」
「はっ」
 例え真実何が潜んでいようとも、伊角の武士は立派だと、ヒノモト守護に相応しいと思われる風体でなければ。帝のみならず七宝の市井にも知らしめ、風聞として諸国へ流してもらう必要がある。そのために伊角はただならぬ金子と人手とを駆使してここまで来たのだ。
 虎八が手近な部下に指示を飛ばす。若い兵が頷いて馬首を返せば、檄を飛ばす声が徐々に後方へ流れてゆく。
 伊角は兜の緒を締め直し、ついで緩めていた手綱をしっかと握った。主の心中を察し愛馬がぶるると鼻を振るう。
 並んでいた虎八が先を示して後方へ控えたのを横目に、伊角は静かに馬を進めた。馬と人と車輪の音が波がさざめくように続いてゆく。
 都の目と鼻の先ともなれば、羅城の外であっても道は相当に立派だ。仮にここで前から伊角と同じような行列が来たとして、なお真ん中にもう一列分も猶予を持って行き違えるほどだった。ここに至るまでで伊角の列は幾度か通行人と行き違い、あるいは追い越しているが、列を認めるや皆一様に道の端に寄り、僅かばかりの好奇の目で行軍を見つめていた。
 戦とは縁遠く、他国から閉じた七宝で武士の行列は物珍しいのだろう。しかしながら列を遮るような真似をする人間はいなかった。都への出入りを許されるとなれば相応の教養ある立場――商人や国々を行き交う飛脚――であろうし、そもそもそんな真似をせずともこの道の広さだ。物々しい行列に寄らずともいくらでもやり過ごせる。
 ならばこそ、徐々に見えてくる影はより異様に見えた。
「若様」
 後方からの虎八の声は鋭い。頷いて、伊角は軽く片手を挙げた。虎八の厳しい声が後方へと広がり、人や馬や車輪の音にがしゃがしゃと密やかな音が混じる。
 刃金が静かに身を起こす音。あるいは、静かな荒事の前触れ。
 伊角も手綱をいつでも絞れるように意識しながら、ちらりと腰に差した愛刀を見やった。
 市井への喧伝を多分に含んだ今回の上洛だが、例の噂話や、そうでなくとも他家の妨害は憂慮すべきものだ。であれば道楽旅をするような格好では有事の際に対処しかねる。さりとて帝の御前にあまりに物々しい装いで赴き敵意ありと取られてもいけない。結果として、戦場に赴くよりは簡易であるものの実用に耐える程度の武装で、伊角の列はできていた。
 余程のうつけ者でなければこの剣呑さには気づくだろう。思いながら、伊角は手綱を引いた。嘶いて愛馬が足を止める。
 後続の馬と人も足を止め、控えていた虎八が伊角の隣に馬を寄せた。険しい顔で行く先を見ている。恐らく伊角も同じ顔をしているだろう。
 戦行列が三つ並んで行き交おうとも、まだ余裕のある広い広い街道。
 その真ん中で、羅城を背負うように男が座り込んでいる。
 つまり――あからさまに、伊角たちの行く手を阻んでいる。ご丁寧にも、男は鞘に納めた刀を抱えていた。
「道を開けよ! 東国の領主が一人、伊角様のお通りなるぞ!」
 虎八の厳しい声が上がる。男は立てた片膝に額を預けるようにして座り込んでいたが、その声にぴくりと頭を揺らした。
 とろとろと顔が上がる。にわかに身構える伊角たちの前で、しょぼしょぼと目が瞬いた。半分ほど開いた口の端からは涎が伝っている。
 実に締まりのない顔で、男が声を上げた。
「……んあ?」
 あからさまに寝起きとわかる、呆けた声だった。
 男は片腕をぐうと伸ばす。んん、と呻いて、大きく息を吐きながら脱力した。そのままゆうらりと立ち上がり、ぐしゅぐしゅと目元を擦った。
 伊角の隣で虎八が一歩前に出る。ここに至るまでの全てが間延びた動作の男は、一度も刀を持つ手を緩めていない。
 少しの距離に目を細め、伊角は男を探る。
 歳の頃は伊角よりは若そうである。煤色の着流しを朱の帯で適当に締めており、胸元まで存分に開けていた。肉づきの薄っぺらい身体で、そのだらしない佇まいもあってまず武士ではないだろう。よくて武家を放逐された無頼の者といったところか。
 それにしては、あの適当に羽織っただけの着物が、何よりも抱えた刀が遠目にも――上等に過ぎる。
「あ?」
「――ッ」
 目が合った。
 目元を擦る指の隙間から垣間見えたのは、どこか浮き世から離れた、金色の目であった。
 伊角の視線は刀に注いでいたはずだったが、その持ち主と目が合ったのだ。まるで遮るように、だらしのない姿からは想像もつかない俊敏さで。
 にわかに身構える伊角からは興味が失せたとばかりに男がぶるぶると頭を振る。切りっぱなしたざんばらな髪が散る様は雨に濡れた犬のようで、刹那漂った剣呑さはもうない。最後にもう一度大きく伸びをして、それから男は金の目を細めた。ぎゅうと眉間に縦皺を刻み、睨むように目元を力ませている。
「……ゾロゾロゾロゾロ、こんなトコで何の行列だアンタら?」
「……っ東国は伊角様の戦行列だと言うたであろう! いいから道を開けよ!」
「いすみィ?」
 虎八は苛立たしく告げるが、男は暢気に首を傾げた。何かを探し当てるように中空を見つめている。
 周囲から閉じた七宝において、天下の覇を争う武家の名など遠い世界のものであろう。まして伊角の家は、恥じ入るばかりではあるが然程大きい家でも、古くから続く名門でもない。ここに至るまでの道中でも伊角の名を知らぬ市井の民など多くいたし、武家を相手にする旅籠の下男下女でも覚えのない様子だった。
 領地の外に一歩出れば伊角を知らぬ者がいるなど、いくら憤ろうと周知の事実だ。伊角は身の程をよく弁えている。であるなら側仕えたる虎八も理解しているはずだ。
 にも関わらずここまで虎八が憤るとは。上洛を目前にした妨害や主たる伊角に対する不遜が気にくわないのもあろうが、何よりも対する男の空気が悪い。武士の命たる刀を抱えながら、武士にはあまりにも似つかわしくない姿格好に立ち居振る舞い。武士たるとは何かを重んじる虎八には許し難いに違いない。
 そもそも、まず話が噛み合っていない。否、会話をというものをしようという気がない。虎八もだが、男もだ。
「……ア~……いすみ。いすみ? いすみィ……ナニ?」
 顔見知りに挨拶でも投げるような軽佻浮薄。何度も伊角の名を口の中で転がした末、敵意を剥き出した虎八相手にこれだ。
 伊角の名に聞き覚えがないにしろ戦行列を見慣れないにしろ、武器を携えた集団を前に男は少しも気にした様子がない。
「伊角家が御当主、耀灌様だ! 貴様、不敬であるぞ!」
「あァ、やっぱりな、それそれ」
 ついには不敬を吼える虎八を前に、まるで聞こえていないかのように男は身体を傾けた。
 目が合う。怒れる側仕えを追い越して、男は今度こそ、明確に、その浮き世から離れた金の目で伊角を見ていた。川底の砂金粒を探すような眼差しから一転、へらりと目元を緩めている。
「『いすみようかん』だ。美味そうな名前だと思ってたんだよなァ」
「貴様ァ!」
 耐えかねた虎八が前に出るが、男はひょいと避けて一歩踏み出し伊角に問いかける。
「なあ、アンタがよーかんさんで間違いねェな?」
 気安い仕草で見上げてくる瞳は底が見えない。じっとりと妙な心地が伊角の背中を這い回る。虎八の声も水を通したように不鮮明に聞こえる。
 ――何だ、この男は?
 腰の重みを確かめる。愛刀は確かにそこにあった。いつでも抜く準備はある。いつでも、抜ける。
 伊角はゆっくりと、重々しく頷いた。唾を呑む仕草を隠すように。
「如何にも。私が伊角が当主、耀灌だ」
「あっは、何だ、思ってたより若いじゃねェか」
 男は破顔した。そうかそうかと頷いて、目元に落ちる前髪を片手で掻き上げる。
 露わになった金の目が中天の陽光を受けて光る。その輪郭が細められたのは、陽が眩しかったから、ではあるまい。
「いやァ、よかったよかった。オレぁアンタを待ってたんだよ」
「……何だと?」
 背後でちゃがちゃと、刃鳴りの音が重なった。
 列を成す兵たちのみならず、笑う男の向こうの虎八も既に柄に手をかけていた。
 伊角は視線で虎八を制する。対する男は向けられたいくつもの敵意によもや気づいていないのか、あるいはどうでもよいのか。一切気にした風もなく続けた。
「アンタを七宝に入れるな、テーチョーに追い返せ、ってさ」
 光刃が奔った。
 空が真っ二つに切れる。鋼がひゅうと啼いて上段から。男のざんばら髪を散らして脳天へ一直線。確実に叩き斬る一撃。その向こうに虎八の鬼気迫る顔があった。
 獲った、と。ちいさく上がる口角が見えた。刃鳴りと敵意を前に身構えもしない男の真後ろからだ。避けられたとしても痛烈な一撃を与えることは疑いようもない。
 伊角もそう思っていた――男がひょいと首を傾け、ここまで後生大事に抱えていた刀を無造作に肩口に押し上げるまでは。
「がッ――!」
 虎八の顔面に柄頭がめり込む。そのまま勢い込んで後ろに倒れ、どうと音が上がった。
 男は虎八を振り向きもしない。肩に掛けた刀を下ろし、ゆっくりと、しかし無造作に振り抜く。からんと涼やかな音と共に鞘は悶絶する虎八の足下に転がった。その間も男は伊角を見ていた。
 伊角は男を、そして抜き身の刀身を見る。黄金の瞳は何らの気負いもなく、その様がまた剣呑だった。構えるでもなく握られた刀はだらんと切っ先を下げ、仄かに赤みを帯びた鋼を晒している。
 砲声が上がった。伊角の背後で耐えかねた武者たちが動き出す。男への罵声、伊角への喚起、虎八を案じるもの。混じり合ったそれらに押されるように伊角も抜刀する。男が何なのかを図りかねるまま。
「さあ、」
 若い衆が当主を守護せんと伊角の隣に、前に出る。背後では各々得物を構える硬質な音が重なる。
 人波に隔てられてゆく向こうで、男の舌舐めずりが見えた。
「イこうぜ――紅蓮ぐれん
 朗らかに、歌うように、男は『誰か』に囁いた。
 先に動いたのは血気に逸る若い衆だった。あるいは虎八の身を確かめに行く者もいたが、幾人かが男を取り囲んだ。馬上の者も、自ら地を蹴った者もいる。伊角は刀を構えたまま後方に下がり、幾人かが守りを固めるように周りを囲む。
 紅が奔る。地を縫うように低く奔る男が兵や馬の横をすり抜けた刹那、ぱっと紅が閃く。紅の正体はあの刀身が陽光を斬り散らす火花であり、あるいはすり抜けざまに斬られた兵の噴き上げる血でもあった。
「密に迫るな、間合いを取れ! 相手は一人ぞ! ――弓衆!」
 怒号と苦鳴と恐慌、馬の嘶く声。掻き消すように伊角は叫んだ。男を囲んでいた輪がばらばらと解けて距離を取り、緩く檻を成すように広がった。
 一人を相手に多勢で囲んだとて身動きが取りづらいだけだ。最悪同士討ちもあり得る。男が包囲を抜ける隙を与えず、刃先の届かぬ遠くから射かけるのは妥当である。
 手近に斬り付ける相手がいなくなったことに気づいたのか、男が足を止める。しかし遅い。
 撃ェ! 号令は男の足裏が砂利を踏み締める音と同時。立て続けに矢の降る鋭い音が男に降り注ぐ。
 迫る無数の矢を見上げて、果たして男は口角を上げていた。
 片手で振り抜いていた刀を両手で握り、下げた切っ先を斜めに引いている。降りしきる矢が男に触れようとした瞬間、
「――ッらァ!!」
 天へ向かって、斬り上げた。
 轟――!!
「なッ――」
 気合一声、振り上げられた刃が風を呼ぶ。渦巻いて天に上がるそれに阻まれ、矢は呆気なく落ちてゆく。その軌跡を追うこともせず、男は地を蹴り取り囲む兵に斬りかかった。
 出鱈目だ。
 前脚を振りかぶる馬の腹下をすり抜けて、尻から飛び越すようにぐるりと身を反転。勢い馬上の兵を蹴り落とし、着地と同時に腕のあたりを真上から一突き。
 くるりと手中で柄を回して向かい迫る兵をすり抜けざまに逆手で一刀、舞うように手近な騎兵を馬ごとまた一刀。横薙ぎの一撃には身を沈めて下から斬り上げ、前のめりに倒れる足軽の頭を掴んでその手を軸に宙で回る。落下の勢いに踵を乗せて兵を沈めて一刀。無造作に血を払いながら駆け出し、撫でるように斬り進む。
 累々と倒れてゆく兵たちを前に、伊角はただ言葉を失う。
 ――何だ、この男は!
「あ、はッ! どうしたどうした、ンなもんかァ!?」
 剣戟で風が起きるわけがない。馬ごと斬り伏せられるわけがない。軽々と身の丈以上に跳躍し、駆け、息も乱さず笑い続けられるわけがない!
 男もだが、あの刀もだ。構えも技もあったものではない、刀か棒きれかわからないような扱いだが、一刀で風を呼び、甲冑を砕き馬の重さを受けても軋む様子すら見せず、雑に血を払った程度でも切れ味が少しも鈍らない。
 伊角の周囲の兵たちもあまりの事態に身動ぐこともできない様子だった。ただぱっと咲いて散る紅とけたけたと響く哄笑を呆然と眺め、ついぞそれらが目前に迫って動き出したが、無駄だった。
 前に出た兵は沈み、伊角を庇う兵は倒れた。恐慌を来した馬に振り落とされ、あるいは引きずられ地に打ち付けられた者もいる。
「貴様ぁ!」
 如何に奮い立ったものか、威勢と共に一人の兵が躍り出る。虎八が一等目を掛けていた若武者だ。馬は捨てたのか逃げたのか十文字の槍を手に突貫する。
 男は笑みを浮かべたままぐっと身を沈めて穂先を避け、次の瞬間に跳躍した。ぐるんと宙で回りながら若武者の背を中空から薙ぐ。
 瞬間、若武者は即座に身を翻した。宙から迫る男の刃先に脇腹を裂かれるが浅い。勢いのまにまに振り抜いた太刀打ちが凶刃を滑らせ、遂に穂先が男の頬を裂いた。細く鮮血が弧を描く。
 ざざざと、草鞋の裏が地を撫でて止まった。槍に振り抜かれた勢いで後方へ下がった男は、低い姿勢で刀と左手を支えにして跪いている。追撃の好機だが、斬られた腹が痛むのか一矢報いたことに自ら驚いたのか、若武者は肩でぜいぜいと息をするばかりだった。槍を構えて立っているのがようようだろう。背後の伊角からは若者の身体がぶるぶると震えているのがよくわかった。
 ただ傍観するばかりの伊角も、無様に刀を抜いたまま動けない。つうと頬から血を流す男が、ゆるりと立ち上がる様を息を呑んで見つめる。
 手の甲で男は頬を拭った。どこか妙に幼い仕草で、血に汚れた己の手をじっと見ている。
「ぁ、」
 細く、男の喉が震えた。縊り締め上げた末に漏れるような、生の色に濡れた声が落ちた。
 そして、
「ッは、はははは! ヤりゃアできんじゃねェか!」
 血濡れた手で前髪を掻き上げる。露わになった黄金の瞳はどこか潤みを湛え、頬は血の跡を差し引いても紅潮していた。
 男が一頻りの哄笑の末、は、と浅く息を吐く。湿った熱が籠もる音だった。まるで褥の中で聞くような艶すら含んでいた。
「ハ――まァ――この程度じゃ、紅蓮にゃまだ物足りねェけどな」
 色めいた吐息に反し、言葉尻は無垢な童のように跳ねている。
 次の瞬間、男は武者の胸元に迫っていた。
 如何な膂力と跳躍を以てしたのか、伊角には見えなかった。ただ男の構えた刀の先が若武者の袖の下をくぐり抜け、腕を貫いて生えたことしかわからない。すぐさま引き抜かれた切っ先は血を払われ、なお刀刃に紅を閉じ込めて赤かった。
 気がつけば若武者は地に悶え伏せ、伊角は愛馬と共に一人、何の役にも立たない愛刀を提げて男と向かい合っている。
「どォも。アンタで最後だな、よーかんさん」
 打ち倒したばかりの若者を無造作に跨ぎ、すたすたと歩み寄った男は馬上の伊角を見上げて小首を傾げた。
 あるいは肩を竦めていたのかも知れない。あちこちで紅蓮を咲かせた男は斬りかかるでもなく伊角を待っている。その足下に、遠く背後に伊角の兵を累々と転がしながら。
 伊角が答えるよりも先に、これまで黙していた愛馬が高く嘶いた。男に何かを感じ取ったものか、主たる伊角を背に駆け出そうとする――その蹄の先に、棒きれのような人の足がひょいと差し出されなければあるいは逃亡も叶っただろう。
 悲鳴を上げたのは馬か伊角か、両方か。砂埃を巻き上げながら愛馬はどうと倒れ、伊角は背から放り出される。
 身体の痛みに咳き込めばすいと影が差した。恐慌を来す馬を足ひとつで転ばせた男が抜き身の刀を抱いてしゃがみ込んでいる。如何にも可笑しそうに笑みながら、伊角を見下ろしていた。
 朱の差した頬がまるで興奮冷めやらぬ童子か、あるいは恋する乙女に似ている。場違いにも思うあたり相当冷静を欠いているのだろう。伊角はぼんやり男を見上げた。
「貴様は、何だ。何故我々を阻む?」
「オレぇ?」
 黄金の瞳がぱちぱちと瞬いた。意外だと言わんばかりに、しかし直に細められる。口角を上げて吐く言葉は低く昂奮を滲ませていた。
「オレぁ火群ほむらってンだ。この――紅蓮に、ゆいいつ、選ばれた人間だよ」
 あるいは、陶酔か。男――火群は拙く、噛み締めるように区切りながら囁いた。
 それは伊角に言い聞かせているというよりも、己の裡で感じ入っているように見える。
 抱いていた紅蓮なる刀の横腹を指先で撫で、火群ははッと息を吐く。鋭く熱の籠もった息に、鋼を辿る指先の柔さが不釣り合いだった。散々流させた血を落とした刃はやはり、鋼の内側で炎が渦巻いているかのように赤みを帯びている。
 火群はきゅうと眉根を寄せる。紅潮した頬に、熱い吐息に、常軌を逸した動きで武士たちを薙ぎ払った男が何を考えているのか伊角にはわかるべくもない。落馬の痛みが徐々に引き冷静を取り戻しつつある伊角は、ただ火群を見上げていた。
 視線に気づいたのか、須臾の陶酔から火群が引き戻される。ぱちと瞬いて、熱を引きずる吐息を長く零した。
「アンタらのことなんか知ンねェよ。オレぁババアが『やれ』っつってるからやってる、そンだけだ」
 どこか忌々しげな、苛立ちを含んだ口調だ。
 つまりこの、何やら由来がありそうな刀を手にした若者は、何者かに命じられて伊角たちの前に立ち塞がったのだ。先の言葉を思い返すならば七宝に伊角を入れず、追い返すために。
「私を、殺すのか」
「ンー?」
 呻く伊角に、反して男は軽薄に首を傾げる。伊角を見下ろし、宙を見上げ、それから最後にちいさく舌を打つ。その視線はちらりと後方を振り返ったようにも見えたが定かではない。黄金の瞳に伊角を映して細めている。
 笑んでいるようにも見定めているようにも見える目だ。思わず伊角は身動ぐが、強かに地に打ち付けた身体がしばらくまともに動けそうになかった。
 伊角を気にする様子もなく、男はつまらなそうに呟いた。
「今日は殺すなって言われてンだよ。アンタ以外も死ンじゃアねーだろ」
 確かに、最後に斬りかかった若武者は脇腹を裂かれ腕を貫かれただけだ。じっと意識すればそこかしこから呻き声や微かな悪態をつく声が聞こえる。ちらりと眼球だけを動かして伺えば、よろめきながら立ち上がる愛馬と、その遙か向こうには顔を押さえて虫のようにゆっくりと這う虎八までもが見えた。
 ――ならば誰が、何のために。この男を伊角の前にやったのか。
 七宝を、宮中を、帝を目前にして、彼らの不興を買う恐れさえあるこの場所で。襲撃しておきながらわざわざ伊角たちを殺さぬように?
 悠長に考えていられる状況でもなかった。血で汚れた煤色の裾を揺らし、火群が殊更にゆっくりと立ち上がっていた。未だ倒れたままの伊角の身体を跨ぎ、そのまま下肢に乗り上げるような格好で膝を地に着ける。
 蒼穹と逆光を背負い、火群は紅蓮を振りかぶった。
 ざぐんと、控えめな土を抉る音。咄嗟に閉じていた目を開けば、伊角の顔のすぐ側に刃が突き刺さっていた。
 赤を閉じ込めた刀身に鈍く火群が映っている。影になった表情には相変わらずの陶酔が滲んでいて、鏡像にも鮮明に頬を薄く染め息を吐いた。刀身から本物へと視線を転じれば、熱を逃がすように、ただでさえ開けていた共襟を肩が見えるほど広げた火群が跨っている。裾も足の付け根が露わになるほど捲り上げられ、白く肉づきの薄い内腿を晒していた。
 ぞっとした。伊角は甲冑も身につけているというのに、それでも触れる身体の熱さに。つい先ほどまでけたけた笑いながら伊角の兵たちを撫で切りにした男が、今は伊角の上でやたら湿った熱をひけらかしていることに。
 何よりも恐ろしいのは、その体温を受けて伊角の中で渦巻くものがあることだった。
「貴、様ッ、何のつもりだ!」
 渦を切るように奥歯を噛み締め、伊角は身体を捩る。打ち付けた身体が痛むばかりで上に乗った火群は当然のようにビクともしない。妙に粘ついて濁った黄金の目が如何にも煩わしそうに伊角を見下ろしている。
 相変わらず吊り上がった口角は心なしか綻びを見せて、浅く熱を吐いていた。呼吸の度に晒された胸が上下し、昼の晴天に白い肌が浮いては沈む。
「殺しゃしねェって言ったろ? いいから大人しくしてろよ、なァ?」
 歯を見せて気安く投げかける。それは伊角に対してではないのだろう。糸を引くような甘さを溶かす視線は伊角ではなく、すぐ真横に突き立てられた紅蓮に向かっていた。
 のたうつ赤を閉じ込めた刀身に映る火群の姿は鈍く、歪に笑っている。
 伊角は胃の底が冷えるような、視界が奈落の底へ急激に落ち込むような感覚に囚われる。
 火群は完全に伊角の生死を握っているのだ。殺すつもりで立ち向かう兵を尋常ならざる膂力で、しかも殺さぬように斬り伏せた。伊角の動きを封じる位置を取り、そしてこの男が戯れにでも地に突き立てた刀に手を伸ばしひょいと振れば伊角の首は簡単に胴から分かれるのだろう。
 伊角の身体から力が抜ける。
 ――あるいはこの無為の感覚は、何かの言い訳・・・・・・なのかも知れない。
 伊角の理性は悟りながらも、しかし抗うことを手放し、冷えた腹の奥底で渦巻く熱に身を任せた。
「……――あは、」
 火群は笑うように息を吐く。緩んだ口角を舌先が舐る。
 黄金の瞳は灼け熔けた鋼か蜜のように、どろりどろりと何かを滴らせていた。


 ぴぃ――――……ひょろろ――――……
「っん、ふ、ぅ」
 遠くこだまして広がる鳶の声に、淫奔な嘆息が忙しなく重なっている。
 伊角の視線の先で、枯れ野に似たざんばらな髪が揺れていた。ちいさく上下しては鼻から抜ける吐息を漏らしている。重なるようにぐぽ、くちゅと、聞くに堪えない粘ついた水音が重なっていた。
 見上げれば青く青く抜ける空。白が霞を撫で乗せて、あまりにも長閑だった。旋回して去っていく鳶の影を見送って、伊角は場違いにも考える。遂に目にした七宝の美しさと威容とに感じ入っていたのは一体どれほど前のことだっただろう。日の高さは然程変わっていない。
 空から視線を転じ、伊角は眼前の現実を見つめる。相変わらずざんばら頭が上下して、そしてその度にあらぬところに刺激が奔っては伊角の内腿が震えた。
「ぷぁ、は……ァ、は」
 ざんばら髪を乱し、のったりと顔が上がる。完全に熱に熔けた黄金の瞳と、最早や緩みきった口元。その端からは粘ついた液を零している。追ってはみ出た真っ赤な舌先が、ねろりとそれを掬い上げた。
 尋常ならざる膂力で伊角の兵を斬り伏せたあの男――火群が、伊角の股の間に顔を伏せていた。
 伊角の屹立にちいさく舌先を伸ばし、ねとねとと光る液を舐め啜る。ちゅると奇妙に甘やかな音が響く。
 晒された白い喉が隆起し、飲み下すのも待ちきれぬとばかりに火群は首を伸ばした。でっぷりとして真っ赤に熟した果実のような雄の先端に唇をつけ、ちゅ、ぢゅうと管の中身を吸い上げる。かと思えば平べったく開いた舌で雁首から先端まで舐め上げ、そうかと思えば裏の筋や浮いた血管を辿りながら根元に降りていく。そのまま小首を傾げて鼻先を伊角の下生えに埋め、ふうふうと荒く息を吐いていた。
 伊角の草摺も佩楯もあの尋常ならざる膂力で剥ぎ取り、引きちぎらんばかりの勢いで袴に手を差し込んだ火群はもうずっとこうしている。売女でもここまでではあるまいと、まるで乳を求める赤子のように伊角の陽物を舐めしゃぶり啜り育て上げている。
 それだけではない。ぐぽ、ぬぽと混じる音は口淫からのものだけではなく、更に下からも響いている。伊角の雄をしゃぶる傍ら、火群は己の片手を尻へとやっていた。捲り上げ引っかかる程度の裾の奥でひっきりなしに手を動かしては粘ついた音を響かせ、時折びくんと腰を跳ねさせている。
 伊角も一国の主であるからして、衆道の嗜みはある。何がどうしてこの男が行為を始めたのかはとんとわからないが、恐らくかつて色小姓と戯れに耽った行為と同じものなのだろうとは思う。
 だがあまりにも違う。かつての少年たちは主に差し出すために、主の悦ぶように婀娜っぽく笑い、奉仕し、伊角の望むがまま身体を開いた。幾度か彼らを平らげたが、子こそないものの妻も側室も持つ伊角からすればやはり女の方がいい。むっちりとして柔らかくどこもかしこも男を包むようにできている女の身体の方が、締まりがいいだけで抱くのに手間もかかる硬い男の身体よりも良いに決まっている。
 そう思っていたのだ。だが、だが――これは、何だ。
「ん、ん、ン、んッ、んふっ」
「ッく、ウ」
 小刻みにざんばら頭が上下し、ぢゅぽぢゅぽぢゅぽと粘ついた音が高く響く。伊角には奥歯を噛み締めるのが精一杯で、解放を求めて浮き上がる腰を止めることもできない。それも火群の肘が押さえ込んでしまいもどかしさが募るばかりだった。
 口淫とはこれほどまでに快楽の強いものだったか。女にも男にも迫ったことはあるが、伊角にとっては中に押し入れるために勃たせる程度のものだ。強いてきた相手も伊角が求めるから応じるか奉仕の手順の一つとして施すばかりで、中にはひっそりと顔を顰める者もいた。
 だというのに、この男は。眉間に力を込めながら見下ろせば火群は陰部に懐いている。如何にも旨そうに目を細め、吸いつき、自ら頭を振りかぶって、己の下肢まで慰めながら。
 伊角など知らぬとばかりに、只管、己の欲の赴くまま。だというのにこれまで伊角に奉仕してきたどの女よりも男よりも、悦い。生き物のように絡みつく舌は熱く、口内はねっとりと潤んで、驚くほど奥まで呑み込んでは女の膣のように締めつけてくる。
「ん゛ぶ、ゥ――……ん、ンッ」
「くぁっ――ぉ、あッ!?」
「ぉご、ふッ――……あ、はッ、はは」
 射精の寸前にずるんと引き抜かれ、思わず伊角の喉から堪えていた声が漏れた。
 伊角の先走りで淫らに唇から顎までを汚した火群は嗤う。筒状にした指で喉奥まで咥えていた雄を掴み撓む皮をぬくぬくと弄びながら、伏せていた身体を起こしている。纏わりついて剥がせないほどに熔け煮詰まった黄金の瞳は細く撓り、どろどろと渦巻く真ん中に伊角を捉えている。
「あハ、ほんと、っん……アンタが思ったより若くて、よかったよなァ」
 伊角は、捕らえられている。伊角の雄で遊ぶ指先はそのままに、火群はもう片方の手でもそもそと己の下衣を探っていた。
 直に背筋を伸ばし、火群はのったりと膝を立てた。着物の裾をからげるようにして捲り上げ、薄く砂の貼りつく足のしなやかな細さと白さを存分に晒していた。鬱陶しそうに取り払われた褌はその辺に引っかかり最早何の用も成さない。
 ごくりと、飲み下す音。それは伊角の喉から漏れている。視線の先には火群の隠されるべき場所が詳らかになっている。
 若い雄が淡く色づき、泣き濡れて反り返っている。下がる双珠はきゅっと持ち上がって小ぶりな果実のように瑞々しい。しかし何よりも更にその奥が、伊角の視線を惹きつけて放さない。
 熟れたように赤く染まった秘孔が、くぱり、くぱりと息づいている。手を伸ばして慰めているとは思っていたが、陽物ではなくこちらを穿っていたのだと一目で知れた。
「どっかの、なんか、エライ? やつ? ってババアが言うからさァ。今までもそんなんばっかだったし」
 伊角の視線に気づいているのか、火群は世間話でもするかのように軽口を叩いている。その指先はにゅぽんと伊角の雄を扱き上げて、手のひらに薄く纏わる先走りを指先で伸ばしては遊んでいた。
「でも年寄りだとさァ、勃つにも、ッン……イくにも、めったやたらに時間かかったり、ぁ」
 そのまま、伊角のもので濡れそぼった指を露わになった秘奥へと伸ばす。ほんの刹那の抵抗を見せて、細くも無骨な火群の指は自身の裡へと潜っていった。
 ぐちゅ、ぐちゅんと潤んだ音を立てて出入りし、熟れた縁を僅かに捲り上げては奥へと呑み込む。ひと息に三本を根元まで挿し込んでは抜いて、開いては縁を伸ばしていく。くぱりと開くそこは内側の赤を白日に晒し、くぷ、と奥に塗り込められた粘りを涎のように垂らした。
「そのクセ挿入れたら挿入れたで、ん、ゥ、ねちこくって、さァ」
 薄い尻がくっと突き出される。滑らかで張りのある尻の肉に陰茎が滑り伊角は息を詰めた。
 少し動かせば、あの赤くいやらしく誘う孔に潜り込む。されど相変わらず身体の主導権は伊角にはない。僅かに腰を揺らすことしかできず、火群は可笑しそうにその動きを見ていた。
 立てた膝を前へ尽き出して腰を落とし、尻のあわいで伊角の雄を扱く。悪戯に先端と孔が触れては吸いつき、ちゅ、ちゅくとさやかな音が鳴る。
 噛み締めた奥歯から荒い息が漏れる。伊角は獣のように、この男に雄を突き込んで蹂躙したいという欲求を自覚していた。同時に最後の最後に残った理性が伊角自身を見下ろしている。
 一国の主として為すべきを求め、兄弟や旧臣たちを下してもなお終わりのない日々。見出した平穏への答えにはただならぬ金と、時間と、人を使って、やっと辿り着いたこの場所。帝の坐す七宝の国は目前の、こんな往来の真ん中で。伊角を慕う兵たちが倒れ伏し痛みと屈辱に呻く只中で。この惨憺たるを生み出した当の本人たる男に押し倒されて。
 ――自分は、一体何をしているのか。
「あっは、だから、」
 ――伊角耀灌とは、自分の人生とは何だったのか。
「もう――いいよなァ?」
 熔けた黄金の瞳が、幼い子どものように歪んだ。
 その視線は荒い息を繰り返す伊角の側近くに突き立てられたままの、一振りの刀刃にだけ注がれていた。
 ――これだけ伊角耀灌という人間を掻き乱しておいて、この男は伊角のことなど一顧だにしていないのだ。
 ぐぷんっ!
「お゛ッ――……♡」
「ぐぅっ……!」
 あまりの衝撃にばちばちと伊角の視界が瞬く。つんと尖った乳首を見せつけるように薄い胸を反らし、天を仰ぐ火群が明滅の向こうに見える。
 先ほどまでの遊ぶような触れ合いなど比べものにならない。重たく質量のある水音と同時、伊角の怒張はみっしりとした肉の壁に埋まっていた。根元から先端まで、焼けるほどの熱に包まれぎゅうぎゅうと絞られている。女の膣のような柔らかさとは程遠いのに、肉襞がまとわりついてねちねちと絞り上げる感覚はあまりにも強い。過ぎた快楽は痛みに似るのだと、挿入の衝撃に果て損ねて伊角は知った。
 顔を顰めながら見やれば、火群の立てられたままの膝がかくかくと震えている。後ろ手に伊角に跨る格好は辛うじて崩れず、故に結合部がまざまざと見て取れた。
 ようやっと侵入を許された伊角の魔羅は根元までずっぽりと咥え込まれていた。伊角の雄を喰い締め皺もなく伸びきった後孔はひくん、ひくんと喘ぐように蠕動し、ほんの僅かな緩みの隙にこぽりと粘性を零しては陽光を反射している。淫猥な光を覆うように淡く影を落とす張り詰めた双珠といっそ健気なまでに伸び上がる火群の雄は、身体の震えに合わせてふるりと揺れていた。
 影が動く。弓なりに撓って天を仰いでいた火群の頭が壊れた玩具のようにぐるんと落ちる。枯れ野色の旋毛を晒して俯き、ぶるぶると震える。
「ぉ、あ……っは、ア♡」
 そうしてゆるりと持ち上がった顔には、粘つき絡みつくような喜悦が浮かんでいた。
 火群は後ろ手に突いていた腕を前に回し、伊角の胴へと突いた。ぺたりという妙にかわいらしい音に、前のめりの姿勢で迫る笑みはどこか幼い。恋に恋する乙女のように熔け落ちて、そして伊角の隣の鋼を見つめている。
 伊角に認識できたのはそこまでだった。
「あッ、はァっ、ァ……ハ、ハハ! ア、ハ!」
「う、ぐゥ!?」
 ぐぽぐぽぐぽぐぽ、ぐぽっ、ぐぽ!
 ひっきりなしに含んだ音が続く。火群の身体が弾んでは沈む。
「ふッ、お゛ッ、ぐっ、くうぅッ!」
「あッはァ、悪かねェじゃねーか、なァ! なあッ! あ゛、は、は!」
 哄笑を上げながら火群が腰を振りたくる。みっしりと包む肉壁は伊角の陰茎を根元から先端まで吸いつきながら扱き上げる。
「ぐぅ~~ッ!」
「オレがッ、イくまで、アは、保たせろっ、よッ!」
 殊更に尻を振って打ち付け、火群はそのまま腰を捻った。ぐぽんという空気を含んだ音が往来に響き、伊角の怒張は根元から先端まで絞られる。ぐりぐりと尻を押しつけて、かと思えばきゅうきゅう甘えつく肉びらを振り切るようにまた腰を上げては落とす。ずるん、ずると、濡れて摩擦する粘膜が嬌声を上げている。
 これはまぐわいなどではない。暴力、暴虐、蹂躙。そう呼ぶに相応しい。保たせるも何もあるものか。あまりに過ぎた感覚は最早気持ち良いのかも判別できず、火群の言葉の意味を理解する理性も塗り潰されていく。
「あはっ、ァ♡ あ゛あああッ、アぁ、見てっ……なァ、ア♡ あ゛ぅ、うッ、見て、ぇ♡ あ゛っ、あア゛ァ!」
 濁った喘ぎの最中に火群がせがんで甘え啼く。うっとりとした視線は赤を封じる刀刃に注がれている。
 思考が塗り潰されていくがまま、伊角は虚ろな目で顔の真横の鋼を見る。意図があったわけではなく、揺さぶられるがままの反動と火群の視線を追う反射でしかなかった。
 しかしそこに、伊角は確かに見たのだ。
 赤い鋼に鈍く映り込むのは、狂ったように伊角に跨り啼き喘ぐ男。それから――その背後にゆらり、と。忍び寄る影。
 伊角は思わず刀刃の鏡像から実像の火群へと視線を転じる。喘いでは揺れる頭の向こうに、顔を血で赤く染めた虎八がいる。
 刹那、消えようとしていた伊角の理性が舞い戻る。
 そうだ、確かに伊角は見ていた。馬から振り落とされ、火群に殺すのかと問い質したとき。苦鳴と呻きを連れて倒れ伏す伊角の兵たちの中、虫のようにゆっくりと、されど確かに這い進む側仕えの姿を。
 見て、見てと、誰かに向かって啼きながら、相変わらず火群は伊角の上で腰を振っている。背後の虎八に気づいた様子もない。這々の体らしい虎八は酷く時間をかけて黒く艶濡れた鞘を振りかぶり――
「若様ァ!!」
 ――淫らに揺れ跳ねる、ざんばら頭の脳天に振り下ろした。
「――嗚呼、」
 ひゅうと細く裂ける音は打音だったのか、末期に等しい虎八が絞り出した裂帛だったのかは定かでない。
 鼻から深くふかく抜ける、甘やかな嘆息。
 赤が閃く。散る。軌跡が湿った空気を裂いて残像を残す。枯れ野の髪がばらりと散った。
「――今、最ッ高にアガってるトコだろォが!! ア゛ァアア゛!?」
 伊角の真横から引き抜かれた紅蓮の切っ先が弧を描き、振り抜きざまに虎八の太腿を貫いた。
 元より限界だったのだろう、虎八は悲鳴も漏らさない。そのまま膝から崩れ落ち、火群は振り返ることもなく紅蓮を引き抜いた。背後から飛沫く鮮血を気にもかけず、逆手に握っていた紅蓮をそのまま胸に抱え込む。
 血を浴びながら柄に頬を擦り寄せ、血濡れた峰に剥き出しの胸を、乳首を、肌を擦り寄せて。熔け落ちる黄金の瞳がきゅうと絞られ、光彩が赤く霞む。酷く濡れた唇を、反った白い喉を震わせる。
「ぁ……あ、イくっ♡ 見てっ、紅蓮♡ 紅蓮っ♡♡ ぐれ、んンっ……んんうっ~~♡♡♡♡」
「ぅぐッ――!」
 白く弾ける感覚に、伊角はぐっと目を閉じた。倒れ伏して呻く側近の姿を追い出すように。
 こうも甘く痙攣する肉壁に耐え切れる人間がいるだろうか。びく、びくと断続的な締めつけに、遂に伊角は精を吐いた。
 遠い故国から引き連れた精鋭たちも、幼い頃からの片腕である側仕えも、伊角耀灌という男の全てをも斬り伏せた男の中に子種を蒔く。それは酷く、酷く、恍惚とした感覚だった。
 ぱたぱたとちいさな音が散る。ビクン、ビクンと痙攣しながら、火群も吐精していた。土と血で汚れ果てた伊角の胴に、渦巻く炎の赤を閉じ込め散々に伊角の兵を斬り伏せた刀刃に、同じ白い種が散っていた。
 はふ、と熱の籠もる湿った吐息。紅蓮の鍔に額を預け、火群は目を伏せていた。濡れた睫毛が震え、時折ぴくんと余韻に身体が跳ねる。その度に白濁が薄い腹をつるりと滑り落ち、濡れた下生えとくったりと力を失った若い雄の上で溜まった。
「あは……」
 流れる精液を逆撫でるように、火群は己の腹に指を伝わせる。肉越しの薄い圧迫感に伊角もちいさく腰を跳ねさせた。
 薄目を開けた火群はゆるりと笑みを浮かべ、指先に纏わる己の精液をぢゅうと吸った。垂れて溜まった手のひらの白濁も啜り、見た目だけは真っ新になった手で紅蓮の柄を握り締める。そのまま刀を支えにゆっくりと腰を上げた。
「んっ……」
「ぐ、っ」
 やわやわと絞られる感覚に伊角は呻くが、火群は最後ににゅぷんと粘ついた音だけを残して伊角のものを腹から追い出した。引き抜かれた伊角のものはまだ淡く硬度を保ち、赤黒い先端から白い雫を散らして跳ねた。
 赤くぐずぐずに綻んだ孔から内腿まで精液を垂れ流したまま、火群はゆうらりと立ち上がる。仰向けのまま伊角が見上げれば枯れ野の前髪から覗く黄金の瞳は熱を残しながらもどこか倦んでいた。絶頂の寸前、その瞳に差した赤色は霧散している。
「ァ――……ねェわ、最後のだけは……ッとによォ」
 伊角の身体を跨いだまま、火群はひゅんと紅蓮を振った。虎八の血やら火群の精液やらが混じった液体が払われる。地面に弧を描いた斑な赤を振り返るでもなく、静かな赤を呑む鋼に戻った紅蓮を見つめる火群の瞳は狂った陶酔も鳴りを潜め、どこか切なげに細められていた。
 それも刹那のことで、火群は蹲る虎八に一瞥もくれず脳天に振り下ろされた鞘を拾い上げる。惨状にそぐわぬ涼やかな音と共に納刀する様に、この男が虎八の顔面を砕いた際に鞘を放り投げていたことを伊角は茫洋と思い出していた。
 伊角は未だに己を跨ぐ火群を見上げる。煤色の着物を乱し、火群は血と精に濡れた上半身を晒したまま緩みきった帯を締めることもしない。股の間からは伊角の精液を垂れ流して、紅蓮を片手に無造作に立ち尽くしている。
 この男は、次はどうするつもりなのか。自分は、伊角は、どうなるのか。落馬し打ち付けた痛みは性交の感覚に掻き消されたが、今度は搾り取られた身体が億劫で動けそうにない。太腿からだくだくと血を流す虎八もこのままでは危ないだろう。
「――伊角」
「耀灌様――」
 答えは予想もしない形でもたらされた。
 累々と倒れ伏す兵たちに、血と苦鳴が広がる惨状。往来の真ん中で性交の痕跡も露わな男たち。
 惨状には全く似つかわしくない、鈴を転がすような少女の声が響く。
「――典承殿てんじょうでんは」
「今上より」
「詔でございます――」
 緩慢に声の方へと首を巡らせる。火群もつまらなさそうにそちらを見ている。
 遠く霞む朱の神殿、白の羅城に囲われた都、黒曜の城門。七宝の国、ヒノモトの威容と神意そのもの、伊角が領地領民のために目指した場所。
 それを背負って、ちいさな影が四つ並んでいる。恐らく並んで立てば伊角の胸ほどの背の高さもないだろう少女たちだ。
 伊角の身体が、違和感に冷えていく。
 七宝は限られた者しか出入りを許されない、閉ざされた国だ。内ならまだしもその外に、こんなに年端もいかない少女が四人も並ぶだろうか。しかし本質はそこではない。
 少女たちは皆、単と袴に唐衣を羽織り、裳を長く引いている。伊角の城にもいる自身や妻たちの世話をする女房の装束と何ら変わりのない格好だ。往来を出歩くにはあまりにも相応しくないし、幼い立ち姿が纏うには違和感がある。
 何より少女たちは皆、一様に表情が見えない。遠いだの無表情だのではなく、物的に見えないのだ。四人共が面布で顔を覆い、目鼻口の代わりに十の字を円と曲線で囲んだ紋がじっと伊角を見つめてる。
 今度こそ、伊角の身体から血の気が引いた。
 重ね円に十文字。この紋が何を表すか、何と呼ばれる紋様なのか、少なくともヒノモト武家で知らぬ者はいない。
 何より少女たちは口にしたではないか。「典承殿の今上」と。
 気づき震える伊角に構わず、少女たちは『詔』を詠い上げてゆく。少女らしい甘やかな声ながらどこか平坦で、まるで作り物のように冷たく、丁寧に。
「――伊角耀灌、」
「伊角の国より遠路遙々、大義である――」
「――しかしながら其方では、」
「七宝の地を踏むに能わぬ――」
「「「「――疾く、国へ帰られたし――」」」」
 水を打ったように静けさが広がった。
 心の臓を氷水に浸けられたようだ。伊角は辛うじて細く息をする。ぐらぐらと揺れ暗がる視界の中、少女たちは鋳型から抜いたように同じ格好のまま微動だにしない。
 重ね円に十文字。七宝十字とも呼ばれる、ヒノモトを統べる宮中の紋。七宝の国に聳える神殿の最上階、全てを見渡すであろう至尊の頂きは典承殿と呼ばれ、今上帝のおわす聖なる場所である。伊角とてその程度の知識を得て、この上洛に臨んでいた。
 つまり、この少女たちが死をも恐れぬ冗談を述べているのでなければ。
「――火群、」
 唐突に挙がる名に息を呑んだ。
 相も変わらず紅蓮をぶら下げ伊角を跨いだままの男は襟を正しもせず、血と精液に濡れた格好で立ち尽くしていた。やはりつまらなさそうに、少女たちに名を呼ばれて驚いた様子もなく視線だけで応える。
「今上がお呼びです――」
「――共に戻りますか――」
「オレが今までお前らと戻ったことがあったかよ。適当にする。ババアは待たせときゃいい」
 どォせここも見てンだろ。吐き捨てるように呟いて、火群は紅蓮を肩に担いだ。その視線は少女たちから遠く羅城の深奥、霞み聳える朱の神殿へと注がれている。
 急に、伊角は視線を感じたような気がした。同時に悟った。
 未だかつて、どこかの武家が上洛を果したなどという話は聞いたことがない。
 曰く、七宝を守護する近衛府はあまりに強固で、戦慣れした兵たちすら寄せ付けない? ――否、近衛などではなかった。
 曰く、招かれた者であっても帝に拝謁する値しないと判じられれば文字通り門前払いの憂き目に遭う? ――是、伊角は試された。
 ――誰が、何のために。この男を、火群を伊角の前にやったのか。七宝を、宮中を、帝を目前にして、彼らの不興を買う恐れさえあるこの場所で。襲撃しておきながらわざわざ伊角たちを殺さぬように?
 ――それは。
 伊角も火群の視線の先を追う。
 こんな七宝の外からでは、あるいはあの精緻に編まれた柱の群れの麓まで寄ってすら、伊角には一目見ることなど叶わない。ヒノモトで最も高く尊き方。連綿と続く血の現人神。
 伊角を待っていると言った宮中こそが、伊角に泥をつけて退けた。
 わかっていた。初めから、伊角に好機などないのだと。それでも。
 水を打った静けさにみっともなく嗚咽が這う。
 少女たちの姿はいつの間にかなかった。火群は地から天を仰いで涙を流す伊角を路傍の石でも眺めるように見下ろし、乱れきったままの格好で煤の裾を翻した。
 後には無様な伊角とその兵たちと、火群の股から伝い落ちた白濁だけが虚しく地に散っていた。


「――シロに見えるのはここまでです」
 なよやかな手が、ちゃぷんと水面を撫でた。
 淡く波紋を描くちいさな泉には、二つの人影が逆さまになって映っている。
 一人は少女。肌も髪も酷く白い少女だ。まるで屋敷の奥で大事に飾る人形のような雰囲気だが、旅慣れたものか衣の裾が汚れるのも気にせず泉の縁にしゃがみ込み、市女笠から垂れる衣をやわく持ち上げて水面を覗き込んでいる。
 少女は白魚の指で幾度か水面を撫で、波紋だけが立つ様に微かに肩を落とした。
「十分だ。ありがとう、シロ」
 揺れる水面に映るもう一人は、青年だった。短い髪を結い上げ簡易な脛当てと籠手を身につけ、腰には刀を差している。如何にも旅の武士といった風情の青年は壊れものを扱うかのようにシロと呼んだ少女の手を取り、そっと水から掬い上げた。
 羽織の懐から取り出した手巾で丁寧に少女の指を拭いながら、青年が問いかける。
「身体の具合はどうだ。大事ないか」
「恙なく。……氷雨ひさめの役に立つこと。それだけが、シロの望みですから」
「止めてもいいんだぞ」
 青年――氷雨は少女のちいさな手を見つめながら、低く呟いた。
 ゆっくりとシロは目を瞬かせる。水底の深い色をした瞳で、静かに氷雨の顔を見つめる。
「それは、氷雨の方ではありませんか」
「…………」
 しばし沈黙が落ちた。
 風に撫でられた水が囁く音と、周囲を囲む端を黄色く染め始めた笹の葉が遊ぶ声。静かで穏やかなそれだけが二人の間を支配する。
 氷雨は硬く表情を強張らせていた。眉間に浅く皺を刻み、少女の白い手のひらを見つめる瞳は微かに揺れている。
 シロは自らの手を拭う氷雨の手に、もう一方の手を重ねた。びくりと明確に震える身体を全部受け止めるように、大きく硬い青年の手のひらをやわく撫でる。
 使命と信念と矜持を持って刀を振るってきた手だと、短い付き合いではあるがシロは知っている。
「シロは構いません。何があっても、氷雨の決めたことに従います。氷雨こそ、止めてもいいのですよ」
 だからといって、振るい続ける必要はない。
 使命など見ないふりをして、信念など捨てて、矜持など曲げてしまえばいい。氷雨が思うことを、氷雨が決めたようにすればいい。誰に何を言われようと何を背負っていようと、この青年は心優しいただの人なのだ。
 決して心が楽になる道を選ぶ、そんなことはできない人だと知ってもいるけれど。
「……大丈夫だ」
 臓腑の底まで浚うような、深い嘆息。
 氷雨は声を吐き出して、今は風に揺れるだけの水面を見つめる。縋るようにやわくも強く、シロの手を握り返しながら。
「俺は、俺の罪を――確かめ、正す必要がある」
「……そうですね」
 凪いだ水面に、氷雨にはまだ見えているのだろう。つい先ほどシロが見せた、ここから少し先で起こっていることが。
 今上帝の住まう七宝の外、明るく賑やかな都の姿とは裏腹な一方的な蹂躙。
 炎の名を持つ妖刀と、その持ち主たる尋常ならざる力を振るう男。快楽に身を任せ、命じられるまま、他人など芥のように扱う存在。
 遠く高みから睥睨する、人外の刀と男を使い、他人をいいように弄ぶ存在。
 シロは目を閉じて耳を澄ませる。
 さらさらと笹の葉が、水面が揺れる音に、ここにはいない誰かの声が聞こえたような気がした。
「それが罪なのか、それとも善なのか。確かめてみないと、わかりませんから……」
 その声は、誰かを待っている。
 ただの気休めに聞こえたのか、氷雨は低く幽かな声で「ああ」と頷いた。シロよりもずっと大きな氷雨の身体が、今は幼い子どものように見えた。
 僅かに丸まる背の向こうで、腰に差した刀が静かに蒼く刃鳴りを散らしている。
 誰かを、呼ぶように。


「ふむ」
 山の頂ほどもある神楽殿。七宝の、あるいはヒノモトの全てを見渡せる拝殿に少女は佇んでいる。
 やわく腕を振れば、しゃらり、しゃらりと、幾重にも重ねられた単が鳴った。宙にあった何か・・を掻き消して少女は満足げに頷く。その視線の先には朱塗りの欄干越しに黒く濡れ羽色に佇む羅城門が、あるいは淡く黄を混ぜた緑の生うる竹林があった。
「――瑠璃るり様」
「うむ?」
 ちらりと目端だけやれば、七宝十字を描いた面布の少女が二人控えている。伊角耀灌にやった少女たちと全く同じ姿かたちだ。彼女たちは瑠璃の側近であり、意見役であり、また別の何かであった。
 その少女の一人が僅かに背を伸ばしている。物言いたげな姿に少女――瑠璃は、ちいさく笑った。
「其方の言いたいことはわかっておる。だが今日ばかりはな、急いても仕方あるまい。彼方が着くに時間がかかる」
 ちらりと、先ほどまで見つめていた緑へ視線をやる。緩やかな竹林を抜ける頃にはだいぶ日も落ちているだろう。
 彼らこそ、今日お帰りを願った伊角とは違い、正真正銘瑠璃が招いた客だった。
「――それはわかっております。が、あちらは」
 あちら、を察して、瑠璃は苦笑した。
 フラフラと薄汚れた格好で市井をうろつく飼い犬はお世辞にも褒められたものではない。が、何せ言うことを聞かないのだ。いい加減理解しているだろうに、この少女たちは同じ物言いを繰り返す。
「まあ、風呂だけ用意しておけ。あれは風呂だけは此方を使いたがるゆえな」
 とはいえ今晩帰ってくるか、はたまた明日の朝か、昼か。仮にあちらの到着に間に合わないようであれば無理にでも呼び戻すまでである。
 ここが七宝の国である限り、今上帝にはその程度のことは造作もない。
 今一度、朱の欄干の下に広がる景色を眺める。安寧と繁栄と、混沌と動乱と。崇敬と疑惑と。全てを呑み込み、隠すこの都に、ようやく蒼と紅のふた振りが揃う。
「――いざや、神楽を奉ろうぞ」
 ヒノモトを統べる七宝の頂点、今上帝――瑠璃は、ちいさく呟いた。
22.1.20 up 
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